インタビュー記録

1938(昭和13)年 長野県立工業学校を卒業後、満鉄に入社

 撫順炭坑で、中国人労働者が使用するドリルを修繕する仕事に就く。本当は機関車の運転手になりたかった。給与はよく、贅沢できた。増産が叫ばれ、増産に貢献した者には賞与が与えられた。当時の満州の日本人は信号を無視したり、かなり横暴だった。
 その後、満鉄に残るか軍隊に行くか悩んだ末に軍隊に行くことを決め、徴兵検査を受け甲種合格。

1940(昭和15)年1月 中国中部・九江の山砲兵第33連隊第4中隊に入隊

 そこで1期(3カ月)の初年兵教育を受けた後、甲種幹部候補生の試験をパスし(各中隊からそれぞれ2名位が受かった。)、豊橋の予備士官学校へ。そこで1年ほどの教育を受けた後に原隊復帰。原隊には当然ながら、一緒に入隊した兵隊もいて多少気まずかった。

1941(昭和16)年11月1日 少尉任官。九江で大東亜戦争開戦を知る

1942(昭和17)年1月 タイへ移動

 タイ人は親日的。大発で国境の川を渡りビルマへ。その後は徒歩で移動。

同年3月 首都ラングーン陥落

 しかし、4中隊はラングーンに1番乗りできなかった。それで初代中隊長・柴田大史郎(大正4年生まれだから)大尉(後に少佐)がすねて大変だった。この柴田大尉は連隊で有名な豪傑。多くのエピソードがあるが悪い人ではなかったらしく、部下から慕われていたという。しかし、夏ごろに乗馬教官として内地に行ってしまう。
 新しい中隊長が来たが、4ヶ月後に病気で亡くなってしまった。
 その次に友田さんが少尉でありながら一時的に中隊長に。連隊長に「出来ません」と言ったところとても怒られた。中尉任官とともに正式に第4中隊長に任命される。ここから友田隊が始まる。

 ビルマではどこへいっても歓迎され、現地人は日本軍に進んで水や寝床を提供してきた。ビルマ人は相当にイギリスが嫌いだったらしく、絶対にイギリスのタバコは吸わなかった。またある日、現地の医者に夕食に招待されて自宅に行ったところ床に白人の写真が何箇所か貼ってあった。なんでこんなことをするのか聞くと、踏みつけるためだと言っていた。現地人と兵が問題を起こすことはなかった。優秀な兵士が多かった。
 大きな町に行くとたいてい慰安所があった。年配の兵隊はよく行っていたが、若い兵隊はほとんど行かなかった。朝鮮のブローカーが高給な補助看護婦を募集し、それに応募してきた朝鮮の女性が働いていた。彼女たちは覚悟を決めて凛とした態度だった。しばしば朝鮮のブローカーが軍の悪口を言っているのを聞いた。

1943(昭和18)年 第1次アキャブ作戦に参加

 ある夜、茂みからガサガサ音がした。水牛だろうと思ったら敵で、激しい銃撃戦に。なんとか撃退し、白人の捕虜2名を得る。捕虜を得た場合大隊本部に連行しなければならなかったが、興奮した兵隊が銃床で殴って2人とも殺してしまった。後処理など、この時は本当に大変だった。
 山砲をトウモロコシ畑に隠して、敵のM4シャーマン戦車(前身のM3グラントもありうる)の1個小隊約6両のうちの、先頭の隊長車が約300メートルまで接近してきたら、砲塔を狙って撃つ。キャタピラや他の部分を狙っても効果はない。命中すると、ショックで乗員が負傷したのか戦車が動かなくなる。そうすると残りの戦車は混乱に陥って、隊長車をけん引して後退する。こうして撃退した。10台以上は撃破した。

1944(昭和19)年3月8日 インパール作戦開始

 山砲兵第33連隊第2大隊は右突進隊(山本支隊)として、歩兵第213連隊などと行動を共にする。 4中隊は 94式山砲 4門、弾薬 約400発、兵員 約200名、馬匹 約150頭をもって、チンドウィン川を工兵隊の船艇を使って渡河。この時に事故はなかった。
 後はひたすらインパールへ進撃。途中で駐退機が壊れたので山砲1門を残留者とともに置いていく。戦闘は激しく、攻撃する歩兵部隊の兵は「山砲さん、頼むよ」、「夢でもいいからお母さんに会いたい」と泣きじゃくったり、「一遍でもいいからお袋に会いたい。」と呟きながら攻撃に向かっていった。開き直って、食料を仲間に分けてから攻撃に行く兵士もいた。制空権は敵にあり昼は全く動けず、夜に北斗七星や南十字星を見て方角を決めて移動し攻撃したが、敵の照明弾で昼のように明るくなった。  雨季になると天の底が抜けたような大雨が降る。 夜は木の裂け目に入って寝た。草を食べ、たまに敵の食料を食べた。

 敵は英印軍というが、そのほとんどがグルカ兵やパキスタンの兵士で、ある日敵の陣地を占領してみたら、逃げられないように鎖で縛られていた。
 インド国民軍をみた。彼らの士気は高かったが、敵なのか味方なのか分からず混乱した。 日本の戦車は、装甲は薄いし、遅いし、すぐ撃破された。

1944(昭和19)年7月2日 インパール作戦中止命令が出る

 友田隊がそれを知ったのは約3週間後の7月25日であった。
 インパールの町が見えるところまで行った。残存の2門の砲は地中に埋め退却を開始。そして、作戦開始地点に戻った時中隊の生き残りは6名だけであった。

 その後、イラワジ、メイクテーラの会戦に参加 このあたりで、ある日道路の真中に蝋燭をつけて寝ている人がいた。注意しに行ってみると、辻正信だった。
 退却の後衛にあたっている時、敵の師団砲兵が砲列を敷いているのが見えたので山砲を撃つと、見事敵の砲車に命中、指揮官が負傷したらしく敵の追撃が鈍った。このことで戦後、第2大隊長の安部速水少佐が英第20師団砲兵司令官ハースト准将(未確認:英第20インド師団The Indian 20th Infantry Divisionの砲兵隊の人?)に呼ばれて賞賛される。

1945(昭和20)年8月

 終戦はタイのノンプラドッグ(Non Pladuk:泰緬鉄道の起点)でむかえる。
 将校なので仕事はなかったが、英軍の将校・兵には必ず敬礼するように言われた。

1946(昭和21)年5月18日 LSTに乗って佐世保に復員




 ※戦後、何度も何度もビルマに慰霊・遺骨収集に行き、善光寺に慰霊塔も建てている。戦死した部下の遺族にはとても顔が向けられなかった。

Copyright(c) 2012 JVVAP. All Rights Reserved.