インタビュー記録

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「教育勅語を暗記したら日本人だよ」と先生に言われていた

 琉球王国に調査団が来た。帰りがけにナポレオンに「差別なく歓待してくれた人がいた。武器のない島だった。刀剣も含めてなかった」と話したら、ナポレオンが「それでは何で戦争をするんだ」「戦争をしない島です」と報告され、「この世の中で戦争をしないところがあるのか」とナポレオンは感嘆した。  沖縄は武器はないが、外からの圧迫がすごい。明治から昭和にかけて沖縄はいじめられっぱなし。明治は税金をかけられ、鹿児島が沖縄の王様を拉致した。沖縄は戦争の防波堤にさせられた。この3つが歴史で、今も続いている。 戦争と言う時も、その時は沖縄が差別されているとは知らなかった。

 小学校の頃から軍国教育を受けていた。「教育勅語を暗記したら日本人だよ」と先生に言われていた。小学校4年生の話。中身は理解できなくても、丸暗記した。 「天皇陛下を神様のようにあがめなさい」。小学校の全体集会で皇居の方向を向いて挨拶をしていた。学校の神棚に天皇陛下の写真をつけて、皆で敬った。年に4回あった。おてんばだったので、一番後ろから背伸びをして、写真をじっとのぞいた。校門の出入りはお辞儀して入った。

 女学校にいくと、「日本の戦争は絶対負けない。神風が吹く」と。「神風はなんですか?」と先生に質問すると「負けそうになると風が吹いて勝つんだ」と。支那事変を経験していたので、ああ、今回も大丈夫だと信じていた。

 戦争が近づいてきた時に、「捕虜になるな」と言われた。「捕虜ってなんですか?」と聞くと「女は強姦されて、海に捨てられる」と言われた。大変だ、アメリカ人は見たことないが、なんて悪い国の人が来るんだと思っていた。

 「ほしがりません、勝つまでは」を言い合って我慢をしなさい。沖縄の人は方言を使っては駄目。兵隊が何を言ってるか分からないから、スパイ容疑でつかまると言われた。実際に捕まった人がいた。共通語がこれっぽっちも分からないから、方言しか話す言葉がない。これが軍国教育。これを徹底的に教えられてきた。反対の意見を出すことは許されない。  沖縄戦当時は女学校の生徒だった。4年生。9つある沖縄の女学生は4年生で全員動員と校長先生から話があった。

1945年(昭和20)年3月25日 第62師団野戦病院(石5325部隊)に入隊

 3月26、7日に防空壕で卒業証書もらった。戦争でどこに行ったかは分からない。 学校で看護教育を受けていた。看護婦になるから傷の手当、下の世話等の教育を受けていた。終わる前に、防空壕に行ったり来たりしながら、教育を受けていた。

1945(昭和20)年4月1日 米軍上陸

 上陸して来たらどんどん進んで、嘉手納は高射砲部隊が居たけど、こっちが一発撃つと、何十発も返ってくる。逃げたら勝ちとばかりに、南部へと兵隊は逃げていった。貸家のベットがあって、そこに高射砲の上官が当番兵を付けて泊まっていた。日本は何も用意していなくて、学校は兵隊の宿舎になった。生徒は皆帰された。

 戦争がやってきたら、自分たちも看護教育を受けていたが途中でほったらかしに、壕へと移動させられた。はじめは、負傷者ではなくて、伝染病にかかった人とかだけだった。中部の人何名かは浦添に移動させられた。ひめゆりは先生が引率したが、私たちはなかった。

 飛行機一機も来なかった。兵隊さんに「戦争終わったら家に帰っていいですか?」「いいよ」と言われた。翌日から艦砲射撃と爆撃をじゃんじゃんされた。昨日、「戦争終わったら帰っていいですか?」なんてとんでもないことだった。米軍のパイロットは低空飛行が得意だった。機銃掃射をしてくる。

 4名を治療班、4名が作業班。今では考えられない話だが、つるはしで土を掘って、夜に土を持って畑に捨てる役割。早く掘れ、と兵隊にせかされた。一生懸命やっても女なので進まない。それでも一生懸命やった。2-3日で激戦があったようで、負傷兵がどんどん入ってくる。  怪我をした人が入らなくなって、トラックでナゲーラの壕(註:現南風原町)に運ぶ。兵隊が万が一に備えて、手榴弾を2つくれた。「これで何するんですか?」と聞くと「一発は敵に投げて、もう一発で自決しなさい」と言われた。夜中10時ごろに撤退。途中で友達と会って、大変だったと話をしていた。今頃になって防空壕を掘るのかと思っていた。ナゲーラは壕が満タン。戦争に行って怪我をした人がみんな来る。野戦病院は足の踏み場がないほどだった。そこに入れるしかなくて、押し込んだ。

