インタビュー記録

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1940(昭和15)年 女学校を卒業し教員になる

摩文仁国民学校(現米須小学校、1941(昭和16)年まで尋常小学校だった)の教員になった。

1944(昭和19)年10月10日 十・十空襲

いっぱい飛行機がきたけれど、防空壕にいて大丈夫だった。米須では一軒家がなくなった。
この日から毎日空襲があった。アメリカの飛行機がくると空襲警報が鳴って、自分の壕に逃げた。

1945(昭和20)年3月23日 卒業式に艦砲射撃が始まる

6年の卒業生と高等2年の卒業生。半分は疎開をしていた。
校長先生は天皇陛下の写真を北部の今帰仁に避難させていて、残っているのは教頭先生と女の先生。男の先生方は召集で、皆防衛隊で誰もいなかった。
夫も防衛隊として山部隊に入っていた。
卒業式は教頭先生と女の先生で、厳かに君が代を歌ったり校歌を歌ったり、仰げば尊しを歌ったり、とっても和やかに済んだ。皆喜んで帰った。家でお祝いもしたと思う。てんぷらをやったりお菓子を作ったりしたと思う。

それが10時頃、南の方から艦砲射撃が始まった。 これが雨のように艦砲射撃がパンパンパン。うんと恐ろしくて恐ろしくて、人々は道に出て右往左往して、どこにいこうか、どこにいこうか、どこにやろうか、右往左往して騒いでいる。
私達は学校の後ろの山にたくさんの自然壕があるから、その一つの壕を学校の壕としてここに書類を入れてあった。ここに家族と5名、姑、舅、主人の妹、私と子供。その5名で壕に入った。壕の中でも怖いぐらい艦砲射撃。パンパンパンパン鳴りっぱなし。
みんなで入っていたら、役所の人がきて、「ここから上陸するかもしれないから、みんなで北部の方に避難しなさい」。北部へ北部へと、皆メガホンで叫んでいた。私達も行かないといけないなと思ったが、小さい子が2人いるし、旦那はこのへんの防衛隊にいるし、もう死ぬなら一緒がいいと思って行かなかった。教頭先生や女の先生方は皆家族と一緒に北部に行ってしまった。
あのころは車もないから、リヤカーがあればいいけれど、リヤカーがない人はあっちからもこっちからも荷物をいっぱいさげて、小さい子を連れてみんな歩いて北部へ北部へ。道は人。だから行きながら弾に当たって亡くなった人もいると思うけど、それはわからない。

その日から米須の部落の人を一人も見たことがなかった。壕の中にいるから、誰がどこにいるかわからない。
翌日昼間、ちょっと弾が止んで、部落がどうなったかなあと思って、家まで荷物を取りに行こうと思って出てみた。そうしたら昨日卒業式をしてレンガ造りの綺麗な学校がもうない。そして部落は全部ない。一晩で部落は全滅。どうしようもない。防空壕から食べ物を少しとってあわてて壕に戻った。

兵隊に壕を追われ、八重岳のお墓の中へ

そこの壕に2、3日いたと思うけれど、日本の兵隊は壕という壕はみんな「一般人は出なさい。自分たちは戦争をするんだ、あなたたちはなにもできないでしょう。邪魔だ」と言って。
学校にも兵隊がいて、とっても仲良くやっていたのに、いざ戦争になってみたら「あんんたたちはでていけ」と住民を守らない。「出て行け」と言われたらもう兵隊の言うことを聞かないと大変でしょう。
出なければいけないから、どうしようかなあと思って5名家族で相談して、壕をさがして、この辺ないもんだから、東風平という5キロから6キロくらい先の部落へ山道を通った。

