インタビュー記録
1941(昭和16)年3月10日 現役 西部37部隊入営
1週間後 渡満 工兵第11連隊。
1942(昭和)17年 戦車第2師団が新設となりここに転属
尋常高等小学校を卒業するとすぐに船乗りとして働いた。自分の性格が人に使われるのに向いていないことは分かっており、軍隊は檻の中だが、逃げられない義務だから何とか3年こなそうと思っていた。
下士官になると帰れなくなると思い込んでいたのでとにかく出世しないよう心掛けた。
張り切っている将校がいたので、一番最初の不寝番に入れてもらい申し送りに「将校室のペチカ故障中につき使用出来ません」とした。翌朝寝台には山のような防寒具が積み重なり、将校は防寒頭巾をかぶって眉毛がつららになっていた。
そんな風に上官に悪戯や意地悪を繰り返したが、自分はすでに世慣れており、「何か面白い話(女性の話など)をしろ」などと呼ばれて上官には結構可愛がられた。
“ぼろ”(出世しない古い兵隊)で通したが一等兵のまま2回の初年兵教育係、上等兵になると下士官候補生の教育にあたった。制裁は“へこたらしい”教育をやっていると教育上やらざるを得ない状況に追い込まれた時にほぼ限っていた。
予定通り復員まで上等兵より出世はしなかったが、炊事係となりさらに自由な立場に。
見習士官から「ミスター4中隊」と呼ばれていた。
1944(昭和19)年8月 フィリピンに出発することに
最初の船はバシー海峡で沈められ、ここで部隊は戦車をかなり失った。
その他の武器も沈めてしまい当初99式小銃の装備だったのに、フィリピンに着いたら38式歩兵銃となっていた。
同年9月27日 北サンフェルナンド着
給与係になる(本来下士官の仕事)。
公用外出の腕章を乱用、お金もたっぷり持っているのでいっそう自由に。親しいフィリピン女性が出来て足しげく通ったが、夜遅く戻っても衛兵司令も顔見知りの後輩で「おお帰ったぞ」ですんでいた。
相変わらず張り切っている上官には飯の盛りを多くしないよう指示。准尉が「こげ飯をくれないか」と言ってくるありさまだった。
1945(昭和20)年1月9日 米軍上陸
上陸前にハエの子も住めないほど艦砲射撃が撃ち込まれた。
戦車第2師団は米軍をリンガエン湾で迎え撃ったが、この艦砲射撃で出足が鈍り、また米軍のM4戦車は1000mから砲が届くのに日本の戦車は300mに近づかなければならない。
戦闘が持続できたのは2週間程度。
矢野さんは前線から15キロほど離れた第2線にいたので、そのまま山に入って守備するようにとの命令で歩兵と同じ状況になった。
これ以降は戦闘の中心は夜の切り込み隊に。
最初は成功したが、すぐにピアノ線が張り巡らされ光を煌々とたいて待たれるようになる。死にに行くだけとなったが繰り返された。そもそも行く先々の情報がすぐに米軍に伝わる。
住民協力は必須なのにそれまでの日本軍の統治はそういう事を考えていなかった。戦っているのは米軍でフィリピンではないはずなのに、全てが米軍の味方となっていた。
もともとフィリピン人の事は“どんこう”“どじん”“どみん”と呼んでいた。行った先にフィリピン人が残っていたら、なんでもない農民も皆「スパイだ」となり処刑された。気に入らなかったり、都合の悪い事は全部「スパイだ」で通してしまう。1度は2人のフィリピン人に自分で穴を掘らせ、そこに入らせて上から銃剣で突くのを見た。肝が据わって堂々としていたので彼らは本当にスパイだったかもしれない。
日本軍が敗走に傾き、完全に山奥に入ってしまうまでのこの時期強姦が横行した。自分もやった。どうせ死ぬんだから何をやってもよいという様な気持ち、最後にもう一度良い思いをしたいという様な気持ちだった。女性経験のある年長の兵隊が中心で、若い兵隊はあまりやらなかったと思う。
1945(昭和20)年3月31日 サクラサク峠で総攻撃が計画された
まず3人×3組+分隊長が各組火炎放射器を2台背負い先陣を切る(矢野さんはこの一人)。
火砲の援護や歩兵も続く段取りにはなっていたが敵陣の前には草原が広がっている。
突然背中を丸太で強打されたような感覚があり、塹壕に落ちた。お腹が煮えたぎるように熱く、吐いても吐いても腹がぐらぐらする。敵陣の真ん前なのに「殺せ、殺せ」と叫んだ。一思いに死んだほうがましだと思って弾に当たろうと塹壕の外に出ようとするが、背丈近くある塹壕で這い上がれない。軍刀で自殺しようとしたが気づいた部下に止められた。彼ひとり無傷で部隊に報告に戻らせたので、夜になって戦況が落ち着くと部隊から救出に来てくれた。
6つの破片が入っており一つは腰の骨をかすって浮き出てくるまで時間がかかったが、これが出てきてその後はめきめき快復した。
同年5月31日~ 山中を敗走
山中でうまそうな匂いを出して肉を食っている者がいる。何を食っているんだと聞くとカラバオ(水牛)と言うが山中に水牛がいる訳はない。
「食わせろ」というと「くせになるから駄目だ」と言う。腹が減ってたまらず「良いから食わせろ」と奪うようにして食べた。食べると「代わりの分を取って来い」と言われた。取って来いと言われてもと思ったが、場所を教えられて行くと、片ももを削がれた日本兵の遺体に布がかけてある。反対のももを削いで渡したが何とも嫌なものだった。
皆自分で取ったものは食べにくいのだと思う。
今なら極限状態でも同じことはしないように思うが戦争だから出来たのだと思う。
次第に食糧目当てに日本軍同士、日本兵同士で襲いあうようになった。こういう事は一度自分たちもそういう目に合うとやる事を覚える。
また疑心暗鬼で全部信用出来なくなり、どうせやられるなら先にやってしまえとなる。互いに武器を持っているからエスカレートしていく。
同年8月19日 敗戦を知る
それまでも降伏するようにというビラは撒かれていたが、この時は“天皇陛下の命によって”無条件降伏したと書かれていたこと。
米軍は攻撃を中止したと書かれていて、そういえばと思い当たったので信じる気になった。
(敗戦は)嬉しかった(何とも言えない表情)。
生きて帰ることは考えられなかったが、現役で出征してから5年、とにかく1度で良いから日本に帰りたいと思っていた。
そのあと死んでも良いから一度は帰りたいというのが願いだったから。
同年12月 復員
聞き取りした人のメモ
「ルソン島敗残記」は、戦後1年かけて自分のための個人的な記録として書いたものを、知人が知らない間に出版社に持ち込み、気づいた時には段取りがすっかり出来上がっていて、そこまで進んでいるなら・・・と出版したとのこと。 ご自宅のお庭に「不戦」と書かれ故郷を指さしている様な日本兵の彫刻がありました。「戦友の像ですか」と尋ねましたら、「自分の像で自身への戒めとしている」と答えられました。「最初は観音像を考えていたがあの日の自分を忘れないようにしたいと思った。だからわざと敗残兵の像にした、片方の軍靴が脱げているでしょう」