 そこでも差別があった。階級の差別。運んできた兵士が一等兵がほっとけと言われる。少尉と言われると、すぐに治療を始めだした。一等兵はあんなに見捨てたのに、階級の高い人はすぐに治療する、これが差別なんだねと見ていた。日本は差別の国。日本では、差別を無くさない限り、人間はよくならない。  足の踏み場もない真っ暗闇で、後から来た人が土壁を背中にして、ただ座っているだけ。5月に本土から食料等が運ばれたらしいが、途中で沈められて、物資が不足していた。負傷兵をただ座らせるだけの対応。日にちが経つと、傷口に蛆がわく。蛆がわくと、傷口が痛い。看護婦さん蛆を取ってと懇願される。一匹、二匹ではなくて、傷口全体にあふれている。薬もないから、どうしようもない。包帯が乾いて、そこから蛆がわく。取ってあげる余裕も、明かりもないからどこの兵隊が言っているかも分からない。隣の友達の顔も分からない。

 食事がない。なぜなら船がこないから。看護婦さん、おにぎりひとつ頂戴と言われるけど、自分たちの分もないので、あげることもできない。何も施しようがない、水をくれとも言われるが、この地域は水が遠くにしかなくて、どうしようもない。水がどこにあるかもわからない。聞きっぱなし、しまいには「しずく」が落ちてくるのを飯盒のふたで貯めて兵隊にあげていた。湯のみの半分しかたまらない。唇を濡らす事しか出来ない。水を我慢した。食べ物は2-3日に一個はあったかね。おにぎりくれたら死んでもいいと懇願された。あっちから、こっちから言われた。ただ、土壁を壁にして座っているだけ。外ではぼーん、と音がする。生きた心地がしない。  ナゲーラの壕は地獄。排尿は全部座ったままするので、200人が血だらけで、蛆が沸いている。そこは、昔の豚小屋より汚い。看護婦さん、水頂戴、おにぎり頂戴と言っては死んでいく。大変でしたよ。

 敵が寄せてきた。撤退になった。南部の武富(たけとみ)に行くことになる。よその学校は兵隊を担がせないが、ここは2人で1人を引きずって、負傷兵を運んだ。命令だから仕方がない。ただ、歩く。敷名(しきな)の壕で休み時間。兵隊が「瑞泉看護隊集まれ」。注射器を渡されて、負傷兵に打って来いと言われた。中身が何か分からない。人に注射と、血を見るのが苦手だった。友達に私のも持ってくださいといったが、無理だった。人に針を刺すのが嫌だった。行けば出来るよと友達に励まされた。兵隊が「ちょっと学生さん待って下さい。妻と子に伝えて欲しい」と言われたが、とても伝える自信がないから、断った。どうしても注射を打てなかった。また命令が出て、兵隊を担いで移動しだした。40年後にこの兵隊が生きていることが後で分かった。

 兵隊は皆切り込み隊、「兵隊さん、私も連れて行ってください」と懇願したが、誰も連れて行ってくれない。「自分で自分の始末をしろ」と言われた時は、どうやって死ねばいいか分からなかった。壕の入り口で大の字で寝て、艦砲射撃で死のうと思った。神様、一発で死ねますようにと寝ていた。  死ぬ道を知らないから、壕に戻って真っ暗闇に入って、一夜は明かせるかと思い入った訳です。暗くてよく解らない。そしたら死体の山。ここに居てもすぐやられるよ、とそろそろと中に入って反対の出口から出ようとしたら、火炎放射器をやられた。敵が来たよ、どこに逃げるね。戻ろうとすると毒ガスみたいな、臭い煙がきて、何処にも行けない。友達は自殺しようとも考えた。首に包帯を巻いて、首を巻いている。こんな苦しいことするよりは、死んだ方がいいと首を巻いている。そんな死ぬ前に腹いっぱい水を飲もう、後で一緒に死ぬから移動しようと説得して外に出た。泥だらけの口を顔につけて、匂いが取れない、地獄だった。  みんなが苦しんでいる時に、外に出る人がいて、みんな一緒に外に出て、結局捕虜になった。前後左右4人で囲まれた。手を上げる以外なくて、降参した。連れて行かれて、捕虜になりました。これで戦争終わり。

 軍国教育が身にしみているから、「日本は絶対戦争に負けないから、疎開したら損するよ」と言われた。残ったメンバーのうち33名戦死した。ひめゆりは、碑が立っているが、他は立っていなかった。私たちは第一線にいて33名も戦死しているのに(註:61名中)、今は誰も知らない。  1993(平成5)年の植樹会に天皇陛下が来たので、崇めているわけではない、国のために死んだ人のために碑を建てて欲しいと要請文をだした。この機会に碑を建てないと、私がどうなっているか分からない。思いがかなって、割り込みだったので計画に入っていないが、天皇陛下の休憩時間に会いに来なさいと言われて、車のお迎えも来た。天皇陛下に、国のために尽くして、33名戦死している、そのために平和運動を一生懸命しています、と話をしたわけですよ。

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