インタビュー記録

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母と、姉と姪と。
父は4歳で亡くなったから顔も分からない。
戦争のことは話だけでは、本当に味わっている人じゃないと。大変なことだったから十分に話すことはできないさね。

1944(昭和19)年10月10日

山に防空壕を作ったから木を切りに行ってた。日本の演習で誰もあまり関心がないから隠れもしなかったけど。

1945(昭和20)年

3月からだね。どんなに言っていいか分からない。
玉砕場(ぎょくさいば)でお姉さんも姪っ子も一緒だったんですよ。お姉さんの旦那が兵隊行ってるから。玉砕場で手榴弾で、地域の人たち、親戚、みんな一箇所に集まって、あっちもこっちも。死ぬのは恐くないから、もう先に死んでいるほうがいいという感じだから、いいねと。だけどこの手榴弾が破裂しないのが、生き残ってる。持っている人。それが終わって・・・・・・、玉砕場で死にきれないのがあちらへんでまた、いろんなやり方して、お互い持ってる道具でねえ、生きるのが大変だからいろんな殺し方して、持ってる道具で。

幸いうちのところはあんまり犠牲者は出なかったけど、うちのお姉さんが爆弾で頭やられて、中の脳が動くのが見える。飯も食べきれない。かつおぶし、山の上に持って行って、お砂糖と、石で砕いて水と流し込んで。こんなしている人が90まで生きて。あんなにしても生きられるのかねえと思って。

うちはアメリカ兵が斥候で4~5名、山に隠れている時に向こうから、この兵隊は見えるところにいるわけ。日本兵じゃないねと思って逃げようとしたら撃たれたけどね。お母さんは頭をやられて即死だったけどね。お姉さんはあの時まで歩けないからずっとおんぶして、弾撃たれたら瞬間的に歩けたのかいなくなってるわけ。いざとなったら人は元気でますよ。


2日経ったら、探して来てた。姪っ子と2人で、皆逃げて誰もいないから、アメリカが廻ってこないかねえと思いながら、姪っ子は4つだね。
抱えてずっと伏せていたら、もう1人のおばさんがやられて、肩からずーっと血が私の上にも、私の着物も乾いたら固くなって。
人を探さないと誰もいない、私と姪っ子と2人しかいないから。逃げいて行って上に行ったら日本の兵隊がいるわけ。そしたらこの人が「やまとんちゅう」だけど、乾パン一袋食べながら、「みんなあっちに避難してるから、あっちに行きなさいね」って。行ったらあっちは余計いっぱいの人が亡くなって。どこから撃たれたのか、日本兵が撃たれたのか、アメリカさんに撃たれたのか分からないけど、いっぱい。あの時は早く死んだほうがいいしか思ってないから。みんな生きることより死んだほうがいい。いいねえ、先に死んだ人はいいねえしか考えないからね。


戦争終わってからでも8月までずっと山の中だから。食いモノもない、何もない。
兵隊さんでもいい人と悪い人がいる。とってもいい人だねとお世話になってた兵隊は亡くなった。高橋さんという兵隊さんは、本当にあの人は生きて欲しかったわけ。だけど戦争でこっちで亡くなったわけ。うちの友達4名ぐらいで、最初はこの兵隊さんはハブに咬まれた、治ってから壕の中で機関銃でやられてね。本当にいい人だった。この人のためなら食べ物、自分たちの分けてあげるというぐらいにいい人だった。戦争終わってから、遺骨探しに、友達2~3名で、この人のだけ、みんなはまとめて一箇所だけど、この兵隊さんの骨だけちゃんと取ってね、いつかは世の中が変わったら家族でもいたら訪ねてくるはずだからと言って、この人のだけちゃんと取ってね保管してたけどね、こなかったさ。このままにしてはあれだから、白玉の塔に一緒にしようねと。今でも、家族も奥さん子供もいる年頃だったから、いなかったのかねえとみんなに尋ねるけれど、どこの県の人というのを聞いてないから、惜しいあの人だけど。


あっちから撃たれたらこっちの壁側にくっついて、こっちから撃たれたらこっちにくっついて、どうして生き残ったのかねえと不思議なぐらい。話も及ばんね、本当。
意地悪な、もの凄い悪い兵隊さんもいるし、こんないい人もいるし。戦争だから仕方ないけどね。あるさね。民間人がいたら邪魔って、邪魔になるって言ったからね。みんな山に避難しに本部に行ったら追い払われて。戦争中に先に捕虜されてる人たちなんか、見つけられたら大変だから。こんな人たちが何名か殺されてるさ。

(日本兵に?)

