インタビュー記録

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1944(昭和19)年10月10日 十・十空襲

 おばあさんと朝ごはんを食べていたら、10時ごろですかね、アメリカの飛行機が飛んできて、おばあさんが「普通の友軍とは違う」と言われて、私は大変臆病だったので、走って防空壕に隠れたんです。隠れていると、街はみんな焼けてしまったんで、壕から出てくるとみんなおどおどして、東に行く人、南に行く人、いたんです。
 翌日も何機かの飛行機B52が飛んできて、港にある船を攻撃したんです。何列もの飛行機がですね。街は火の波になったんです。
 1週間くらいですかね、焼かれて。おばあさんと何処に行こうかなと途方にくれました。そのとき、道に倒れている人とか自分の家族を追いかけている人とか。街の人が自分のお家を見たときに、全部灰になって、呆然と立っているところです。北部に行く人と南に行く人。

座間味島へ疎開

 皆さんは南北に分かれたんですんが、おばあさんと私は船で座間味島に移動しました。静まり返った海で、3-4時間の時間的な感覚です。
 座間味島では大変大きな家に両親が住んでいました。当時は日本軍が5-6名同居していました。私たちも、日本軍と一緒に、田中さんという人にかわいがられて、金平糖とかもらっていました。お家に兵隊さんが住んでいるので、朝、起床ラッパがなって、これに起こされて、列を作って山にいくんです。戦争の準備として防空壕を掘るんです。こういう暮らしをしていました。
 近所の友達と遊んでいるときもありました。

 ある日、サイレンがなって、空襲警報が発令されました。みんな、発令となると、防空壕に走って逃げるんです。何十列にもなったアメリカの軍艦が島を取り巻いたんです。そして、軍艦からも攻撃する、空からも攻撃するで、あの小さい島が地響きして、形もなくなるんじゃないかと思うくらいでした。
 空襲警報が発令すると、両親が学校にいますので、子供を各家庭に返してから戻ってくる。私は家にいるので、近所に校長先生の奥さんがいらっしゃって「和子さ~ん」と呼んで、壕のところに駆けていくわけです。空と海からの攻撃で山がみんな焼けてしまったんです。火に追い出されて、私は爆風で滝つぼの方に落とされてしまったんです。ところが母は私が滝壺に落とされても振り向かなかった。物心が付く頃だったので、振り向きもしない母親だという感じを持ち始めたけれど、親を追いかけて、何とか辿り着いた。
 20日頃から島には低空してくるB-29の飛行機がきたんです。大きな飛行機を見たことがないので、みんなで騒いでいた。けたたましい音で、ばばばばばっと弾を落とすと、ほんとに地面は地響きするし、揺れるし、火は燃え上がるし、必死に、こういう場面にあった人でないと、生と死の間を潜り抜けるので、ものすごく真剣です。

1945(昭和20)年3月26日 米軍上陸

 戦車、陸も海面も走り回る戦車みたいなのが、どんどん来てました。米兵がどんどん降りてきて、山の上のほうに進んでいった。
 何日かすると、アメリカ兵が上陸するということで、村には居られないので、山の反対側の自然壕に逃げていくんです。ガマといいます。ガマ目指して必死に歩きます。
 ある日、ガマの近くに、大砲もどんどんぶちこまれて、村の人が集まって来て、これで日本は負けそうだ。そうであるなら、アメリカ兵に殺されるよりは、捕虜になるよりは、自分たちで天皇陛下のために自決して死んだほうがいいと、大人の話があったんです。そうしか出来ないから、皆さん銘々で家族なりで集団で死んだ方がいい。自分で考えて死になさいということでした。
 月夜の晩だったんですが、お月様が煌々と照っているときでしたが、壕の近くで、自分ひとりおなかがすいて、食べ物がないか外に出ていました。でも、食べ物は何もありません。カタツムリがいたので、石で砕いて食べました。汚いとか思わなかった。

