インタビュー記録

1941(昭和16)年4月 東京陸軍航空学校(立川)入学 第7期生

1942(昭和17)年4月 熊谷陸軍飛行学校入学 少飛12期

1943(昭和18)年10月第114教育飛行連隊着任(中国・天津)

1944(昭和19)年3月


第29錬成飛行連隊着任(中国・青島)、助教を務める。 同年9月 九江防空戦闘隊着任(中国・九江)。 同年10月 飛行25戦隊着任。 同年11月 四式戦闘機が供給。 (中国・漢口、南京、上海、北京朝鮮・水原、木浦、済州島ほか)

2月18日 漢口大空襲


90機のB29が襲来。戦隊長の僚機として出撃。空中戦の途中、滑油タンクに被弾し、風防ガラスは真っ黒に。目の前が見えず、編隊から離脱。漢口飛行場への不時着を決意。着陸後は、降り注ぐ 高射砲の破片が恐ろしかった。この日の戦闘で内海軍曹が死亡。操縦席の脊当に使用されている鋼板と計器盤に挟まれ体が粉々になってしまい、飛行服の切れ端が残されていただけだった。無事だった戦闘機は5機のみ。

2月24日 代機を調達するために日本へ


整備が不十分の飛行機を受領。不安はあったが1月13日に所沢を出発し、博多まで行く。着陸後プロペラを確認すると、1枚が手で動くほどにガタガタになっていたため修理を依頼。上海を経由して南京へ。無線機の修理を依頼。1月15日漢口へ向けて出発。空襲警報のため夕方に着陸。内地へ戻っている間に25戦隊は熟練者2名の大打撃を受けていた。
 

1945(昭和20)年3月 南京大校飛行場勤務


13日、歯が欠ける悪夢を見る。母から悪い予兆だと聞かされていたため、仮病を使って飛行場には行かなかった。その日P‐51が襲来し戦死者が。申し訳なく思うとともに母からの警告だったのかとホッとした。
 

3月下旬


海・大場鎮飛行場で2週間の特攻訓練を受ける。「特攻隊員志望者は一歩前」に全員志願。自分を含め5人が選ばれる。特攻隊名「神州留魂隊」。海上すれすれに飛行し軍艦の船腹に横から突入する戦法を訓練。非常に技術が要求される方法。他の特攻隊がやってきたため25戦隊へ復帰命令。5月、北京の南宛飛行場へ転進。 郡山飛行場上空での空中戦。 空襲警報発令で要撃のため離陸。右海岸線の松林の方向から敵機PB4Yが向かってくるのが見えた。超低空飛行のまま相手の下方向からの体当たり攻撃を決断。敵機の後流気がつけば右上方に滑りながら上昇し、敵機は去ってゆく。体当たり失敗。

8月13日 水原飛行場上空での空中戦


京城に敵機襲来を受け、12機が出動。谷口さんの長機大竹機はエンジンから白い煙が出て、高度がどんどん下がってゆく。援護しながら一緒に高度を落とすが、着陸に失敗、水田に不時着。死んだと思い涙があふれたが、着陸後生存を確認。終戦後頭の傷が原因で亡くなる。

8月15日 終戦


水原飛行場で玉音放送を聴く。ラジオは雑音が多く聞き取りにくい。敗戦を知り、「いつでも死ぬことが出来ると信じていた緊張感が一瞬にして吹き飛んだ」そして「もう死ぬ必要はないといった感情が彷彿として沸いてきた」勝っていると思っていた戦争が、負けたなんて信じられない、こんなはずではないという気持ちと、一方で本当にホッとした気持ち。 

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