うん、日本兵に。

朝鮮人なんか、こんなこと本当にね、戦争だからこんな心が出てるのかねえと、朝鮮人なんかたくさんいたから、うちなんか見てないけど見てる人が穴も自分で掘らせて、周囲に座らせて首切ってすぐに穴に入れるの見た人もいるって。

(この島での出来事ですか?)

島で。もうやるの見てたら大変であったよ。同じ部下でも、うちらが何かあげるさね、大きい家だから屋敷使って、兵隊も民間のおうち借りてたから、一番ひもじくしてるからって何かあげるさね。これ見られたら最後、どんな寒いときでも靴脱いで(靴で強くビンタをする仕草)。これってやって痛いと思わないかね。それで1人の兵隊なんか、あんまり叩かれたから身体壊して。成り上がりの兵隊じゃなくて、学問で上がってる兵隊だから、何も分からない兵隊だった。だから何もあげられなかった、何があっても。あげてるの見られたら大変だから。

いい人もいっぱいいたよ。非常にお世話になっているところの、伍長ぐらいだった、戦争中に避難している時に稲刈りに、山に避難していながら降りてきて夜稲刈りに、兵隊も食べるものないから、あっちもかりてるみたい。
そしたらあれ見たとき本当に酷いなと思った。このおばさんが担いでいる稲は自分たちの借りてるのって、何かのけち付けたんじゃない。とっ捉まえて、知ってる人だよ、それも非常にお世話になってるおばさんだけど、大きな木に縄でしばってちょっと離して、この木に頭強く打って跳ね返るさ、本当に人間のすることかねと思った。

でも非常にいい人もいたよ。

(高橋さんは何が他の人と違ったんですか?)

優しかった。すらっとして、姿から心からみんな良かった。今でもみんな話するよ。上司の人に戦争終わってから参拝に来る兵隊さんもいたよ。聞くけど分からん、高橋っていっぱいいるさね。故郷(くに)が分かればあれだけど。行くときに「おばあさんの仇取って来ようね」と言ったからね、その日に亡くなった。一番思い出に残ってる。とってもスマートで、顔もいいし、心もいいし。あの人と海野さんと。兵隊も年いってる人はいいけどね。アメリカ兵はどうのこうのと言いながら。


捕虜になって座間味に連れて行かれた。そしたら、座間味に行くときにお菓子から何からあげたって。アメリカ兵は悪いイメージしかないから、お菓子なんかは毒か何か、強くかみ締めたらすぐ死なれるよって、連れてったらどんなされるか分からんから。おばさんなんか噛む次第に元気になったって(笑)。
でも渡嘉敷にいた隊長はあまり評判良くなかった。全然穴からは出て来ないで、赤松隊長ね。兵隊が民間守るかねと思ったら、民間の食べ物を皆取って食べるぐらいだから。隣のおじさんが防衛隊で、座間味と渡嘉敷の間は軍艦いっぱいだから。食糧なんか浜に船から落とされて寄っているのを探して来たから。これで天ぷらか何か作って、このおじさんが上司にあげたら、暇をくれるから、暇を貰ってまた探して、山に入っている時はそんなに食べ物に困ってなかったけど、うちはおじさんが一緒だったから。
戦争中は話しに及ばんね。
みな焼夷弾で、木はないから、山は半分も焼けてないから。


最後が最後。ビラ撒かれたから、戦争が終わった日に。戦争は終わったって山にビラ撒かれて、その日に引率して降りて、最後に降りて来たけどね。相当いましたよ。捕虜になってるのは一部分しかなってなかったから。