 父親が、御真影、天皇陛下のお写真を守る人で写真を背負い、家族と一緒に歩く事は滅多になかったんですが、戦争が終わりそうだという時に何人かの日本兵に支えられて現れた。負傷して片足を引きずるように壕に入って来ました。200名くらいの村の人がひしめき合って、入っていました。島で一番大きいガマです。どれくらいあるんでしょうか?幅が4メートルくらい。奥行きは奥が見えないガマです。
 そこで、私の父が入ってくると、みんな、「先生」、「先生」と集まってくるんですね。もう死は覚悟しなさいと言われている頃だったけど、手榴弾がみんなにいき渡っていなかったんですね。父は持っていた。最後の決意で家族を殺さないといけないという事で、私は臆病な子だったので、母がきれいな服を着せてくると、もう殺されるんだなと身をもって、震え上がって、外に飛び出していくんです。「私は死なない、死なない」と。
 そういうことが何度も繰り返されていたんですが、今後は父親が、これが最後だと入ると同時に「和子はいるか」、と来た。母がいるというと、父は「服を着させなさい」と綺麗な服を着替えさせた。またやるんだなと思って「私は死なない」と大声を出した。ガマの入口に向かって走ったが、ひしめきあって出れない。
 私は逃げて、父親は私を殺すことはできなかった。そのときに、いろんな方が集まってきて、私も殺してください、殺してくださいとあっちこっちから寄ってきたんですね。殺せずに、私は山手のほうに一人で逃げて行ったんです。母親が妹と弟を負ぶって追っかけて来たんですね。どんどん逃げていると、母がやっと私を捕まえて、もう壕に戻ることはなかったですが。

 ずっと上がると、一緒に住んでいた田中さんという兵隊が足が切れていて横たわっていました。じっとみたら、田中さんも「ああ、和子さんだね」と言って、手をふったんです。母も「ああ、田中さんだ」と言ってそれ以上の行動はしませんでした。
 親が子供を追いかけて殺す場面、若いお母さんが木に縄でぶら下がって、いろんな場面を目撃した。小屋を覗くと家族らしき一団が死んでいた。自分たちで首を切って死んだと思います。

米軍捕虜になる

 そうこうしているうちに、アメリカ兵に捕まって、その時のアメリカ兵はすごく鼻が高くて、背が高くて怖かったです。私たちは捕虜になるのが最後の方だったみたいです。「何にもしません」とアメリカ兵にテント小屋に連れて行かれました。
 校長先生の奥さんがいました。校長先生が奥さんの首をかみそりで切ったそうです。そしたら奥さんが気絶したようですが、校長先生は死んだと勘違いして、自分は即死したそうです。奥さんはベッドに寝かされていて、私が行くと手を出して、何かお話をしたいようでしたが、口がもぐもぐするたびに傷口から胃液が泡のように出るんですね。何日か一緒にいましたが、とうとう亡くなってしまいました。
 こういう場面を体験して、終戦になったわけですが、海に近かったので、おばあさんと遊んでいると大きな白いものに包まれたものが浮き沈んできます。で、おばあさんがいいものを見つけたと寄っていくと、包まれているから何かわからない。家に帰って、あけてみると、アメリカ兵の死体だったんです。私たちは食べられるものだと思っていたんですけど。
 ある時は、戦後ですが、海にいくと小さな小屋があって、悪いことをすると女性がそこに閉じ込められていたんです。アメリカ兵がどうにか乱暴しようとそこから引き出そうとしていたから、おばあさんが石を投げて追っ払っていました。父はMPと一緒に村を回って、こういうことがよくあるんで、警察官みたいな仕事をしていました。夜中アメリカ兵が民家に上がって来て、女性に乱暴をするんですよ。押入に閉じこもったり、顔に泥を塗ったりした。
 母は負傷の傷を治療するために、蛆が腕から出ている兵隊さんの蛆を引き出して治療しているところを目撃していました。昼は高学年と低学年にわけて、母が低学年で木の下で砂浜の上で文字を教えているんですね。父は昼は生徒に木に文字を書いたり。戦争って本当に大変だなあと。