昼は絶対に出られない。無差別に弾が飛んでくるから、夜に荷物をたくさん持って、子供をおぶって、八重瀬岳というところで、そこは兵隊の陣地みたいなところで、倉庫があって、壕もいっぱいあって、一般人もいて兵隊もいるところだから、このへんにいったら自分の旦那もいるのかなあと思ったわけ。
そして行ってみたら、壕という壕は皆人が入っている。入るところが無くて、ちょうど中腹に墓が三つ空いていて、それは沖縄の門中墓で、その時は何の怖さもなく、何も考えることなく、そこに入らなければ入るところがないから入った。
荷物は骨の壷の上に置いて、3カ月の赤ちゃんと2歳の子供で入ってそこで生活が始まった。赤ちゃんには何を食べさせたかわからない。粉ミルクを持っていたからこれを嘗めさせて。おしめはないから、木の葉でやったはず。何でやったか覚えていないけれど、とにかく生きることでいっぱい。人間が人間でなくなる。

昼はアメリカの偵察機、偵察機とはもう言わなかった。「トンボ、トンボ」と呼んで来た。これが飛んでくるでしょう、飛んできたら必ず、無差別に、人をみたらパンと落とすから、もうあちこちに弾がおちる。だから昼は絶対に出なかった。
夜はトンボはこないけれど、人がいるところにはサーチライトを照らしてバンバン撃っていた。でもまばらだから、夜はそとを歩いたり、食糧を探したりできた。
昼は墓に入っている。そこで二ヶ月あまり生活が始まった。太陽なんかみたことない。

外に出てみると、中腹だから慶良間諸島が見える。そしてそこへ特攻隊が来る。一機。沖縄の海はたぶんあの頃アメリカの軍艦だらけだったと思う。すると、もう雨のように、この特攻機に艦砲射撃。だからこの飛行機は何も落とさないでコロコロコロコロ落ちて行く。これを毎日見た。「かわいそうだねえ」と思ったけれども、戦争に敗けるとは思わなかった。日本は必ず勝つんだと、穴の中に入っていても勝つんだと、戦争を見たこともないけれど、そう思った。

ハブは一匹もみなかった。ハブもいなくなったのかなあと思った。ほんとに不思議。
その壕にいる時、夜水を汲みに行った。すると昼にも水を汲みに行った人がいるんでしょうね、その泉はたくさん人が死んでいる。無差別だからたくさん死んでいる。それが夜でも分かったわけ。泉に死人が浮いていて、ウジもわいている。その水を何日も飲んでいる。どこの泉でもそう。みんなウジの泉を飲んだと思う。
何を食べたかはわからない。戦々恐々で話をすることはなかった。命は今死ぬかどうするか、こればっかりしか考えていない。
戦線がどんどん南へ下がってきて、夜騒々しくなって、なにかなあと思ったら、弾が近くに落ちた。爆風も墓の中に入ってきて、ここはもう危ないなあと思って、みんなが「危ないよ、もう戦争すぐに来てるよ、南へ南へ」。

1945(昭和20)年6月はじめ 家族と墓を出て、再び米須の部落へ

出たらもう、見るものは皆死人。時には弾が自分の目の前に落ちて、破片でやられたのか足が飛んで来た。
野戦病院の壕の中にいる時はウジが湧いた人もいるし、「お母さん、お母さん」と言って泣いている人もいるし、泣いている大人もいるし、痛い痛いして泣いている人もいるし。 道を通ると皆死人が転がって、よけて通った。夜だから死人がいるなと思いながら通って、ちょうど家の近くまで来たときに、来なくてもいいのに南風原のほうから団体で皆来ていて、その中に母と父と弟の3人がいた。
弟が「ああ姉さんに報告するけれど、私今度4月からは教員になるからね」と喜んで話した。そしたら近くに弾がパーンと落ちた。「あら駄目だな!」と思った。弾が落ちたら赤い火が飛んで行く。これは鉄の、これがピュッ、ピュッと飛んでくる。「ああ危ない」と言って、よその人の壕に入りこんで、弟は若いから1番後に入ろうとして、「姉さんたち皆入れ」と言って、お母さんたちは皆入って、私が入らないうちに、弟は転げ落ちて来た。即死。破片が当たって。誰も涙が出ない。父、母も、私達も、皆涙がでない。「あら、どうしたいいかなあ、ああもう大変」、ただこれだけ。

