インタビュー記録

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摩文仁への移動

ミーガー壕っていう、長さもその百メートルぐらいあった?よくわかんないけど、とにかくすごい長い壕で、幅も4、5メートルぐらいはあったんじゃないかな。通りを作って、その脇に50センチぐらい高―くしてみんなが陣取って座れるような、そういう壕に行ったり来たりしてました。裸足で通ってましたね。
で、末期になったころ、自分のおうちに戻って来て、どうして戻ってきたかはわかんないけど、3、4キロか先にねアメリカ兵がもう来てるっていう触れて回った、この方は学校の先生でしたけどね、みんなにね、「もうそこまで来てるから、みんな摩文仁に逃げなさい」って触れて回ったんですよ。
みんな頭に食糧やお米とかお味噌とか、お鍋をのせたりかついだりして、摩文仁にみんな行ったんですよ。港川ってところの通りはね、もう昔は県道っていって幅も広いし、そこの通りを歩いたんですけどね、どーっとむこうに移動したんですよ、みんな。
で、親たちはどういう風にみつけたかわかんないけどね、木陰なんだけど、上に木の葉をいっぱいかぶせてカモフラージュしたような、だいたいね、3畳ぐらいのね、壕があったんですよ。そこに、私たち8人入ってました。

ギーザバンタ(慶座絶壁)

ここは激戦地になってるから今度は北の方に移動するからってことで、炊き出しをしているところで話し合いがなされて、その日の朝、海岸沿いの土手の上まで移動して、夜、ギーザバンタってところがあるんですけどね、その絶壁を降りて行って海岸沿いを移動するからってことで。日中は目の前のアダンを通して、もう海の上にはね、敵の船がいっぱいなんですよ。何十隻って。私なんかはのどが渇いたっていったらね、あの辺に水はあるみたいだから飲んでいらっしゃいって行ったらね、艦砲射撃のあと、20メートルぐらいのすごい大きな穴があって、でそこにね、水が溜まってるんですよ。今のドブよりも臭い水、それでも飲みましたね。

夕方になって、そのギーザバンタってところを降りて、そこはすすきのちょっとしたのが生えたのとか、あと木の細いのとか、そういうのをつかまえつかまえずーっと、海岸沿いを降りて行ったら、海岸沿いはまた案外すべすべの岩で。そこをみんなでどーっと歩いて、移動したんですけどね、結局夜だからみんな見えてないじゃないですか。
100メートルぐらいも歩いたかな、そしたら照明弾が上がったんですよ。だったったった、て、2つぐらい。で上がったかと思ったらもう真昼みたいに、こう明るくなっちゃって。かと思ったら艦砲射撃です。だだだだだって。で、やって、最初のだだだだのときはまだ私たちの周囲は10人に1人けがしたかなぐらいで、で、身をすくめているのを立ち上がって、あ、終わった、って立ち上がって歩き出して、ものの10歩も歩いたかなっていうぐらいしたらね、もう一回だだだだだって、艦砲射撃です。もうそのときは、私たちの周囲は、もう10人に1人立って歩けるぐらいで、みんなもう即死か・・・ばたばた倒れてケガしてるかで、もうそういう状態だったんですよ。

私たちはもう8人一緒だったんですけど、そのうち私のすぐ上の兄が即死で、そして姉の子供、姪が、1歳何か月かだったと思うんだけど、おんぶされてて背中で即死で。そしてあとはね、姉の舅もいっしょだったんですよ。その舅はね、両足切断でもうちょこんとそこに座ってるんですよ。
私ももう腕、全部傷、いまでも傷が、こことかこういうとこ、戦争の時のケガなんですけどね。私より5歳ぐらい上の兄がいて、その兄は足で、そして、姉は右腕を貫通されちゃって。そして母はね、心臓の横にソラマメぐらいの大きさの弾が入ってて、そしてね、もう一人は全然無傷のアニキがいたんですよ。
たまたま姉がね、大島紬ってご存知かな、紬織を5年間契約で行って帰ってきたときに、その紬織物を4反ぐらいもらってきたんですって、傷物を。それを後生大事に戦争の時も持って歩いてて、で私たちがケガしたときに、その無傷なアニキはそれで包帯替わりにやってくれて、まそれで助かったんじゃないかなって思っちゃうんだけど。