 母が私を水溜りに爆風で落とされても振り向かなかった、私を殺そうとしたという思いが戦後も付きまとった。何時も私が邪魔者だった。この人が大声で死なないと叫んだものだから、家族を一緒に殺せなかった。母親に対する怒りと憎しみがあり、反抗期には母にあまり話をしなかった。物心ついたときに、こういう親子の場面があると、一生上手くいかないんだな、と自分の体験から思います。

1945(昭和20)年9月下旬頃 那覇に渡る

 途中船に穴が開いて沈んでしまったんです。糸満の海岸で一杯の死体が浮いたり、沈んだりしていました。その中を押しのけて、糸満の浜にあがりました。ところが食べ物がなくなって、かずらが生い茂っている畑に行くと、鉄兜をかぶった大きな目が落ち込んで腐った兵隊さんの死体があった。そこにかずらが青々と茂っていました。
 砂浜に避難民が寝転んでいました。今の言ってみれば、大津波ですべてを失ったあの場面を見るようでした。今でも忘れられないですね。

 私の家は8名も私の下にいましたので、教員とはいっても給料がかつお一本とかしかなくて、戦争が終わっても物が十分に与えられず、田舎の人たちは親切な方で、自分たちが作った米・野菜を軒下に置いてくれてしのいだんですね。その時ほど農家の方をうらやましいと思ったことはありませんでした。
 母に女の子は大学にいかせないと言われた。教員より基地のほうが安定した仕事だったので基地の中で働くことにしました。自分で貯めて、大学に行きました。
 アメリカ人の裕福そうな姿に、すごく心が痛んだというか、アメリカ兵が日本人をこんなに、なんていうか、戦争に巻き込んで殺したのにも関わらず、こんなに貧富の差があるのに憤りを感じた。私も大学に行って、この事を何とか知らないといけないと思いました。大学を自分のお金で出て、幸い教員になれた。

 教員になって49歳の時に、主人が海外の派遣教員でペルシャの方に行ったのですが、それまでに、色々なアメリカ兵の事故や問題が絶えなかったです。にも関わらず、嘉手納基地からベトナムに向かってB-52ですか、爆弾を抱えて、ものすごい轟音でいくんですね。私の戦争の体験と同じことをあの先でやるんだなと思っていました。
 教員はずっと抗議をしました。抗議中によく歌った歌が忘れられなかったですね。ちょうど息子がアメリカンスクールの父兄会があって、お父さんが嘉手納基地に勤めていたアメリカ兵がいて、基地の重要な役割をになっていたと思うんですよ。ベトナムから今度は中東に行くために、ギリシャの基地で待機しているといっていました。私は、もうこれで沖縄の人に会うのは最後だとそのアメリカ人は言っていました。沖縄の基地というのは、ベトナムも攻めて、すごい基地だなと思いました。アメリカという国は世界中を戦争に巻き込んで、そこから、嘉手納基地から訓練されたアメリカ兵が飛び立っていって、殺すかもしれない。

歌 「一坪たりとも渡すまい」

 これが私たちが住んでいる沖縄の戦争から戦後、今日にかけて安保条約によってずっと虐げられているんですね。その前から中国と貿易をしている頃から、日本の幕末の頃から日本人に虐げられていたんです。沖縄は地理的に大事なところにあるのはわかりますが、島が離れているために、住んでいる人の痛みがわかっていない。
 どうして、日本の人たちは経済的に豊かになるために、どんなに苦しんでいるかを感じ取れないのかな、人間として、感情があるのであれば、わかるはずです。こんなに訴えているにも関わらず、選挙のやり方、基地問題、知識もあり、色々やってきている政治家は何を考えているんだろう。経済的利益だけ追いかけて、国民が泣いている。それでいいのかな、と私は思います。

 ちょっと心の準備ができていなくて、どこからどうかわからなかったですが、そう思っています。沖縄の県民は異民族に支配されて期間が長い、戦前は幕府、戦後はアメリカ、虐げられてきた。あまりに、世の中がどう変わろうが、期待ができない、これからいい世の中になるとあまり思えない今日です。

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