インタビュー記録

1944(昭和19)年1月 現役 横須賀第1海兵団入団

  • 海軍に行くことが分かってから、友人と相談して入団まで毎晩松代のプールで泳ぐ練習をした。それがなければ後の沈没の時死んだと思う。
  • 航海学校普通科で信号兵として6ヶ月の教育。手旗、指揮棒、モールス信号など。

1944(昭和19)年7月頃 戦艦武蔵乗船

  • 春名に便乗し、シンガポールで武蔵に乗り換えた。
  • 武蔵は甲板から上が9階、下が7階。
  • 戦地で乗船したので艦内見学がなく中が覚えられない。
  • スマトラ、ボルネオ島ブルネイを経て10月22日出航。

1944(昭和19)年10月23日

  • 移動する先先へ敵飛行機は飛び潜水艦は現れる。船団を組んでいる中で、一番仕事をするはずの巡洋艦だけが最初に狙われ、潜水艦の魚雷攻撃で愛宕、高雄、摩耶とつぶされた。それを船団は守ることが出来ない。

1944(昭和19)年10月24日

  • むくどりのように艦載機が飛んできて機関銃、爆撃を繰り返す。魚雷で穴があき船体が傾く。バランスをとるために水を注水したが、続く攻撃で今度は水の注水を止められなくなった。
  • 9階の右床に爆弾が入り指揮所の兵隊は多く亡くなった。
  • 右腕をやられた艦長は艦と運命を共にするという事で指揮権が副長に移ったが、その副長が半分以上船が水の中に入っているのに「この船は不沈艦だから兵隊は中に入って排水作業をしろ」と命令を出した。
  • 本人はどっちにひっくり返っても助かるように考えたのか、後ろが持ち上がってきた船の3番砲塔の砲台の上に立って命令を出している。
  • その命令で、真っ黒に蟻の巣に溜まったようにいた兵隊達(大凡半分ぐらい)が船倉に吸い込まれて行った。戦闘ではそんなに死んでいないのにこの命令で多くの者が殺された。
  • 自分は下士官が「信号兵はここにいろよ」と言ったので中に入らないで済んだ。
  • 通信兵の仲間に「飛び降りろ」と言われて右側に飛び降りたが、船が左に傾いていく速度が上平さんが落ちていく速度より早くて、海中には落ちず、下に船の右側面に魚雷であいた大きな穴が二つ見えその中に落ちたら助からないと思ったが、その脇に落ちた。武蔵の側面は大きなグランドぐらいの広さがあった。
  • うずまきに入って(最後に沈むときのうずまきではなくその前の小さなもの)くるくるまわされ自分では身体が出せなくなった。お母さんの顔を小学校3年生まで習った小学校の先生の顔が浮かんだ。それから背中がどんと叩かれたようにうずがなくなった。
  • 深く潜ってしまっているので慌てて昇り顔を出すと身体は重油まみれ。
  • うずまきから逃れて漸く海から顔を出したときはまだ船は腹を見せていた。沈んだのが夜7時半頃、その後7時間泳いで駆逐艦に救助された。暗かったので泳いでいても気付かれなかった兵はいると思うが、自分は4人固まっていたので救助された。
  • おい殺してくれという兵隊、おい助けてくれという兵隊。腸管が飛び出てさらしを巻いて押さえている兵隊、衛生兵が足を鉛筆を切るようなナイフで切っている。

コレヒドールに半年滞在

  • 比較的軽傷者はコレヒドールに、重傷者と将官はマニラに移送。
  • 上平さんは最後に靴を脱いで走った戦艦の側面に着いていた貝殻が足の裏に百も刺さっていた。最初何で歩けないか分からなかったが膿と一緒に貝殻の破片が出てきて原因が分かった。背中で側面を滑り落ちた兵隊もいて、その人は同じ貝殻で背中が骨が見えるほどに剥けていた。

  • 帰国のためマニラから輸送船「さんとす丸」に乗船するが4番船倉に魚雷を受け沈没。掃海艇に助けられ台湾・高雄に上陸。
  • 輸送船で朝鮮を経て佐世保に上陸、横須賀へ移動。

海防艦・天草に乗船

  • 上平さんを含む2人が退艦を命ぜられた直後に、艦載機攻撃で沈没。

1945(昭和20)年8月

  • 震洋の特攻訓練予定で神奈川県・油壺に移動。
  • 命令を聞いて「またか」「船にいた兵隊はあくまで船で殺すのか」と思ったが、行った先に船もなくその地で敗戦。
  • 弟さんは、最初校長に勧められて満蒙開拓義勇軍を志願しようとしたが、上平さんはそれを止めた。するとその後黙って判を持ち出し軍に志願して1年で戦死、上平さんが入団した時はすでに亡くなっていた。
Copyright(c) 2012 JVVAP. All Rights Reserved.