インタビュー記録
1942(昭和17)年1月15日
国民徴用令により2年間徴用を命じられる。即日 海軍通信学校入校電波探信儀技術者(レーダー手)を目指す。 同年3月17日 臨時通信術講習終了、総動員業務を行う管区を佐世保鎮守府に変更。同年3月19日佐世保海兵団入団。
1942(昭和17)年6月4日
第62警備隊付を命じられる ヤルート環礁防衛に
同年8月6日現地志願
電波探信儀技術者として当初、軍属扱いで第62警備隊とヤルート 環礁防衛のレーダー手として活躍。ヤルート環礁は、マーシャル諸島の南端にあり、連合軍の激しい空襲に見舞われた島。およそ8,000機の航空機から5,000トンの爆撃を受けた。 30K圏内に入った敵機の情報を高角砲手に伝えて、正確な対空射撃を支援することです。空襲は毎日のようにあり、「いつものことだから、情報を伝えて防空壕に逃げる」を繰り返していた。警備隊の防空能力は高かったようで、「かなりの確立で敵機を落とした」。 近くで死ぬ人は少なかったが、まわりの木は裸になってしまい、だんだんと電探基地の場所が隠し切れなくなってきた。 そんなある日、いつものように敵機を発見しましたが、7K圏内でも基地のほうに近づいてきており、「あ、まずい。逃げないと」と思って防空壕入った瞬間に電探基地は爆撃の直撃を受ける。もうもうと土ぼこりがおこり、高い防空能力を支えた電探は木っ端微塵になってしまった。
1944(昭和19)年以降
補給も途絶え、高角砲の弾丸もなくなり、食料も不足。幸い、ヤルート島は魚が豊富にいたそうで、「漁労班」を組織して、周囲にいた200名は餓死することはなかった。
1944(昭和20)年10月28日
復員のため空母鳳翔に乗船して帰国