インタビュー記録

1944年(昭和19年)11月20日 歩兵第61連隊(和歌山)に現役入営

 兄弟6人と女性1人の7人。6人の内上から4人が出征した。山本さんは4男だった。長男はこの年10月に戦死していたがその時は知らなかった。
 家の門には「軍国の家」と札がはられ、お父さんはそれをちょっと威張っていた。
 入営前は呉の海軍航空廠で、1年ほど零戦のクランク軸の研磨をしていた。

1944(昭和19)年11月24日 和歌山出発

 行き先は知らされなかったが、支給された被服で満州かと思った。(実際には北支だった。)
 船底に詰め込まれて博多から釜山へ。列車で鮮満(朝鮮・満州)国境(安東)、山海関、天津、北京を通過。

同年12月1日石門(石家荘)着 独立歩兵第2旅団第196大隊第1中隊に編入

 初年兵教育はしごきにしごかれた。「真空地帯」と同じ。体格は良いほうだったのであごを出すようなことはなかった。
 野外演習は襟章をはずして行われた。周囲を八路軍に囲まれていたので、初年兵教育だとは知られたくなかったのではないか。
 夜間演習などは落伍したら八路軍の捕虜になるような環境で、内務班も中隊長も小隊長も必死、徹底的にしごかなければいけないし、落伍を出すことも出来ない。
 召し上げの当番のとき、炊事場でぜんざいを貰ったが、下は氷で足をすべらせすてーんとひっくり返して仕舞った。謝ったって何したって。班長にひっぱたかれるわ、古年兵には引っぱたかれるわ、同年兵には恨まれるわ。代わりをくれるわけはないし、腫れるぐらいひっぱたかれたけど、申し訳なくて自分でも泣いた。

1945(昭和20)年3月30日より

 分遣隊に分かれ、正太鉄道(石家荘-太源間、単線)沿線のトーチカ勤務につく。
 中隊に7~8箇所のトーチかがあった。山本さんのトーチカは鉄橋を守る事を目的としていた。望楼があって石かレンガの壁、周りに3m幅、深さ5mぐらいの壕が2重になっている。壕の出入りは板の橋を上げ下げし、衛兵所を置いている。望楼の立哨と、衛兵勤務と、トーチカの周りを回る道哨を各3交代(8時間勤務)でやる。
 とにかく何時も眠く腹が減っていた。食糧事情は客観的には決して悪い方ではなかったが、いつも腹を減らしていた。

 望楼で同年兵が手榴弾を腹に抱え自殺した。見張り勤務中に眠り込んでしまったのを見た意地悪な上年兵が脇に置かれた銃を取って下に持ってきた。望楼で爆発音がして飛んでいったら壁中に内蔵が飛び散っていた。歌のうまい男だった。同年兵皆で断片を拾い、木を集めた上に乗せて薪を焼いた。葬送のラッパも吹いた。
 後に自分も潜伏中眠り込んで銃を取り上げられた。潜伏は夜間鉄道線路に耳をつけ横になり、遠くの線路に破壊工作がないか監視する。軍靴ははかさず地下足袋で行く。真っ暗闇、横になっているのだから眠くならないわけがない。これはただでは済まないと思い色々考えたすえ、列の一番後ろをうなだれてとぼとぼと歩き、悲嘆にくれてどうしようもない、今にも死にそうな様子を見せたところ先の自殺の件を思い出したのか「山本っ、駄目だ、気を付けろ!」と怒鳴られただけですぐに銃を返してくれた。

 暑い頃、望楼で立哨中、夜の2~3時、鉄橋が燃やされ橋が落ちてしまった。鉄橋は枕木を積み上げて臨時に作っていたが、夜間その枕木に突然火の手が上がった。コーリャンのきび藁を周りに積み上げて火をはなったが、真っ暗闇だから火が出るまで分からない。同時に裏山から一斉射撃が始まった。応射したけど闇夜に鉄砲。手の付けようがなく橋は落ちてしまった。
 翌日師団司令部から人がたくさん来て、中隊長、小隊長、文哨長は全部罰を受け。私も歩哨だから免れなかった。そもそもトーチカから橋まで200メートルぐらいあり夜は気づきようがない。営倉入りになったが実際には営倉も無く、2日間の内務班謹慎で済んだ。

 日中は各部落に宣撫に出かける。また壕が崩れてくるので、各部落にお前のところは何名、お前のところは何名と苦力を出させてその監視をする。食糧は各部落から野菜や豚肉を朝には天秤や一輪車で持ってくる。何もないところで、麦畑やこーりゃん畑だけ。夜は真っ暗で狼が鳴いている。
 大隊討伐にも出かけたが、背中が汗で真っ白になる。小休止の時、スイカ畑でむさぼり食ったことがある。
 八路軍は行くと引く、引くと来る繰り返し。突っ込んでいっても逃げちゃうから白兵戦にはならない。けれども2、3人になって仕舞うとすぐにやられる。八路軍の武器はたいしたことはないが柄の長い手榴弾があり、チェコ機銃は優れている。古年兵はチェコの音がすると頭を上げない、前へといっても前へ出ない。

1945(昭和20)年8月15日

 八路軍との戦闘は負けているわけでは無かったし、食糧も窮してはいなかったから敗戦を聞いても「何故負けたんだろう。」「謀略情報に違いない」という感じだった。
 終戦後も翌年まで武装解除はされず、地方軍の要請を受けてこのまま警備にあたる、当面 の敵は八路軍であると言われた。討伐は同様に行われ敗戦後戦死した人も多い。正規軍は八路軍に押されていたのでその盾にされたのだと思う。
 連合国側の命令がどこから出ていたかは良く分からない。本部には中国の指揮官が来ていたようだが、日本軍内の指揮系統は変わらず、敗戦前後で日常の変化は無かった。給与関係も変化はなく現地の人の態度もそんなに変わらなかった。

1946年(昭和21)年2月頃(?) 天津で正規軍によって武装解除

 小学校で武装解除、14年式の拳銃が入った箱が大量に積み上げられていて驚いた。2~3ヶ月使役として米軍の船からの小麦・砂糖などの積み卸しにあたった。運搬に関わっていたのも米軍のトラック。その物量に驚いた。当然少し持ち帰った。

同年4月27日 塘沿出帆、5月4日 佐世保上陸

同年5月7日 除隊

 大阪は一面の焼け野原で何もなく、実家は消失。両親は郊外の阿倍野区に家を借りて住んでいた。背嚢と毛布を背負って探し当てて帰ると、親父は寝ていたのだと思う。素っ裸で飛び出してきたのでこちらもびっくりした。

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