インタビュー記録

1939(昭和14)年1月10日
第1師団歩兵第1連隊(東京赤坂桧町)第1大隊第1中隊入隊

 初年兵教育

同年4月 満州黒龍江省北安鎮(ぺいあんちん)の十川(そがわ)部隊

 4月29日に吹雪があり満州は寒いところだと驚く。

同年5月 中隊が通北県趙木廠(しょうもくしょう)に

 “匪賊”が海北の刑務所を分捕り、囚人を放し武器を与えて日本軍への反乱を企てたため。

同年5月5日 討伐作戦に参加

 初めて実弾を持たされ重いものだと知る、ワクワクしてやるぞと思う反面怖い。
 満州の5月は花が一斉に咲く。何日も人に会わない無住地帯に、緑とあらゆる花が一斉に咲き、良いところだなと思う。

 山の頂上で敵の影が肉眼でも見える。ずっと持たされていた軽機関銃を撃てと言われて撃つが、訓練でも「もぐら撃ち」(的の下に当たる)と言われたぐらいで、こんな時に当たらない。網を持って薬莢を受け、実弾と同じ数の薬莢を持ち帰らなければならない決まり。
 隣にいた兵が敵に横腹を全部向けながら、かぶとが反射しないようにと上に砂をかけている。若い兵は皆舞い上がっちゃっている。70発撃って動かなくなったのは1名だけ、お前は税金の無駄遣いで鉄兜の上からぽかぽか叩かれた。良いこととか悪いこととか感じなかった。終わった!というだけ。

 帰りはぐったり、飯は喉を通らず、水が欲しいが、軽機関銃の射手は水筒の水は自分で飲んではいけないと訓練されていた。砂塵が銃口に入らないよう、ほこりが立たないよう廻りにまいたり、銃身を冷やす水。

同年10月 北安鎮の原隊に戻る

同年11月 黒龍江省法別拉(ほうべら)でソ満国境の警備に 1年ぐらい

 一人に一つずつスキーとスケートが支給、初めてのスキー。9月以降は雪で、内地のようにべとつかない。やることがないので毎日下に降り、登り方も分からないのにジャンプを試したりする。学徒兵がハの字や二の字で登るのを教えてくれる。

1940(昭和15)年~1941(昭和16)年5月 黒龍省孫呉の原隊復帰

1941(昭和16)年9月 中隊が小興安の討伐作戦に

 満州に2名の姉がいると聞いていた。ともに新京で畳屋の兄弟と結婚、軍御用達で、月に1度ぐらい慰問袋を送ってくれた。不衛生、スパイがいるなど兵隊出入り禁止の所で美味い料理を食べたい。上等兵の給料は10円24銭、内3円は強制貯金。母に頼んだが「若い者に金を持たせるとろくなことがない。いざという時にお国の役に立たない身体になったら困る。品物は何でも送るが金はダメだ」頼るのは姉しかない。○を送れという手紙を出すとドロップの中に隠して送ってくれたりする。タバコ、ロシアケーキ(クッキーみたいなもの)など。
 討伐の前に会わないと一生会えないんじゃないかと思った。兵隊の外泊許可など考えられないが、姉の夫が新京では熱心で有名な義勇隊員で将校の接待などもしていたため、姉が孫呉まで来てホテルで一緒に外泊する事になった。中隊長が自分の官舎の部屋を使っても良いと言ってくれたけど、将校に囲まれた部屋ではとてもと思って何とか断る。
 駅に迎えに行くとホームは将校ばかりで、上等兵と下士官(友人の同年兵、姉に新京で会ったことがあるので着いてきた)そこに日本人女性が降りただけで周囲の視線が集まっているのに姉は手を振りながらやってくるので冷や冷やする。来たのは下の方の姉、上の姉は奉公先の前を滝澤さんが連れられて通るのを見たことがあるので下の姉に権利を譲った。「まずは中隊長にご挨拶に行かなきゃ」と山のような土産の中から大きな箱いっぱいに入った栗饅頭を選び、滝澤さんは「それは後で兵隊に持って帰りたいのでもっと小さいので良い」と言ったが、ダメよとその栗饅頭は中隊長の所に、ニコニコして受け取っていた。それからホテルで一緒に過ごす、25年ぶりの再会sだった。

