インタビュー記録
1942(昭和17)年1月 京都伏見深草の第16師団野砲第22連隊に入隊、現役兵
3ヶ月の一期の検閲を終えて、高雄とか寄りましたけどリンガエ湾に上陸しました。行き先も知らなかった。その時は、バターン、コレヒドールが陥落して日本勝ったという時。壁に血糊が付いていた。その後、各部隊に分かれて、それぞれが別行動。
下士官候補生に志願
各部隊から一人づつ下士官候補者をだせということで、志願した。5ヶ月フィリピンにいたが、マレー半島のシンガポールに移動した。部隊編入、教育を受けた。向こうで教育を受けているとき、負けた情報はまったく聞かなかった。 下士官教育はすごいの。2年間徹底的に習って、軍人勅諭とか暗唱しないと駄目なの。10分くらいかかるよ、全部言うのに。
1944(昭和19)年10月 レイテ島ドラッグに居た原隊に合流
野砲ですから、陣地を守れということ。米軍が来るのを待っているの。射程は300メートルなの。バババババと音がするの。 村の人間がみんな米軍につくの。日本軍は自給自足なの。向こうの物資で兵隊を養うの。現地の人は、日本軍にとられるから憎しみを持つの。それをやっていると、しっぺ返しがきたの。 当時は戦争が激化していなかったからよかった。パパイヤとか自給自足なの。川に魚が一杯いるの。ヤシ油で鍋にいれて、とうもろこしで焼いて、魚のから揚げとか食べたの。演習に行って帰ってくるととうもろこしや塩を取ってくるの。とにかく、海上は米軍で遮断されているから、制空権もないし、食料は入ってこない。とにかく輸送船も魚雷とかでやられちゃう。
1944(昭和19)年10月20日 米軍がレイテ島・タクロバンとドラッグに上陸
たまたま斥候として陸軍軍曹として、前線に向かった。向こうから艦砲射撃と水陸両用の戦車があがってきた。くもの子を散らすように散った。塹壕に入った。ずっと奥まで入った。水陸両用戦車が上がってきた。真っ黒けの人間がいるわけ、何かしゃべっている。そのとき、火炎放射器をやられた。あまりに熱いので壕から出て、そのときにダダダダと撃たれる。 ケロイドですわ。生き残った人間は。皮膚が巻き上がって、ずるずるですわ。足は大丈夫。銃を足の親指で引き鉄を喉にあてて、自殺。そうこうしているうちに、米軍が上がってくる。 ドガガガガガとだっーと出て来た。ガガガガとくる。 下士官教育で米軍は生易しいものと思っていた。なめていた。ところが、真っ黒けのやつが、ずっと上がってくる。撃ってもききません。当たってもわずかな穴しか開かないですわ。兵隊を一人でも死なせたらいかん、竹やりと銃では勝負にならない。将校みんな逃げて、下士官だけですわ、戦うのは。グラマンがバババッバとくるし、後方に逃げた。 向こうは上がヤシの葉、下がバナナの葉っぱを編んでいる。上から落とすと、豚が食うの。トイレなの。とにかくね、休んでいる間にポーンポーンときて、どーんときて、破片で死んでいるわけ。 中佐がまだ負けていない。とにかく、士官学校出だから、頭が固い。後方に下がってくださいといっても下がらない。それでたくさんの人が死んだ。 谷の底にワニがいるの。そこに兵隊が転がると、ワニが人間を食いよる。かわいそう。とにかく阿修羅だった。恐ろしい。自分の戦友とか思うと。 向こうは車ですから、早いです。逃げると村があった。向こうの憲兵がダッときて、4人が逃げていた。白兵戦ですよ。50メートルない距離で手榴弾をばっと、銃をダダダダと白兵戦ですよ。人間ではないですよ。相手見たら殺せ、とにかく殺ることだけ。逃げた。 たまたま4人で斥候で歩いていたの。たまたまゲリラを見つけて、銃剣で殺したの。すぐ抜かないと肉から抜けなくなるから。そのとき、ウワー、ダーと旋回して、パパパパパパ、ヒュー、パパパパパ、ヒューと10回もきたの。しつこかった。 私だけ助かったの。やしの木に隠れたの。木にはじかれた流れ弾に当たって死ぬ人もいた。匍匐前進で進んで、逃げた。祠に入って、またタタタタタタと10分くらい、長いです。しつこいの米軍は。 聞くところによると、米軍の伍長に聞いたら、撃たないと帰れないから撃つらしいよ。低空飛行で2機きたの。かわいそうに僕といた3人がやられたの。自分だけが生き残ってどうだと思ったけど、戦争だから。冷静さはないわけ。 P-51、ピーゴロは怖い。 蛇がいるの。蛇と鉞みたいなの、あれっ、さそりだ。長靴に入って刺されると大変なの。一週間に5日は雨で湿気だらけ。爬虫類がごろごろいる。 機銃掃射はいまだ脳裏をはなれない。あの時の急降下してくるぴゅーとする音が嫌なんだよね。 地上は40度くらいの気温。山に入ると氷点下2度。寒い。皮膚が若くても、栄養失調で、亡くなってくる。簡易テントでみんな死んでいる。 やしの完全に実に成っていないのを食べたり。馬の生肉を食って生き延びた。下士官だと馬があるの。食料がないと、馬を殺して食ったときはかわいそうだけど、愛馬を食って仕舞った。可愛がっていたから余計になんともいえない。それで生き延びた。 携帯テントで被っている。行こうかと声をかけると、寒さにやられて死んでいた。
1944(昭和19)年12月 オルモックで全身13箇所を負傷し捕虜に
