インタビュー記録
1940(昭和15)年1月10日 現役入隊
歩兵第33連隊第3大隊第11中隊6班(軽機関銃)(三重県久居)
- 中隊長は大瀬昌彦大尉。
- 私的制裁は少なかったが、演習中に落伍したり失敗するとビンタをされた。
- 演習には青山高原をよく使っていた。
- 土方や百姓出身の人は足腰が強かったが、自分はよく落伍した。
1941(昭和16)年11月21日、名古屋出港。同年11月30日、パラオ入港。
同年12月8日、太平洋戦争開戦、パラオ出港。
- 夜になると船は全速力で移動。
- 第11中隊第3小隊所属。
1941(昭和16)年12月12日
ルソン島南部レガスピー(Legazpi)に敵前上陸
【註】33連隊は木村支隊に所属し、11日23時50分レガスピーに進入。12日02時45分より揚陸開始。
- 縄梯子を伝って上陸用舟艇で移動する。
- 5百メートルくらい進むと敵の兵舎があったが、すでに敵は逃げた後で誰もおらず、地下に缶詰が置き去りになっていた。その缶詰を拾って持って歩いた。おいしかった。
- それからマニラへ徒歩行軍やトラックで移動。(※第1、2小隊には内地から送られた自転車が支給されていたが、第3小隊にはなかった。)
【補足】第6中隊が警備のためにレガスピーに残留し、代わりに第11中隊が第2大隊(安田治少佐)の指揮下に入る。
- マニラまでにゲリラが少しばかりでた。悪い民間人は放火したり泥棒・略奪する程度だった。民間人が日本の兵隊を襲うことは少なかったと思う。そして民間人を日本兵が殺すことはあんまりなかった。
- 沖縄の出身の日本人の移民が通訳をしていた。
1942(昭和17)年1月3日 自転車部隊がマニラに入ったが、自分達はその手前(ラグナ湖近くのサンタグース河付近)を警備。
同年1月末 第1次バターン作戦参加
- マニラから5日くらい歩いてバターン半島に入る。
- 1度ゲリラを捕まえたが他の部隊に引き渡したので、その後どうなったのかは分からない。
- パガック(Bagac)南東のナショナル街道(※現在の「Gov. J.J. Linao National Road」?)を境に米軍と対峙。
- 陣地の前はジャングル。15メートルから20メートルは伐採してあり、近づくと狙撃される。
- 敵味方の死体がごろごろ転がっている所で平気で食事をした。戦場とはそういうもの。
- マラリヤに罹った。みんな罹っていたが、内地を出るときにいろんな予防注射をしていたので死ぬ人はいなかった。
- 携帯食糧の乾パンとかを食べていた。
- 兵隊は消耗品だった。
- その後内地から応援が来るまで塹壕で40日ほど待機して敵とにらみ合う。
1942(昭和17)年4月3日 総攻撃(第2次バターン作戦)
- 山が崩れるかと思うくらい日本軍が大砲を撃ちこんでいた。
- 10日くらいしたら敵が降伏してきた。あちこちに白旗が上がり、米軍の兵隊や住民が一緒に出てきて、5万とか7万人ずらーっと捕虜が並んでいた。
- 捕虜を殺す兵隊はいなかった。
- その後、捕虜達はいわゆる死の行進でマニラに送られたらしいが、自分達は参加せず次の作戦に行った。
1942(昭和17)年 ネグロス島に敵前上陸
- ネグロス島では戦闘はなく警備をしていた。
- たまにゲリラが襲撃してきた。
- 第3小隊で日本に輸出する材木置き場(?)を警備。
- 1年近くネグロスにいた。
- 民間人が放火したり泥棒した情報が入ると討伐に行く。
- 討伐には小隊全員で行った。しかし討伐に出てもゲリラはすでに逃げていて、捕まえることはなかった。
1942(昭和17)年12月31日 負傷
- 討伐の帰り軽機関銃をもって船に乗り川を下っていたら、ゲリラに陸から狙撃され受傷。
- ネグロスの民間の病院に収容される。
- それからパナイ島の病院へ入院し、さらにマニラの病院へ入院。ここで初めて日本の看護婦を見た。
- マニラから台湾を経て東京世田谷の第1陸軍病院に入院。
- その後、相模原の第3陸軍病院に入院。
1944(昭和19)年9月 東京第3陸軍病院退院。
軍属に志願して、
愛知県有松の捕虜収容所に捕虜の監視役として勤務
【註】元大阪俘虜収容所第11分所、1945年4月6日名古屋捕虜収容所に移管、第2分所(鳴海分所)に。
- 収容所の監視役の軍属には、戦地で負傷した元軍人が多かった。
- 収容所で死ぬ捕虜もいたが自分は知らない。
- 2百人くらいの捕虜を軍属や兵隊で監視して、1人あたりでは2十人くらい受け持っていた。
- 軍属は朝と夕方の工場での作業の送り迎えについていくだけ。
- 工場は名古屋の熱田駅前にあった日本車輛の工場(日本車輛製造名古屋製作所)。
- 工場までは収容所から電車に乗って行く。工場に着くと工員が待っていて、捕虜がそれぞれの作業場に分けられる。その作業が終わるまで待って、終わると再び電車で収容所まで連れて行く。
- 捕虜を虐待するような人はいなかった。捕虜と仲のよかった兵隊もいた。
- イギリス人が通訳をしていた。
- アメリカ人の捕虜は少なく、フランス人の捕虜が多かった。
- 撃墜された爆撃機の搭乗員だった捕虜もいた。
- お菓子をもらった時、捕虜にあげたらすごい喜ばれた。
- 監視役は給料が良かった。公務員が月40円くらいもらっていた当時、月に75円くらいもらっていた。
1945(昭和20)年8月15日 終戦は収容所で迎える
- 「負けたんか」、「終わったんか」という感じだった。捕虜は喜んでいたようだった。
- 浜松に米軍が来ていたので、そこまで捕虜を連れて行き、引き渡してから自宅に帰った。
1946(昭和21)年
- 終戦後は食糧難のために闇屋をしていた。
- ある日、自宅に帰ると逮捕命令が届いていたので警察に出頭すると、刑事がやってきてそのまま巣鴨刑務所まで連れて行かれた。
- それから捕虜虐待容疑のC級戦犯として、1年間の重労働と公職追放を言い渡され、服役する。
- 刑務所内は自由に歩けて、死刑台なんかをよく見て歩いた。
- 巣鴨では監禁されてほとんど遊んでいた。焼跡の整理にも行かされなかった。
- 部屋は大部屋で5・6人が1緒に入っていた。捕虜虐待容疑の者が多かった。
- むこう(米軍)の軍服を着ていたが、洗濯をしてくれて折り目のついたものを着ていた。食事も良く、待遇が良かった。
- A級、B級、C級で収容所の棟が違った。
- 服役している間に、故郷の村の人々が自分のために減刑運動を行っていた。