1942(昭和17)年2月27日 帰国し満期除隊

 1943年頃だったか職場で野球をしていた時、海の方から星のマークの付いた大きな飛行機がすごく低空飛行で迫ってきた。外国人が等身大で見えたがアメリカ人だという意識が全くなかった。同僚が「俺は日本の飛行機でも敵のマークを付けて飛んだことがある、偽装してるんだよ」と言われて簡単に納得して仕舞った。それぐらい感覚が鈍かった。

1943(昭和18)年7月 召集

 ハガキが来て役所に取りに行った、ご苦労様ですと言われて赤い紙を渡された。

 同年8月 宇品出発
 同年9月 シンガポール上陸

同年10月 ビルマ・エナンジャンへ

 林3007部隊(隊長:園田少佐、独立自動車第102大隊か)本部人事係に。

 エナンジャンは油田地帯。
 泰緬鉄道でビルマへ、石炭がなく薪で走る。無蓋車なので火の粉が飛んでくる、穴は空くは火傷はするは大騒ぎ。木製で川底まで100mぐらいありそうな河岸をぎしぎし走るので橋は落ちないかと心配、火の粉が飛んで来てもあまり暴れるなとか騒ぎながら行った。

 現役から帰ってから自動車の仕事をしていたが、自動車部隊なのはありがたいが人事となると机の前に座らなければならないのが苦になって、「字が下手だから駄目だ」と言ったら「下手でも間違ってなけりゃいいんだ」と言われた。

1944(昭和19)年1月1日 インダウに転進

 渡河点の輸送を手伝うため。ビルマとしては非常に寒く、マラリア予防で蚊帳を吊って寝ている。
 移動の途中に石田少佐に隊長が交代していた。園田少佐が自分の部隊は一線で闘うような兵と装備は持っていないからインダウでの輸送は無理だと具申して内地送還になったためらしい。

同年3月5日過ぎ 英印軍落下傘部隊に包囲される

 兵隊さんを長くやっていると何か感じが変、ぴーんと来る。何か危なっかしいような嫌な感じに雰囲気がなる。
 夜寝てから一晩中飛行機が通る、爆音の中に変わった音が聞こえる。引っ張っている音がする。あとでグライダーだった。


 包囲され、第1中隊は襲撃され中隊長戦死。ウジが湧いて仕方ないから遺体を焼いたら火をめがけて撃ち込まれる、更に負傷兵が出る。仕方ないので仮埋葬して指だけを本部に置いておいた。
 現役の時兵器係だったので戦場から迫撃砲と弾を持ってきて、最初は輜重兵出身者たちなのでどちらから弾を入れるんだろうという騒ぎだった。弾を朝になると何度も取りに行くと遺体の相が変わってくるのが分かる

 夜現地人が来て起こされて英軍が40人ぐらいいると言う、行ったら10日ほど前に討伐に行った歩兵部隊が帰ってくるのを待ち伏せされていて、歩兵の後ろに出てしまった。闇の中、チークの林の中で、敵と味方と分からなくなった。撃たれたから撃ち返す、闇夜で当たらないから突撃しようと言うが本科出身は私だけ、部隊で唯一の自動小銃を持っていた。部隊長も慣れておらず後ろの方から「突撃~」と言っている。
 チークの葉は3枚あれば人間が隠れるぐらい大きく、バリンバリン音はする。うわ~っとなっちゃった。弾を持っている兵隊を呼んだら返事がない、彼は呼ばれたから行こうと思ったら闇夜の隣りに鼻の高い兵隊がいて息が止まりそうになったと言う。そのうち川の流れる音がしたので沿っていけば宿舎に出るだろう、負傷兵もいるし収まったからと戻った。

 自動車隊時代本科だということで斥候には結構出された。轍からとても大きく重いものを乗せていることが分かったのでろくな事はないと思ったが、どちらに行くか意見が分かれた。もう一方はやられ自分たちの方は無事帰った。一緒にいた兵隊たちはおかげで命拾いしたと言ったが、周りからは本科出身のくせ臆病だと随分言われた
 経理を手伝うため現地の村長の家で生活していた時期がある。