そして弾が止んだと思ったら、弟を置いて、「私達は部落の人と団体だからね、行くからね」と言って、父母ももう涙も出ないで行ってしまった。戦後、聞いたところでは知念まで行ったが、あの団体は3分の1は生きなかったという。

私達は部落の方に歩いて、百メートルくらい行くと、自分のおぶっていた長男がダラッとなって、親が「この子ダメになってるよ」というわけ。ああもう何とも言えない。「おろしなさい」というからおろしてね、道において、これだけ。逃げなければまたやられるから、ただ置いただけ。

教頭先生が忘れていった教育勅語というのもずっと持って歩いていた。これどうしようかなと思ったけれども、負けるとは思わなかったから持っていた。3日かかって山原に行っていた教頭先生は、「教育勅語がないと命がない。取って来る」といって家族を捨てて、来なければいいのに取りに来た。その教頭先生に教育勅語をあげて喜んだけれど、何を話したかは分からない。ほっとしたけれど、教頭先生はどこかへいってしまった。戦後生きていると思って聞いたところ、教頭先生はひめゆりの塔の近くで戦死なさっていた。

舅が壕を探して来た。米須の製糖工場の近く。今は大きな製糖工場があるけれど、昔は各部落に製糖工場があって、大きな鍋が五つくらいあって、部落で砂糖を作っていた。その製糖工場の釜の下に、鍋だから弾が来たらなくなってしまうけれど、穴だからみんな入っていた。精神的なあれで、気持ちで、20人くらいそこに入っていた。
そこに入らないと壕がないから入ろうとしたら、「あんたたちは赤ちゃんがいるからいれない。赤ちゃんが泣いたら電波探知機で弾がくるから、赤ちゃんは絶対入れない」と言われた。けれども、舅は「入る権利がある」と言って、無理やり皆に言って入った。30名位入ったと思う。この時にも戦争には勝つんだと思っていた。
2、3日すると、5百名くらい入る伊敷の壕で、兵隊・防衛隊が皆解散して、防衛隊の隊長だった夫が、家族と一緒に自決をしようと思って、手榴弾を3つ持って、軍隊の洋服を着て、刀をさして、探しに来た。
会社の社長をしていたおじさんが、頭がいいから「捕虜になるんだ」ということを皆に一生懸命言っていた。私達は、このおじさんは何を言っているんだ、捕虜になんかならないよ恐ろしくてと思っていたが、そこに夫がきた。おじさんは「あんたたちは何をやっているんだ」と手榴弾を取りあげて、軍服もとって自分の服を着せて、刀もとって、一般民にしたてて、「捕虜になるんだ。何かきたら私が真っ先に出るから皆ついてこい」。誰もきかなかった。
この時は昼も夜も平は迫撃砲で火の海だった。もう外にでられなかった。

1945(昭和20)年6月19日 急に静かになった

絶対にこの日は忘れない。気味が悪いくらい静かになった。ほんとに弾の音もきこえないで、気味が悪くて、何だろうと思って。私達が考えたのは日本の兵隊が逆上陸して、私達を助けにくるんじゃないかと思っていた。

1945(昭和20)年6月20日 捕虜になる

朝起きてみたら南の海はみなアメリカの軍艦だった。びっくりして、「アメリカの軍艦だよ!」4、5分するとアメリカの兵隊がきて「でてこい、でてこい」する。大変怖かったけれども、おじさんが「私が真っ先にでるから、皆でておいで」と言って、はいはい言って出て行った。
女の若い人は恐いでしょう。皆20歳前後だから、鍋の煤の黒いのを顔にいっぱい塗って、かわいいひともかわいくないひとも何が何やらわからないように塗った。
男の人は、10名くらいいたと思うけれど、戦争がまだ終わっていないから皆裸にして、調べていた。
何も持たない。3か月間着の身着のまま。臭かったと思うけれど、皆同じだから誰も臭いなんて言わなかった。
前からも後ろからもアメリカが護衛して通っていた。昼は歩いたことも見たこともなかったけれど、昼出たら、それが大変。みんな死人。道は。米須はみんな沖縄南部の人がみんな逃げて来てやられているから、道は通ることが出来ないくらい皆死人。死人だからウジが湧いた人もいっぱい。人間は死んだあとに膨れて黒くなる。膨れた人、黒くなった人、いっぱい道にいた。だから恐ろしくて、死人を見ながら、お母さんが死んで子供がガーガー泣いているのも見ながらも、恐いともかわいそうだとも思わないで、ただアメリカについていくだけ。足はくたくただけれども、たくさん歩かさせられた。

