インタビュー記録

1941(昭和16)年 19歳で志願


台湾で生まれ育った。8人兄弟、父親は台湾で警察官をやっていた。 16歳で鉄道に就職したが小学校しか出ていなかったのでホームや便所掃除しかさせて貰えなかった。知り合いが来ると恥ずかしくて隠れていた。 資格試験を通って出札や改札を出来るようになったが、更にその上の試験を受けた時合格だと言われていたのに、人事部の甥が代わりに合格し、来年は無試験で通すからと言われた。 それで軍隊に志願をした。 皆天皇陛下のため、国のためという時代だから特に親も反対しなかった。

久留米48連隊に入隊


台北に部隊があり、日本には戻らずそこから入隊した。 (その後、太平洋戦争開戦時には歩兵56連隊に所属したと思われる。) 最初は関東軍に、その後海南島に向かった。

海南島で上陸演習


沖に出てそこから上陸をする演習を繰り返したが、ただの演習だと思っていた。 淡路山丸でマレー・コタバルへ  船の中で家族に遺書を書くように言われたが開戦の事はまだ聞いておらず、「何を言うのかなあ」という感じ。「自分は死なない」とも思っていたので遺書は書かなかった。
 

1941(昭和16)年12月8日 マレー東岸・コタバル上陸


朝2時頃、第1陣として上陸用舟艇で海岸を目指す、波はそんなに高くなかった。 海岸線には鉄条網が貼られトーチカが並んでどんどん撃ってくる。 演習でやった通り、浜辺に鉄兜で懸命に砂を掘って身を隠す場所を作った。 ここで15人の分隊のうち7~8人が戦死した。浜まで行かずに死んだ者もいる。 自分たちは撃ちかえすどころではなかったが、上陸兵の多さに守備隊が引き上げた感じで上陸は成功した。

マレー半島を南下


○完全軍装で基本的には徒歩でどんどん南下した。 軽機関銃の部隊で装備が重い上、「若い者が持て」と持たされたのでかなりきつかった。 ○行軍と言うより、分隊・小隊単位でどんどん動き、要所でだけ集まる。 ○自分たちの部隊にはもともと自転車はなかったが、住民が逃げた後の家に自転車は結構残されていてそれを盗って乗った時もあった。 ○現地は豊かで住民は全部逃げていたので食料はそこからも調達した。逃げたばかりで炊き立ての米があることもありそれを食べたり米で取ったり。 ○自分たちの部隊は、上陸以降は特に交戦はなくどんどん南下するだけだった。 ジョホールバルも特に足止めはなく舟で渡った。

1942(昭和17)年2月13日 ブキテマ高地の戦闘で負傷


○迫撃砲の砲弾が右前腕、右腰、左下腿に当たり出血が多く意識が薄らいだ。 ○野戦病院に運ばれたらしい。 右腕は壊疽を起こし、このままでは菌が心臓に達するからと軍医に言われて右腕を切り落とされた。負傷兵が多いから「そんなものは無い」と麻酔もしてくれなかった。腕をメスや鉈みたいなもので切られ骨をのこぎりで切られた。本当に痛くて気を失いそうだった。 ○上陸時半分になった分隊だったが、更にこの戦闘で行き残ったのは私ともう一人だ。 (1942(昭和17)年2月15日 シンガポール陥落) シンガポールの陸軍病院に入院 数か月後、内地送還になり東京第2陸軍病院(世田谷)、相武台陸軍病院(相模原)に入院 左手でものを書けるよう訓練を始めた。手を失ったのはショックだったが皆死んでいたから・・・。

1944(昭和19)年頃 除隊して台湾に復員


現佐賀県三養基郡みやき町(旧三養基郡北茂安村)に家族で帰国  戦争が終わってから、自分は手まで失って仕舞って・・・と思うようになった。  熱が出ると傷口が痛み、失った右手全体が痛むような感覚に長く襲われた。とにかく熱が出る事のないよう注意をして過ごしていた。  傷痍軍人会の役員を数年前まで長く務めた。そこで死んでいた命、人に役に立つため生かされたんだと言われ信仰に入った。 軍医さんにも母親にも、お前は長生きは出来ないと言われたが、90歳を超えて生きることになった。

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