同年5月 戦車14連隊に転属

 林3007部隊が解隊になるため、兵を分散、その作業を行う。給与もいいし、若いのも多いし、身も安全と自分で戦車隊を選んだ。
 しかし行くと何もない、着の身着のまま、シャツが塩せんべいみたいに割れる。米はモミで手に入るが、おかずはないので唐辛子やカレー粉をかけて食べる。

イラワジ河、メークテーラ、マンダレー、シッタンと転戦

 メークテーラの飛行場の取り合いも結局英軍に粘り勝ちされた(1945年3月頃か)闇夜なので見えるよう白たすきや白い腕章。戦車の台数が少ないので順番に乗ったが我先に皆行きたがる。敵機が戦車を探し回っているので、戦車に乗れなかった人間は戦車の走行跡を木を引っ張って消して歩く。出かけるときは恩賜の煙草を貰って吸ってから出かけた。

 戦車兵なのに戦車と戦車の戦争が出来なかったのは残念、向こうの撃った弾は突き抜けるけどこちらの弾は跳ね返ってしまう、こんな戦争は早く止めた方がいいとつくづくそう思った。最後は前線から歩兵を逃げ帰すために道路封鎖されたところに残った戦車を全部持って突っ込んだ。少年戦車兵が主力だったが皆死んでしまった。私は断列、弾と修理道具とを積んで動く車に乗って待機していたため助かった。

 マラリアに罹患、後から来いよと置いていかれたが、私は割と良くて補助看護兵と1等兵を付けてくれた。大きな部隊が先に行った後、そういう兵隊が三々五々ぶらぶらぶらぶら歩いている。一人だと現地人にやられたり発見されたり野獣にやられる。戦車兵の靴は鉄の上を歩くので鋲を打っていない、雨が降ると滑って滑って歩けない。
 白骨の山の中を通って死人の山、水をせがまれるが臭くて早く通り抜けたい、爆弾があるから同じ道しか通れない。

1945(昭和20)年8月 タトン周辺で敗戦
選ばれて武装解除に当たらされる

 残念で涙が出る。あんなに大事にしていた菊の御紋の銃を縄で縛って担ぎ、30~40mの大きな穴に火を燃しているところにぼんぼん放り込む。何万丁の分解をやって撃針をはずす。日本兵は数えるほどで向こうの兵ばかりの中で、この武装解除が一番情けなかった。

1946(昭和21)年7月 モールメンよりV004号で帰国

同年7月21日 大竹へ復員

 軍国の母は泣かないと言うけど私は泣くよ、死なないで帰ってこいと何度も言われていたから、私は親孝行だと思う。
 現役の出発の時母は一人で面会に来た。1大隊1中隊は一番前の列車でホームがなく石炭が野積みされているところに止まっていた。石炭の山の上に立っていて涙が出た。
 千葉海岸は焼けずに残っていた。母は台所で行水をしている最中だった。感激で抱き合うシーンが無くなった。グルカ兵の背嚢を持って帰ってきた。

当時を振り返って

 兵隊は好きだったが将校には反感を持っていたので、旧姓中学は出ていたが幹部候補生に志願しなかった。やたら威張り散らす、何でもかんでも俺が一番偉いんだ、自分の命令は朕の命令だと。
 自動車隊の小隊長が大学出の幹部候補生で元女学校の先生。兵隊が早く仕事を終えたいので暗くならないうちに行動して空襲されトラックや積んでいたガソリンをやられて仕舞ったが、「知らない、知らない」と言って事故証明を受け付けてくれない。
 毎日夜運転するので居眠り運転をしてトラックを横転させた事がある。一人でまんじりともせず見張りをして朝お腹がすいたのでご飯を炊きおかずがないかと散乱した積み荷を探していると豚肉の厚切りのみそ漬けの瓶が幾つもあった。将校食、おいしかったが兵隊は飲まず食わずで働いているのにこんなものを運ばされているのかと腹がたった。

【註】2回目の召集後の年号が証言では+1年で語られているが、英軍の空挺作戦の時期や復員証の記述などから考えて上記年号かと思われる。

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