インタビュー記録
1944年(昭和19年)1月 徴兵検査
甲種合格だったのでとても嬉しかった。
同年4月1日 第7航空通信連隊(三重県多気郡)に現役入営
暗号班に配属。
同年10月 豪北派遣隊として宇品出航
第7航空通信連隊より63名が派遣された。
台湾沖海戦に遭遇し反転、台湾・高雄に避難する。
パラチフスに罹患し高雄陸軍病院入院となる。
同年11月 高雄出航、マニラへ
南方に向かう最後の船団だった。夜間のみ航行。
1945年(昭和20年)1月9日 米軍がリンガエン湾に上陸したため
北部ルソン・サンティアゴに向け撤退。
米軍の戦闘機の来襲が激しく夜間のみ移動。20日近くかけて336キロを徒歩で歩いた。
同年1月26日 サンティアゴに到着。
この間(一般資料より1月16日)第4航空軍司令官富永恭次が高級将校と台湾に逃亡。
富永は「本官も最後の1機で行く」と言って特攻命令を出しまくった人物、実際に沢山の少年飛行兵が出撃するのを見た。
サンティアゴに着くとこの話はあっという間にどこからともなく伝わっていて、皆が知るところとなっていた。自分たちは文字通り幽霊部隊になった。その後北上の途中、他の部隊の兵から「お前達は兵隊じゃない。」「オヤジが逃げたじゃないか。」と随分言われた。
戦後、戦友会で、「富永を呼んできて、皆で殺そうじゃないか」という者もいた。
楠田大隊(第4飛行師団第127飛行場大隊と思われる)に転属
実際には分隊ごとに10人弱で民家を転用したところに点在しており、それ以外の部隊がどうしているかは全く分からなかった。
同年3月21日 サンティアゴより北上、カワヤン・シラウエ部落へ転進
・臨時第5輸送隊に編入。
バレテ峠の鉄兵団へ籾(食糧)の輸送にあたる。
水牛での輸送、1時間ごとに水牛を水につけねばならずはかどらない。
・同年5月2日 鉄兵団援護のため臨時歩兵として南下の命令。
小隊に小銃2丁しか無く、行って何が出来るのかと思ったが、命令なので行かねばならなかった。日本軍の員数主義の典型だと思う。
・同年6月 アリタオ東方コモン到着
鉄兵団も、もう撃破されているので好きにしてくれと言われる。
同年6月15日 右足脛に貫通銃創
(シエラマドレ山脈のジャングルに入る準備として)コモンに程近い集落に食糧調達のため出動時、サトウキビ畑の中から突然自動小銃の一斉射撃を受け、右足脛に貫通銃創、現地の民兵だと思う。立てないのに最初は足だと分からなかったが、巻脚絆が血に塗れていた。
夜になって仲間が助けに戻ってきてくれ、ビノン谷に運ばれて木から足を吊った。
薬はない。蛆療法しかないと誰かから聞いてハエをたからせ卵を産ませた。数日経つと卵が孵り、蛆が傷の膿を食べてくれる。今度は足を被いハエが来ないようにする。大変な痛さだったが、これを5回ほど繰り返して快方に向かった。
傷口から竹べらで引きずり出した蛆虫は棄てるのが勿体なくて食べた。
同年7月半ば シエラマドレ山脈のジャングルに入る
これ以後急速に食糧が困窮。
食べられるものは草でも虫でも何でも食べる。
革靴もあるものは皆で煮て食べ尽くしたが、鋲が打ち付けてあるのを引き抜くのに苦労した。塩の欠乏には特に苦しんだ。
人肉を食べている光景は2度見かけた。
部落に食糧を取りに行く、こちらに渡すものが有るわけではなく強奪した。部落民は山に逃げていて家は空、家中手当たり次第籾など食べ物を探しまわったが、住民も上手に隠していて簡単には見つからなかった。見つけるのが巧い兵がいた。
ある部落で強奪に入ると何処からか子供の泣き声がする。さとうきびを煮る大釜の下に逃げ遅れた女性と赤ん坊がいた。
女性を殺した。赤ん坊も殺せと言われたが誰も手をつけようとしない。結局そのまま置きっぱなしにした。
その女性の夫が山から降りてきたので、縛って歩かせ道案内をさせようとしたが、部落を中心に毎日同じ所を歩き続ける。
その事に何日か誰も気付かなかったが、やがて彼も殺された。
部落を見つけて二日ほどいるとどこからか連絡が行き激しく爆撃が始まる。
ゆっくり落ち着きたければ若い者は見つけたら殺すしかない。下士官達は「俺たちは満州や中国で何人も殺してきたのだからお前達がやれ」と必ず一番下の兵隊達にやらせた。
本当に申し訳ないと思うし、皆に分かるかどうか分からないがそうするしかなかった。
毎日道端に10人ほどの死体を見かけたが、感覚的に何かを感じることはなかった。
同年8月5日 ピナカバン(現マデーラ)到着
・同年8月末
敗戦を知らせるビラが撒かれたが誰も信じるものが無かった。
捕虜になってはいけないと徹底的に叩き込まれていたからかもしれないし、負けるわけがないと思ってもいた。
今になれば空爆が無くなり気付いてもよさそうなのだが。
同年9月半ば 敗戦を知る
米軍のトンボの様な飛行機がまわってきて、少佐がメガホンで敗戦を伝えた。
これで初めて敗戦を信じた。
同年9月17日 武装解除、バダンガス捕虜収容所へ
トラックで運ばれるときフィリピン人から罵声がとび、石を激しくぶつけられた。
他の兵隊は使役に出て工事などに当たったが、自分はハウスボーイを命じられたので楽だった。
収容所には演芸大会などもあり自由な雰囲気だった。