インタビュー記録

1938(昭和13)年1月10日 現役とまったく同じで召集

 青森県金木町から歩兵第26連隊第1大隊(安達)第1機関銃中隊入隊。
 青森、秋田、山形から三県から各1,000名。
 同年3月3日室蘭港より乗船。
 実際は2ヶ月の訓練だったのでチチハルで初年兵補充教育。

同年5月6日 「徐州作戦」支援に参加

 一等兵に出動命令がでて、貨車にのる。一ヶ月半ずっと歩かされた。戦争するよりも病気で倒れる人が多かった。

 初年兵の重機関銃の小隊。弾の箱を背負って行軍。敵前渡河。工兵隊がきて橋を2本掛ける。敵兵の攻撃で1本は失敗。渡河。薄暗くなったので、陣地構築。佐藤という小隊長以下9名が左翼を防御。重機関銃だけではなく、小銃隊も参加。機関銃をすえて、3メートルくらい離れたところで箱を置いた。3名で伏せて待機。小山という分隊長は、自分は隠れて兵士に進め進めと怒鳴る、最悪なやつだった。

 小雨が降ってきた。朝から何も食べていなかったので野戦食を食べていたら、流れ弾が来て山田は胸に打たれて戦死。大きな声で「山田戦死」と叫んだ。それが近くにいた中国軍の攻撃を集めることになり、青龍刀を振り回してむかってくる。後ろの中国軍がどんどん手榴弾を投げてくる。それで前進してくる中国軍がやられるむちゃくちゃな突撃。初年兵で始めての戦闘だったので腰が抜けて動けなかった。しばらく交戦して、静寂。暗闇の中、這ってみたら生きている兵隊もいた。お互い声も出ず。

 当時日本の92式重機関銃は世界でもレベルの高い兵器で、いかなることがあっても敵に渡すなと言われていた。すぐ前から敵兵が撃ってきた。とにかく重機関銃を担いで逃げようと思ったが、動けず。後方100メートル後ろの友軍が援護射撃。後ろからも前からも撃たれて、とにかく撃つしかないとなって、撃ちだした。敵側が沈黙。匍匐前進で重機関銃を持って後方へ。途中に砲弾の穴があった。60キロもある重たいものなので、穴にはいったら分隊長が逃げ隠れていたことがわかった。中隊本部まで「俺たちだ」と叫んで後退。手伝いに何名かきてくれた。

 次に鈴木という小隊長の指揮下に入れと言われた。戦闘後の処理。前に進むと集落が燃えている。中国軍が略奪して火をつけたようだった。戦死した日本兵の死体を運んで、機関銃の部品を持って帰ってきた。中隊長から撤退命令。大隊本部と連絡を取って撤退。大隊本部から友軍まで戻るのは大変だ、ということで運んできた死体を埋葬。
朝になって、各分隊から1名決死隊を作って、死体を収容との命令。小銃を背負って、前線に死体収容と偵察。不発の手榴弾(中国軍側)が一杯あった。早々と敵の死体は回収されていた。

徐州作戦が終わって、休養。

1939(昭和14)年6月20日 出動命令、ノモンハン作戦に参加

 25連隊に出動命令が出たが、将校が不在で、26連隊に出動命令が出た。
 7分隊の射手担当。師団の剣術大会に出て、軽い怪我をして休んでいた。訓練にも出ていなかった。脚気になってしまった。出動命令がきたときに、その一晩で準備。21日に貨車に載った。第七師団師団長の見送りがあって感激した。貨車に載ると、扉が外から閉じ込められた。6月23日にハイラルに到着。6月27日にトラックに乗って部隊が移動。機関銃2丁を搭載、弾薬、食料を搭載。29日の朝、3日間の休養に入る。30日の日に戦車が突然現れ、すわ戦闘かと思ったら友軍の戦車だった。

 7月2日の午前8時に出発。3日にハルハ河到着。川幅7メートル、水深2メートルくらい。流れは速かった。渡河の橋がなかなかできずに、足止め。橋がそこまで頑丈ではなくて、トラックの品物は降ろして運んで、空のトラックを橋を通して、荷物を対岸で積むということが必要だった。
 朝の3時開始したのに、橋の遅延、物資の運びなどがあり、渡河完了が午前10時になっていた。
 ソ連軍の飛行機3機が橋を狙って爆撃をしてきた。幸い、橋に命中しなかった。すぐに低空飛行また飛行機がきたので、機関銃で攻撃。こちらは日本軍機だった。命中してしまい、墜落。「やってしまった」と思った。この件は緘口令がひかれた。まもなく、前方に何発か砲弾が着弾。的確ではないが、戦車砲ではないことはわかった。一度全員下車。前進命令があったので、また乗って前進。友軍の機体をこのとき上空に確認できた。歩兵は3個中隊、450名くらいが前進。やがて、砲弾が飛び交い、戦車砲もまじっているのがわかった。戦車砲は垂直で飛んでくるので、砲兵のものと違うとわかる。

 戦車戦になると、肉薄攻撃班が組織される。その後ろに機関銃、速射砲、連隊砲が後ろに続く。肉薄攻撃班は地雷を持って、戦車にぶつける。肉薄攻撃班の生存率は低い。速射砲がなんといっても戦車戦では頼りになる。機関銃では戦車の装甲を通すのは難しい。つなぎ目を狙って、鉄鋼弾を打ち込めば可能性はある。薄い装甲の戦車は、機関銃の鉄鋼弾で通すのは案外簡単。