米須の小学校の山の裏は真壁の平野で、アメリカはセンサーを置いて、そこに撃ちこんでいた。緑が一本もなかった。もう人は一人もいないもんだと思った。
隣の部落に着いたとき、80くらいのおばあさんが歩けなくなって、「私はここにいるから、あなたたちはいきなさい」と言う。前からも後ろからもアメリカが護衛しているので私達は何もできない。後ろ髪をひかれるようにしながらアメリカについていった。あとでおばあさんはアメリカに拾われて、北部におくられて亡くなった。
糸満を通って豊見城の畑に集められた。そこには避難民が1000人くらい集められていた。
そこに行ったら、男と女に分けられた。夫はその後ハワイに連れて行かれた。

石川の収容所へ

翌日、アメリカの大きなトラックに乗せられて、中部の石川の収容所に送られた。
与えられたのは大きなテント。50名位入りなさいと言われたが、下は地面、寝られない。ガジュマルの葉っぱを敷いて、そこで生活が始まった。
翌日から妹は軍用作業につれていかれた。帰りは毛布や缶詰を拾ってきてくれた。
アメリカから配給はあるけれど、1日分のたべものはない。だから妹がもらってきたものを食べたけれど、後で聞いたら、「これはもらったものじゃないよ。チリ捨て場から拾ってきた」と言われた。今の賞味期限がきれたもの。でもおいしかった。それで生き残って来た。

夜になったら誰もいないから金網の外に出ることが出来た。前は海だからみんな海へ行って、浴びて、頭も洗って、洋服も絞って、絞ったまま着てかわかした。
「教員をした人は出なさい」と言われて、何もしてないのにおかしいなあと思ったら、子供達が50名位いるから遊ばせなさいということだった。教員仲間が3人くらいいた。
広っぱで何にもないから、地べたに字を書いたり、お話を聞かしたり、歌を歌ったり、体操したり。それを9時から5時頃まで。それでもらったのは缶詰。コンビーフの缶と、5枚ビスケットがはいっている小さいの。これを1年くらいもらった。だから戦後履歴書には「現物給付」と書いてある。
運が良かった。助からない人もいた。8月15日までは戦争だから、栄養不良で死ぬ人が、赤ちゃんから子供から大人までいた。石川という部落のすみのほうに大きな穴を掘って、死人をどんどんいれていた。それを何十人も見ているから、石川に行くたびに気になってしかたがない。

1945(昭和20)年8月 空砲がパンパン鳴った

また戦争が始まるのかなあと思ったら、戦争がおわったという。えーとしか思わなかった。なんだ敗けたのかなあとしか思わなかった。
石川の収容所で生活が1ヶ年以上つづいて、それから糸満の近くの名城でまた1年近く生活した。配給はアメリカの食事で、学校はプリントをつくった。
米須に帰ってきて、まず遺骨拾いから始まった。魂魄の塔に入れる。米須のあたりは何万も死んでいるから大変。弾は中部に比べたらすくないけれど、不発弾はいっぱいあった。遺骨拾いはいっぱいやったから忘れられない。袋に拾って、道に全部。アメリカの弾に撃たれて死んだ人もいるし、自決した人もいるし。
米須に来てはじめて部落の人を見た。当初は小学校の子供達も20人くらいしかいなかった。5、6年たってもシラミがなくならなくて、休み時間のたびに子供の頭に手でシラミをとっていた。
普通の生活ができるようになったのは10年くらいたってから。日本の援助も誰の援助もないから自分でがんばってぎりぎりの生活。
40年間教員をしていたが、生徒に戦争の話したことは全然ない。教科書問題を機に話し始めた。

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