インタビュー記録
1942(昭和17)年10月 学徒臨時徴兵
東京外国語学校のロシア語学科にいた。ソ連の新聞を図書館で読んで日本の戦況も知っていた。左翼の学生グループに入っていた。特高月報というのがあり、そこに「中野6人事件」と言うのが載っている。共産思想を広めようとしているとでっち上げられた。私を含め3人は軍隊に入ったので警察の手が出なかった。あとの3人は一斉逮捕され、1名は結核で留置所で死に、あと2名も結核になった。
そういう人間が軍隊に入ったのは偽善的。日本は必ず負けると分かる。負けた時は革命が起こると思っている。軍隊に入って戦場に連れて行かれても生き残ることを第1に考える。
乙種幹部候補生になる。
1944(昭和19)年
第43師団(「誉」部隊)分隊長としてサイパン島に従軍する
僕は実は、部下に対して、自分に対して、自分の思想に対して、とても無責任な行動を戦場の第1日目に取っているんですね。そのことを考えると、もの凄く何というか・・・、良心が痛むというか・・・、これは最期まで、僕は死ぬまでこの気持ちを引きずっていかなければならない訳ですけれども、分隊長だった僕は「突撃せよ」と言われて、突撃の命令を出しているんです。
命令すると、僕が真っ先に行かなきゃいけないので、目の前7、80メートルから100メートルのところにだあっといるアメリカ軍に向かって僕が真っ先に飛び出したんですね。すると、飛び出したのはいいんだけど、突撃しろって言われて突撃しているんだから、そういう無責任な気持ちで突撃の命令を出しているんだから、飛び出してそれからどうするという当ても何も無い。
飛び出してすぐに大きな石ころがあって、それが目に入ったんで、すぐそこに飛び込んで身を屈めたら、その岩に向かって自動小銃が「バババババババ」「ガチガチガチ~ン」と音がして、僕の喉を弾がかすって、血がボタボタボタッと落ちて、僕はそこに伏せたまま動けなくなった。
僕の後に何人付いてきているかそっと見たら、2人の部下だけ。後のは怖くて塹壕から出てきていない。ところが僕の命令に忠実に従って出てきた左側の部下はすぐに撃たれて死んでしまった。もう一人右の方の部下も右目をやられて、目が見えなくなって塹壕に引き返した。結局僕も1人になってしまったものだから、塹壕に駆け戻った。
その行為が僕はずっと心に咎めている。まあ、言い訳は色々自分に一杯していて、結局負け戦なんだから、島で戦争をして負けたら日本軍の場合は全員生き残っちゃいけない訳なんですから、玉砕命令が必ず出る、だから僕の命令のせいで真っ先に死んだ兵隊に対しては申し訳ないと思うけど、しかしどっちみち死ぬんじゃないか、そういう言い訳を自分にして今日まで来ている訳ですけど、それは言い訳であってですね、自分に対して「何て情けない人間だ」という思いは今でもある訳です。
米軍が僕たちの正面に上陸してきた第1日目、僕の所属部隊は壊滅状態になって、大部分は海岸で死んだ。残りが山の中に逃げた。
とにかく余りにも圧倒的な力の差。サイパン島に上陸してきた米軍は、海兵隊2個師団・5万人と、歩兵の1個師団・1万7千人位の併せて7万人位。それを迎え撃った日本軍は、数は4万人位いたけれども、持っている武器が圧倒的に日本は古くさい武器で、大人と赤ん坊ぐらいの違いがある。
むこうは全部自動小銃で「バババババ」とやる訳ですし、こっちは一発ずつ「ガチャン、パン。ガチャン、パン」ってやっている。機関銃というのもありますけど、日本の機関銃はすぐ弾が突っ込みを起こして、故障するんです。アメリカ軍の機関銃というのは「タン、タン、タン、タン」じゃなくて、「タラララララララ」って速度が速い。もう、まるっきり違う訳ですよ。そういうのを相手にして戦争をしている訳ですから、もうどうにもこうにも話にならない。
山の中をうろうろして、所属部隊と合流したが、米軍に滅茶苦茶に叩かれて、こっちに逃げて叩かれて、またこっちに逃げて叩かれて、またこっちに逃げて、それを繰り返して僕の連隊は山中で全滅した。部下と同期の兵隊(京大経済学部卒)M君と逃げたが、M君はロケット弾の直撃を受けて死んだ。
僕と2人の部下だけになって夜海岸に出てきて、ジャングルにまた入って叩かれ、また海岸に出てきたんです。その海岸で僕は部下に「もう日本軍は負けることははっきりしているんで、こんな馬鹿馬鹿しい戦争で犬死するのはよそうではないか。日本が負けたら日本の全てが無くなって仕舞うと思っているかもしれないけど、日本帝国が負けたって日本の社会は残るんだぞ、日本人も残るんだ。日本の新しい社会を作ってスタートするんだから、その時まで生き残ろうじゃないか。」と言いました。そしたら部下2人が「班長の言われることは非国民の思想だ。自分たちは帝国軍人として恥ずかしくない死に方をしたい。自分たちは行動を共に出来ないからここで別れます。」と言って彼らは夜ジャングルの中に消えていった。