 歩兵は火炎瓶で戦う。ハイラルを出る際に、サイダービン4本くらい配給。それを飲む。空瓶はすてるなとの命令。戦闘時にガソリンを入れて火炎瓶攻撃をするため。歩兵は殻のサイダービンを腰につけていた。戦車の後ろにサイダービンをぶつけると、火をつけなくても熱いから、ガソリンいれたものだけですぐに燃えることが実戦でわかった。ただ、そばまで走って近づくのは簡単ではない。

 鉄鋼弾でとにかく撃つ。中戦車はなかなか破壊できなかった。怖かった。14-5メートルに近づいて撃ってもそれでもはじかれる。後ろから次々に戦車がくるので、破壊は容易ではなかった。目の前で戦車の後ろにガソリン入りのサイダービンがあたると火がつく。中からソ連兵が熱くて出てくる。それを小銃隊が撃ち殺していた。意外と接近すると戦車砲は当たらない。だけどおっかない。蒙古騎兵隊とも戦った。これには機関銃は無敵だった。次々にやっつけることができた。

 午後の3時ごろまでに敵の戦車軍団が波状攻撃。日本の戦車は、渡河した橋を重さでわたることが出来ずに、このときの戦闘に参加できなかったとうわさで聞いている。ただ、全体としては平原にソ連軍がしかけたピアノ線で移動をさえぎられたこと、性能の違いで一方的にやられた。

 ソ連軍歩兵に向かって機関銃で撃っている最中にソ連軍の狙撃兵から撃たれた。右から撃ってきた。そのときに鉄兜に命中。負傷。このとき、鉄兜に日章旗をいれて、鉄兜が浮いていたので、致命傷にならなかった。運がよかった。それでも血が出ていて、眠たくなってきた。
 そのとき、日本軍とソ連軍の歩兵の突撃が始まっていた。ウラーウラーの声。夜中に敵の砲弾が近くに着弾して、目が覚めた。付近を見ても誰もいない。暗闇。後ろからソ連軍戦車が7台ほどきた。ソ連軍戦車の先に友軍がいるに違いないと思い、7台の戦車のあとを追いかけた。案の定、味方が固まっていた。ただ、日本軍の夜襲を警戒して、ソ連軍戦車は攻撃をせずに、走り去った。このタイミングで味方の点呼。そのとき、ヘッドライトをつけたトラックが6台ほど走ってきた。分隊長は「敵だが、撃つな。撃つと反撃されて全滅する」と命令をした。ところが、ちかくの小銃部隊がトラックに向かって撃ってしまった。これが呼び水になり、トラックと戦車が混じって、日本軍に攻撃をしてきた。ばれたらしかたないので、戦闘に入る。手榴弾を投げあい。手榴弾を爆発前に投げ返すことも。初年兵でもたもたして手首が吹き飛んだのもいた。7月4日の朝方の話。接近してきた敵に、第二中隊に対して突撃命令。暗闇を突撃、敵の重機関銃と戦車砲でばたばたと歩兵がやられていく。突撃の後、静寂。みんなやられたのか?第三中隊突撃の命令が飛ぶ。
 いよいよソ連軍戦車も近づく。ここで機関銃突撃の命令。普通、機関銃は突撃しない。命令を下した大隊長も刀を抜いて突撃。山中さんも負傷していたが、突撃。敵の機関銃がバリバリ飛んでくる。周りの兵士も倒れる。山中さんの近くで手榴弾が破裂。左足をやられた。次々と突撃したからか、ソ連軍戦車が後退しだした。

 このタイミングで生存者100メートルほど後退して、再度陣地構築。前にも後ろにもソ連軍。円陣を組んだ。穴を掘る道具はなく、鉄兜で掘り出す。穴掘って機関銃も配置。掘るものがないので、ほとんど単独の蛸壺になった。機関銃だけはみなで手伝ってもらって穴を掘った。
 日があけてくると、友軍機3機がバンクしてくれて、包囲している日本軍陣地周辺に爆弾を落としてくれた。一息ついた。しかし、味方はまだこない。連絡もない。隊長から、新しい命令もなく、包囲を突破する力もないので玉砕しかないと覚悟を述べた。兵士はほとんど褌一丁の状態。やがて、水を飲んでいないので、皆喉が渇きだす。近藤隊長は無断撤退出来ない。撤退しても処分されるとの判断。

 日本軍の重機関銃の音、味方の救援軍到着。敵も気づいて撃ってくる。後退する際に、「機関銃はどうするか?」と迷った。応援隊の上官が「何しているんだ、機関銃は分解して壊せ。早く後退しろ」との命令。それっと、逃げ出した。渡河地点まで何とか後退できた。歩けなくなって座っていた。その後に、川に飛び込んで水を飲んでいたら上官が「ばかやろう。早く後退しろ。橋は爆破する」とのことだった。無事に撤退。ハルハ川から200メートルも離れていないところで、橋が爆破される様子がわかった。爆破に間に合わない兵士が川を渡っている様子もわかった。流されたのもいたのではないか。敵の戦車は渡れないので、追撃は終わった。
 その後、足の治療で野戦病院へ。気がつけば足から蛆がたくさん出てきた。軍医から「お前は運がいい。蛆のおかげで傷が悪化しなかった」といわれた。
 チチハルの部隊に送られ、病院へ。20日くらいで退院。原隊に復帰。

1940(昭和15)年10月20日ごろに除隊

 その後、北京の鉄道関係の軍属になり、終戦まで召集を免れる。

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