インタビュー記録

1937(昭和12)年8月 歩兵第35連隊に召集(富山)


結婚4か月目。第2乙種で、第2なら兵隊にならんだろうと結婚したが、日中戦争が始まり第1乙に繰り上げ編入された。 1期の検閲がすむまで富山。 同年兵が第4回の補充で中国にわたったが残った。第5回目の補充だと思う。中国へ渡った。
 

同年11月か12月頃 上海から本隊のある蘇州に


蘇州で警備。歩いて、バンプーってところに着くと、城門の入口の所に日本の少尉の人が、「ぬた」みたいに○○して、帽子と肩章を飾っていて、なんとひでえことしてるもんやと思って、こんなものは、俺らは暴れるだけ暴れて、そう思って蘇州へ行く。

1938(昭和13)5月頃~8月 徐州作戦、


大王山という所の戦闘で、知り合いがやられて、聯隊本部に担架に乗せられていた。「山崎、山崎」呼ぶので、担架に行って顔を見て「今にお前の仇をとってやるから」と言った。 しばらくして帰ってきたら、補充衛生兵の教育を受けんかということで1ヶ月部隊に行って衛生兵の教育を受けた。医者の代わりを1ヶ月くらいで間に合うんかなあと思った。 みんな集まって旅団長の訓示を聞いた。中隊に2人いた衛生兵の1人(岐阜県下呂出身)が内地の病院へ入院することになって、その人の代わりになった。看護長の伍長の指揮下に入った。行軍していると豆のできる人がいるので、手当てをしたりカンフル注射を打った。行軍になったら、兵隊の豆の手当てで自分が休む暇がない。 いよいよ蘇州から汽車に乗ってバンプーに行った。死体がごろごろしていて、臭くて臭くくて飯が食えたもんじゃない。 部隊とはぐれてしまった。班長が部隊名を書いた紙をおいてくれたので、それを目印に部隊に戻った。中隊に着くと「山崎大丈夫か」といっておかゆをくれたり、「お前まんま食わないとやられるぞ」と言われて次の日から気を付けて行った。2~3日したら下痢になった。ここで死ぬんじゃないかと思ったが、薬を飲んで治った。やれやれと思った。 鉄道の線路を歩いてどんどん攻めていく。 ある時、敵が陣地を構えて、トーチカ陣地を作って、そこを明日攻撃することが決まった。 その川の様子を見に行くことになった。軍曹と同年兵2人と一緒に川の淵へ行った。軍曹が「山崎、よしと言ったらお前銃剣で刺せ」と言った。それまでは藁人形を突く練習はしていても、本物を突いたことはない。「こーらひどいことになったなあ」と思った。けれども命令だから仕方ない。 腹を決めて、班長と中国人と並んで、橋をちょっと下がった草むらで座った。班長に「よし」と言われて、力まかせに、まるで豆腐を刺すようだった。7~8回刺して、「これでもう死んだろ」と思ってまわしたら、草むらのところで立ち上がろうとした。また慌てて刺して、昼間見たら蜂の巣と思うくらい自分で1生懸命刺した。中国人は死んでしまった。 刺し殺してから剣を磨いていたら、山田(同年兵)が倒れた。赤槍会の投げやりでやられたかと思って、かげへ入って、「山田、山田」と言ったが変化がない。背中をのぞいてみたが何も刺さっていない。靴でけったら気が付いて「どうしたんや」といったら、「剣を磨いていたら、突いた相手の血の臭いでひきつけちゃった」。 斥候に行って明日川を渡るので、川の様子を見に行って、現地人が歩いて来て、班長が話していて「俺は土民で兵隊じゃない」と言っていたが、一方で中国人の服を着ていても鉄砲や弾を隠して持っている 翌日、河を渡って敵のトーチカ陣地に入った。1人いて、釘で打たれて針金で縛られて「1人で死守しろ」ということだった。「殺してもいいか」と聞いたら「ハオ、ハオ」と言った。人間は必ず3日たつと人間に生まれてくると教育されていると聞いた。トーチカには機関銃がなかった。一つでもとられないように持って行ってしまっていた。 突撃の合図があって、壕から駆け足で行った。今にも死ぬんじゃねえかと思った。 線路の固い枕木を歩くのでまめが出来る。幸い子供のころから剣道をやっていて、足に固いタコが出来ていたので出来なかった。休憩のときは、豆のできやすい人の手当てをして、それが終わるとすぐ出発。大体1時間に5分か10分休んで休憩。 ・みんざん峠を越える時、いつ死ぬかわからないので、酒(チャンチュウ)を飲んで行軍していた。崖で岩につかまって降りる時、酒に酔っていたので、戦闘帽を飛ばされてしまった。さといもの皮をつけて行軍していた。軍曹が「山崎お前なんちゅう恰好や」と言って、帽子を一つ拾ってきてくれた。  それからおそらく「ねんぜんろ」で突撃開始。突撃を3回やった。補充衛生兵で小銃を持っていなかったので、突撃しないで後方にいた。 こうしている間に、ひゃくりょう山という山に入った。タコツボの中に入っていた。 1線の蛸壺に入っていた「ふたむら」が眉間に弾を食らった。死んでいるのだが、衛生兵として包帯をまいていった。いくときは前から弾がくるからいいが、引くときは後ろから弾がくるから怖い 中隊の指揮班にいた。中隊長が固い人で、「戦死しても指1本でも送ってやれ」ということで、どうやって焼いたか覚えがないが、骨だけ拾った。 そんなことして行軍して、2回突撃をやった。そのときに初めてわかったのは、怖がってみんなと1緒に○○するとやられる。 みんなと1緒にばーっと出ると、狙撃兵にやられる。突撃した時にシナ人が手榴弾を投げようするのをみつけた。「手榴弾やぞー!」と言って、伏せた。 並んでいた13人か、破片が入って、その時に、岐阜県の白木という上等兵がすぐ飛んで行って銃剣で刺した。 びだんかわしゅうには恩がある。中隊長が特別お世話になった人。 ひゃくりょうざんで准尉が流れ弾に当たって死んだ。 中隊長と准尉が2人で腰かけている時に、パーンと音がしたので飛んで行った。 准尉がやられた。ちゃんと姿勢を直して天皇陛下万歳3唱して、母ちゃん呼んでるのか親を呼んでるのか分からないが、息を絶えて行った。この時に、このひとは偉い人やなあ、てめえやられたって中隊長じゃなかってよかったんじゃないですかって。 補給はあったが、山に入るとなくなった。蜜蜂の巣を見つけて缶に採ってきて食べた。 7中隊が“そんかん”という山の中で包囲され、中隊長以下全滅したことがある。 命令でそこへどんな様子か見に行った。すると迫撃の弾がどんどんくる。 盲腸患者が出て、船で岳州まで連れて行った。 もともと中国で薬売りをしていて、中国語がしゃべれる古参上等兵がいた。中国服を着て、密偵となって様子を探っていた。 “しゃふ“というところに上陸した時、弾がどんどんときて、中隊長が「この部落焼いてまえばいい」と言った。高粱の積んであるところに、火を付けて、風でだーっと焼けてくる。どっかへ逃げようと屋根へ上がってくるのを、日本の兵隊が、射的っていうのか、ポーンと撃つと、火の中に転がり込んだ。弾がぴしゃっと止んだ。 中隊長は戦争のことをよく知っていた。高粱の中にやっぱり弾が隠してあって、ポンポンはじけた。 入口の所にしばって逃げてでれないようにして、屋根にあがる奴は射的。 そうやって1部落焼いた。1部落といっても5、6軒あった。 土民の格好をしていて、日本軍と近寄って、調べている奴がいた。 中には通訳代わりで使っていて、部隊の名前だとか、武器やらいろいろ所持している者が敵に知らせている。 ひどいこというとまた拷問にかける。頭を下にして、手ぬぐいをかぶせて鼻にやかんで水をかける。 わかい将校で、頭がよかったか知らないが、シナ語で「おはよう」を覚えてシナ服で町にでていったり。

