インタビュー記録

1944(昭和19)年2月 陸軍特別幹部候補生に志願、合格

同年4月20日 浜松中部130部隊・第1航測連隊・滝川第6中隊に入隊

同年8月 北京市郊外・南苑飛行場 51対空無線隊に転属

 同期の一部は硫黄島特別航測隊並びに沖縄本島第26対空無線隊転属、全員戦死した。

1945(昭和20)年1月 石家荘第1航空軍教育隊に転属

同年7月15日 北朝鮮平壤飛行場 56対空無線隊に転属

1945(昭和20)年8月15日 敗戦

 飛行場には隠してあった飛行機が「まだこんな多数あったのか」と思うほど並べられた。
 割腹自殺する高級参謀あり、数多くの若い兵士を死地に送り出した責任感から爆撃機に搭乗、飛行場に突入して自爆する幹部将校も。

同年8月23日 ソ連軍、平壤に侵攻

同年9月3日 逃亡

 ソ連軍の命令により平壤市から12km郊外にある三合里捕虜収容所へ移動したが、「忘れものをした」と戻りのトラックに乗り一人で逃亡。航空廠社宅で過ごす間にソ連兵の略奪に遇う。
 日本人の多い平壤市内に移動。7月に北京から平壤へ転属した際に列車で一緒だった村上さんのお宅にお世話になる。軍歴を隠し、名前を「村上 弘」と変え平壤市民となる。

同年10月25日 捕虜市民大隊に

 平壌駅で使役中の捕虜市民大隊に村上さんの親戚がいて、病気が重く危ないとのことで身代わりとして潜り込む。

同年11月4日 捕虜市民大隊、平壤駅を出発

 日本に送還の筈が延吉に。途中、食料の配給は無く、線路に落ちている大豆を一粒一粒拾い集めて食べ、生き延びた。その時に新京工大の教師岡田貞重さんと出会う

同年11月24日 延吉646捕虜収容所へ


(近くに、関東軍将兵がシベリアに送り込まれる際の最大の中継地、28捕虜収容所がある。)

同年12月31日 解放

 夕食前、市民大隊約千名にのみ集合命令がかかり“解放”、自由を得ても、仲間どころか知人とて一人もいない異国の街延吉に放り出される。「間接的大量虐殺」。

1946(昭和21)年


 食べ物はなく、5日間水以外口にするものがなかった。ある日、大豆を拾い集めた仲間の岡田貞重さんと偶然の再会。彼は行き倒れたところを酒造所の社長金興造氏に助けられて麹菌の培養をしていた。その助手の仕事を得る。
 その後も、保安軍兵工廠へ先に移って松根油の研究をしていた岡田さんから手伝いに来てくれと連絡があり「吉東保安軍 技術員 同志 村上 弘」となる。日本人であるのに隊長を始め全員が薄気味悪いほど親切で、差別待遇は一切無かった。軍隊前の職場藤倉ゴム工業時代に覚えた製図の腕を活かし、ソ連製自動小銃の製図を作成。重宝がられる。

同年8月17日 日本人引き揚げ開始

 延吉、吉林、新京、奉天、錦州を経て胡蘆島(島ではなく港町)より乗船

同年10月1日 佐世保に復員

同年10月5日 東京市麻布区(現東京都港区六本木)の自宅焼け跡に辿り着く

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