2人はもう即死じゃないですか、そのままおいてたらそこはもう波が来て、波にさらわれる場所だから、護岸のところの岩と岩のあいだに押し込んで、できるだけ波がこないような場所に、やって、私たちはそこを立ち去ったんですけど、立ち去るときに、両足切断のおじいちゃん、おじいちゃんってもまだ40代だったと思うんだけどね、まだ、なんていうのかな、意識がちゃんとしてるんですよ、それで「ぼくを置いていくの?」って、もう私たちに声かけるんですけど、いまだにそれが耳についてんのかな。あの、その声が聞こえてますね。

無傷なアニキは15歳なったばかりで、そのアニキが私をおんぶしてくれて、でそこを立ち去ったけど、具志頭ってとこの海岸沿いの岩陰に私たちを置いて、その無傷なアニキはね、防衛隊行って帰って来てたんですよ、そしたら、昔はほらデマが行きかっちゃって、兵隊とか男の人たちは手とか足とかそぎ落として鼻とか全部そぎ落とされてひどい目に遭って殺されるんだとか、女の人はそのように悪さされて殺されるっていうデマが行きかってたんですね。だから私はもう兵隊と一緒にここから移動するから、あなたたちはここにいなさいって言って、私たち4人おいて、自分は立ち去ったんですよね。結局はまあそのまま戻ってこなかったんですけどね。どこでどうなったかわからない。

“捕虜”になる

翌日朝になったらね、100メートルぐらい離れたところから、拡声マイクで「住民には何もしないから出てきて捕虜をとられなさい」っていう拡声マイクで歩いてたんですよ。じゃあ出て行こうよってやったら、まだ周囲に兵隊もいたんですね。そしたら「あなたたちはね、殺されるよ」っていうんですよ、出て行ったら。
殺されるよってったって、もうここでも飲まず食わずじゃないですか、もうなんにも持ってないし、じゃあ向こうは何もしないよっていうんだったら、10に1ぐらいは向こうは助かる見込みあるじゃない、ここだともう完全に死しかないじゃないですか、じゃあ出て行こうよって、そしたらその遠い100メートルぐらい先から手招きで「向こうへ行きなさい」って言われてそのように出て行ったら、農道に出たんですよ。

農道に出て、だいたい50メートルぐらいかな、歩いてたら、私たち10人ぐらいいたんですね、そしたら向こうからアメリカ兵が鉄砲もって2人来るんですよ。でみんな、あ、もう殺されたな、ってことで、一塊にかたまって、道のそばで、もう誰もにげようとはしませんよ、もうかたまっちゃって、殺されたって気持ちになってたら、私たちにガムとかチョコレート持ってきてこう出すんですね。いらないってやったら自分たちが食べて、それからまた差し出すんだけど、それでもいらないってやったらね、じゃあ向こうに行きなさいって手招きで。
その通り行ったら、もうそこは捕虜がいっぱいいて、私たちはみんなケガしてるから、テントの野戦病院があって、そこに連れていかれて治療を受けて、そこでパンかなんか食べたんだけど、そのパンがぱさぱさして、食べられなかったっていう記憶がね、あるんですけどね、もうそうやって終わりました。

知念の母の実家に

母の実家ではあるけど、近くの親せきがそのおうちにいっぱい入ってて、私たちは馬小屋に入れられたんですけどね。でそこからの通院が4キロぐらい、山里から志喜屋まで歩いて通院ですけど、もうかんかん照りで、裸足で、私は泣き泣きずーっと通院してました。もうじりじりじりじりケガが痛いんですよ。手の指の間が腐った感じになってきてましたね。で通り一遍の治療しかなかったんですよ。白い粉を振るんですね。
そのうち、今度は小学校2年ぐらいのときに、知念から私たちの集落当山ってところに移動しました。やれメリケン粉の配給だとか、お米の配給だとかっていうのがあって、なんとか食いつないだと思いますよ。おじやごはん作ったりいろいろしてたから。
自分たちで畑も行くようになって。その前まではね、その畑にも降りられないんですよ。外人がいて犯されるというのがあったりして。だから近くでちょこっと野草をとって、それで生き延びたと思います。

艦砲ぬ 喰(く)ぇー残(ぬく)さー

昔、「艦砲ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー」という流行歌が流行ってたんですよ。それは艦砲射撃の食べ残しだよという言葉なんだけど。私も、あなたも、おれも、艦砲の喰い残しなんだよーと。


【保存の会 註釈】
「艦砲ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー」の歌について知りたい方は読谷村観光協会のページ(ここをクリック)がご参考になるかと思います。

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