1940(昭和15)年 夏頃 召集解除

1942(昭和17)年 夏頃 2回目の応召 満州・遼陽へ


岡崎はるおと言う相撲選手がいた。しまざき准尉が「山崎、○○うたねえか」と言って、「こんなところに○○いるわけねえだろ」と言ったら、遺骨整理の命令をくれた。 遼陽のさんいち部隊にいた。けいりんに行って、船に乗った。歩哨が2人ずつ付く。 内地に着くと、50部隊の兵隊が受領に来ていた。岡崎はるおの貴重品を渡す。それから4日間家にいた。 ・遼陽で3年兵と召集兵と、2年兵、初年兵。そこには神岡の町から、自分と、大阪、成田という3人の古兵がいた。 ・満州では戦場はない。

1943(昭和18)年12月 長期服務者は帰っていいということで除隊

 

1944(昭和19)年 徴用


28歳、岐阜の川崎航空に入れということになった。ばかくせえと思った。俺はシナいって満州いって、他にひっぱる奴は沢山おるじゃないかと県庁に詰め寄った。まったくやる気もでない。しかし女房が金沢の病院にいてカネは要るのだからと仕事を覚えた。その後女房は死んだ。子供はどうやって生きていくのかと思った。

1945(昭和20)年8月敗戦間際 召集(3度目の軍隊)、今度は怒部隊(第73師団)


妻が死亡。子供を養わねばならなかった。 兵長だったので外に自由に出られるようになった。漁師と仲良くなって、外泊の時ににぼしなどを貰って帰った。そうしないと子供が痩せ死んでしまう。 豊橋の空襲を見た。玉音放送を聞く前にラジオを聞いたのか工兵隊の連中が来て「戦争はすんでるぞー」と言っていた。いつもは来ていない工兵隊。噂かラジオかわからない。

1945(昭和20)年8月15日、こだか山の中隊本部で玉音放送をきく。


戦争がすんだからやる気がねえなあ。昼に放送を聞く。よもやそんなことになるとは思っていなかった。豊橋がやられるのを見て、やっぱり勝てんなと思った。 やれやれあーと思った。いろいろなものを整理せんと思って、下士官の仲間だと思うと、倉庫の被服整理などを手伝って、1番最後に米6升と乾パンをもらって帰って来た。神岡出身の初年兵2人が乾パンの金平糖を食いたがったのであげた。 それで高山にきたら旅館がいっぱいで寝るところがない。土間で寝させてくれと頼んだ。 ここで終戦になって、渥美半島の“うら“で軍旗を焼却。下士官7、8人、将校5人くらいで焼却。そして復員。

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