オルムック、レイテの裏です。砂糖工場がたくさんあった。砂糖食べ過ぎると尿がでない。弾がなくなる。小さい川で鶏がいて、殺して生き延びた。 川から死体が無数に流れてくる。水ぶくれした死体。水泳できるやつが渡った。雨上がりの川は危険、流されて死ぬ兵隊もたくさんいた。目も当てられない。 艦砲射撃でまた死ぬ。レイテの奥地から太鼓を叩く音、ドンドンとババババと50メートル四方が飛び散る。人間が肉片になる。阿修羅のごとくやられる。明け方4時に魚雷艇から曳光弾を打ってくる。ババババと打ってくる。やられた、私もやられたここやられた(耳)。一年ほど針金まいた。足も貫通した。足動けない。そこにバババとタタタタとやられる。意識を失った。 ぱっと目が開いたら、ニグロがサイドカーで来た。You、陸軍か海軍か?と聞いてくる。もう駄目だ。生きる屍ですよ。赤十字のマークついたトラックに乗せられる。 撃たれた時は痛くない。それがそのときすごい痛い。山の中を帰るわけ、赤十字の米軍の車で。上でゼロ戦とグラマンがやりあっているわけ。後方に連れて行かれた。MPがついて、食事中ずっと監視ですわ。一昼夜かかって、生きている心地がなかった。 簡易テントが張っている所に行った。米軍の将校、軍医が来た。傷口を洗ってくれた。痛かった。ところが2、3日するとさばの腐った蛆が出てくる。とにかく、生きる屍。栄養がないから回復が遅いの。そうこうしていると、最初食べ物が缶のコンビーフ一日1回くれない。そのうちリンゴとかくれる。 米軍は親切だった。米軍の女性、軍医が食べ物を食べさせてくれる。周りはどんどん死ぬ。尿を漏らしているやつは一ヶ月もすると死んだ。捕虜の収容所に連れて行かれた。手相を見れたので、米軍を見てやったら「ワンダフル」と喜んで、たくさん食べ物をくれた。 たえず治療して、ずっとしてもらった。医療器具はよかった。足の貫通も速く治った。ずっと同じ場所にいたの。捕虜は恥ずかしいの。PWを背中からかけて、認識票、捕虜のあれをつけて。PWつけられたときは、みじめだった。 名前を松本と言って、本名を言わなかった。本名を言うと、階級がわかる。階級がわかるとまずい。 通訳、米軍の日本の二世がいる。 階級を下にしたほうが、印象を与えるのが薄いの。二等兵だと徹底的に言ったの。 弾が13発当たったから急所は一つも当たっていない。米軍を恨むよりも、今生きていることを感謝しないと。傷痍軍人の対象にならないの。体が全部回るの。そうするとならないの。ただ、弾に当たっただけだと。腕なくした、足をなくした人からすれば、何を言ってるかと。ありがたく思いなさい。と言われたの。 朝、使役がある。トラック載せられて、海から上がってくる荷物を運ぶ。壕を掘って、ドリルでダダダダと。向こうは体がでかい。朝から晩まで働く。ずっと長い間、終戦までいた。捕虜になったら絶対死ねと教えられた。
1945(昭和20)年8月15日 敗戦
バンバン音がする。花火。黒人が廊下を走っている。ジャパニーズ、サレンダー(surrender)、日本負けた。それからサービスのいいこと。 それから首実検。捕虜を並べて、現地の人に見せるわけ。ユー、ユーと指されると絞首刑。米軍のやり方は熾烈です。後ろから銃を撃ったりと。虫けらとして扱っている。敵と味方。 絵が描けると米軍喜ぶ。何か、将棋でもマージャンでもいい。私は運がいい。その後、車で遠くいって、使役を毎日していた。8月15日以降も。 その間、亡くなった人がいた。かわいそうなのは朝鮮、台湾の兵隊。いじめられていた。日本軍の中でいじめていた。そんなことするな、と言ってもいじめはあった。12月までいろんな使役があった。
1945(昭和20)年12月24日 浦賀に復員
最後、米軍の船に乗船12月の20何日に。また首実検だよ。日本に帰る寸前。じっと現地の人が見てくる。生きた心地がしない。私もじっと2分見られた。顔が青ざめた。2分長かった。 乗船して、2日間かかった。浦賀へ。大日本国防婦人会とかありましたな。そういう人が向かえにきた。軍票、タバコを持っていた。日本はないから、日本人がくれくれというんだな。 昭和20年12月24日に帰った。一番早いですよ。浦賀に上陸して、京都に行った。プラットフォームは大きな穴が開いていて、すごかった。京都は無事だった。神社仏閣があるから。私の墓があった。死んだと思われて、墓があった。フィリピンで玉砕しているから、誰も残っていないから。自分の墓があって、うれしいのか悲しいのか? 母親が野菜を作っていて、そこに帰ってかたら卒倒した。本当かお前?とびっくりしていた。兄も早めに帰ってきた。私は一回死んでるんです。だから長生きできるんだね(笑)。 当時は食料不足で、食い扶持が減る。遺族年金が貰えなくなるので、親は当てにしていた。戦地では人間の肉も食いました。食わないと生き残れないんだから。親は遺族恩給がもらえなくなる。食べられなくなると、人間親も子もない。戻ってきて欲しくなかったみたいと後で聞いた。きれいごとはみんないうけど、裏は違うんだ。人間泥臭いものなんだ。 ここ(取材)に来る一週間前から夢ばっかりみるの。戦争行った話が役に立てればと思うの。