1回珊瑚礁があって干潮の時は見える。日本の貨物船が舳先だけ見えて沈んでいる所があるので、珊瑚礁伝いに泳ぎ着こうと夢のような事を考えた。側にいた4~5名も一緒に行きましょうとなって泳ぎだしたら、真っ暗な夜の海、米軍から曳光弾で撃たれて、弾がぴゅーんぴゅーんと波に跳ねるのが見える。怖くなったら、海軍の若い兵隊が引き返そうと言って皆で戻った。
僕はいよいよ1人になっちゃって、投降しようという気持ちになって、ある洞窟に辿り着いたんです。
そこには日本の兵隊が7、8人、下士官が洞窟のボスになってそこを支配していて、その下に乳飲み子を抱えた若い母親たちがいました。もうオッパイが出ないですから、食うや食わずだから、赤ん坊が泣くわけですよ。
そしたらその下士官が「よし、もう赤ん坊を泣かせるな。俺たちは身の安全を図るためにこの洞窟にいるんじゃないんだぞ。俺たちは戦闘をしているんだから、お前ら赤ん坊を泣かせるなら全部ここを出て行くか、赤ん坊を殺すかどちらかにしろ。ここにいたいなら全部赤ん坊を殺せ。」そう命令した訳です。
一人の母親が洞窟から出て行きましたが、あとの母親は決心が付かなくて赤ん坊を殺しますと・・・殺しにかかるのだけれど、なかなか殺せないので「よし、俺の部下にやらせるから早く殺せ」と下士官が言う。赤ん坊は10人近くいたと思いますけど、結局全部殺しました。首を絞めて殺したと思います。
僕は洞窟の隅に1人いたが、下士官なのに気付いたようで行動をともにしなくても黙殺された。どうやって投降するかを思い悩んでいた。
同年7月14日 投降
3日目ぐらいになると洞窟の中は赤ん坊の死骸の臭いで居たたまれなくなった。投降しようと思って夜中にこっそり洞窟を抜け出すと、もう最終段階なのであっちでもこっちでも手榴弾での自決が始まっている。「天皇陛下、万歳!」と言ってカチーンといって7秒で爆発する。あっちの岩で「バーン!」こっちで「バーン」。それに巻き込まれて死にたくはない。
中年の夫婦者と一人になった15・6歳の娘さんと、中年の兵隊だかなんだかよく分かんない男性の4人と会って一緒に夜をすごした。朝になると、アメリカ軍が拡声器で投降勧告を始める「日本軍のみなさ~ん。武器を捨てて出てきなさ~い。10分起ったらまた攻撃を始めます。」僕は「これからちょっと出かけます。」何処に何しに行くとも言わない、どうするか・・・とか言わない、もう後の人の事は考えない事にして歩き出して、いよいよ原っぱに出るとアメリカ軍が銃を向ける。僕は手を挙げて振り返ると、あの4人を含めて民間人が10人ぐらいぞろぞろとついて来ていた。
米兵は余裕があり、くったくが無く、これが恐ろしい敵なのかと。一緒に捕虜になった中に首に重傷を負った女性がいたが、米兵が自分で抱きかかえて助手席に乗り野戦病院に連れて行った。なんと余裕があり人道的だと衝撃を受けた。
7月19日 大本営発表
「・・・16日までに全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む。サイパン島の在留邦人は終始軍に協力し、およそ戦い得るものは戦闘に参加し、おおむね将兵と運命を共にせるもののごとし」
サイパン島には2万5~6千人の在留邦人と原住民、朝鮮人もいた。それをそのままにして戦闘を行った。日本的な発想でちっともおかしいと思っていない。在留邦人が軍とあるのは当たり前と思っている。軍が死ねば在留邦人も道連れになって死ぬのは当たり前と指導者が考えている。部下は98%死んで当たり前、自分は自決する、在留邦人も死んで当たり前。米軍なら責任を問われること。
1929年、「万国捕虜条約」(註:「捕虜の待遇に関する条約」のこと)が結ばれたが日本は批准しなかった。日本軍には捕虜になるものはない、一方で外国の捕虜を養わなければいけなくなるのでは間尺に合わない。また日本兵に条約の教育をしたら捕虜になっても良いという気持ちを抱かせる、と考えた。
中隊長は米軍上陸の初日の夜、気が狂ったのか、気が狂ったふりをしたのか居なくなって仕舞った。彼は生き残り、ハワイの収容所でいるという事を聞いたが、将校と下士官は別な所にいるので顔を会わすことはなかった。
20年ほど前援護局で調べると、中隊で生還したのは僕と中隊長と北関東の農家出身の兵隊の3名。そこだけ「生還」というハンコが押してある。あとは皆戦死、最後に分かれた2名も勿論死んでいた。
本当に狂ったのかどうか中隊長に会って聞きたいと思うけど、相手にも恥をかかせるし、自分も恥をかかないといけないし、決心がつかなくて、僕より年上だからもう死んだと思う。