朝鮮の軍夫、先に捕虜になってるから、日本の兵隊が来る時は先にあっちへ行って、うんとやられたみたい。本当に軍夫って生き残ってるのもいるさあね。やられてるの分かるから、今韓国人がよくもこれで日本を嫌いにならないのか不思議なぐらいさ。相当やられてるからね。(兵隊が主にやっていたという事ですか?)日本の兵隊が、日本は戦争好きさね。偉い人は死なないで、弱い人が。今あちらへんで戦争するところ、可哀相だねと思う、自分たちが味わって来てるから。絶対戦争は駄目、戦争は駄目よ、若い人たち。だけど今の子供たちの時代になったらまたないかねと思って。絶対偉い人は犠牲にならないからね、自分たちは隠れるから。弱い人から犠牲になるからね。

(自決場に行くことになったのは?)

こっちが分からないのよ、誰が命令したのか。自分たちはこっちの壕があったわけよ。こっちに避難しておけばどうもないのに、みんながあっちに行くからあっちに付いて。もう雨もじゃあじゃあ降る、もの凄い雨だったのね。なんでどこに行くかねって付いて行ったら山越えて、もう夜からよ。昼は行動出来ないから、こんな山道を夜しか歩かんから。行ったらみんなこうなってるから。手榴弾というのも兵隊が持ってるのさね。誰の命令か分からんけど、その当時の村長は渡嘉敷(部落)の人じゃなく、阿波連(部落)の方たちは村長が命令してなかったかねと、ことだったか分からんけど、非常に言われていたよ。誰がか分からない、付いて行ったらみんなあっち、あっちに行かんのは助かってるわけ。行かないのもいたよ。(行く時も集団自決になると思って行ったわけじゃなくて、)付いて行ったらみんなこんな。分かってる人もいたんじゃないかね。最後の着物も上等から持って、履物も新しいのを持ってる人もいたから。兵隊からか村長からか分からんけど。

親戚は親戚、隣近所は隣近所どれがどうなってるというようなことはあまり分からんけど座ったらもう親戚、うちらは一緒だったけどね。死ななくなった、生き残ってるのはみんな立って、逃げる途中に弾でやられて亡くなったのもいっぱいいるけど。手榴弾が破裂しなかった。兵隊の経験はない叔父さんだったけど、隣のおばあの兄弟だったけど、自分で持って破裂させたから、自分の手がみんな。破裂はしてる、あの時うちの姉さんも頭やられてる。怪我したのはうちの姉さんと、三郎叔父さんは亡くなったわけ、持って。どんなになってたか、生きてる人は立って。○○の人たちは特別に道具持ってたから、鉈であれするのもいるし、持ってる道具で、分かって来たんじゃないかね、阿波連の人たちは。自分たちの壕で避難しておけばこんなに犠牲者は出ない。でもよ、一家全滅したところもありますよ。2~3箇所は全滅している。ずっと奥の方だけどね。


いざとなったらみんな、ない力も出るさ。自分と同じ大きさの人おんぶして山道も歩いているから。今の村長なんか山の中で生まれているのよ。雨もざあざあ降るけど。運命でもあるはずよ。うちなんか同じ所に一緒に立っても、当る人にしか当らんさあねえ。
先に亡くなってるのいいねとしか。明日は自分の番、自分で決めてよ。だから日本の兵隊が、知ってる兵隊さんで、「お菓子も食べてみ。兵隊を信用しなさいよー、守ってあげるから」とお菓子渡されたけど、食べる気にもならんさね。小さい子にはあげて。兵隊でもいい人もいるの、うん。兵隊は偉いと思ってるから、非常によくしてあげたのよ。各民家、民家に入ってるから。お母さんがやられて、こっちがわ逃げる時にも、またアメリカ兵かねと思ったらこの兵隊に会って、こっちに来なさいねと、行ったらこっちもやられて。「もう少し日本の兵隊信用しなさいよ」って、信用どころじゃないのに。本部に行ったら追い返されて。赤松隊長は相当島の人らは。だから1回も。他の兵隊は戦争が終わってから慰霊祭にも来たけど、途中で追い返されるから。


稲守 信子さん(2)につづく

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