インタビュー記録
1941(昭和16)年5月1日 海軍志願兵として横須賀海兵団に入団
16歳で志願。一般の志願の最年少。高等2年の小学校しかでていない。満蒙義勇軍、友部にあった。一ヶ月体験入隊したが、肌にあわなかった。農業は嫌だった。中島飛行場も合わなかった。四男坊なので、海軍でもいくか、みたいな感じだった。口減らしだよ。
今の刑務所のほうが楽だ。だって殴られないから。
志願兵で、体がまだできていなかったが、甲種合格。茨城から横須賀まで。
横須賀は、冬は寒いところ。冬の3ヶ月は大変。8月15日で卒業した。希望をとる。
一年前の昭和15年は1月に徴兵が入って、6月に志願兵が入る。昭和16年は繰り上げて5月にとって、9月にも人をとった。戦争が始まる前だから。
カッターの競争をする。負けると班長が食事が載った敷物を引っ張ってひっくり返し、食べられなくなる。
同年8月 館山海軍航空隊付
同年10月 横須賀第一特別陸戦に編入、落下傘部隊となる
最初は館山航空隊。航空隊といっても飛行機だけでなく、ご飯炊く人もいるし、物資を運ぶ人もいる。10月くらいになるとパラシュートでぱらぱら訓練している。若い兵隊がお前たち転勤といわれて、「ずっく」を背負って異動した。横須賀から館山へ。格納庫に案内される。そこでごろ寝。降下までたった一ヶ月、猛訓練。
飛行機に乗ったことない。まずは柔軟体操。着地のときに足2本を1本で下りると骨折する。下りるときは風を背にしろ。着地のときに前転びでいけるようにしろといわれた。毎日体操。足がパンパン。トイレで座れない。それくらいやった。あらゆる銃器を習う。恐怖感あるでしょう。自分でたたんだ落下傘をダミー人形につけて、落とす。開かなかったら、何でなのかを学習する。予備傘は前に抱え込む。パラシュートが開かなくて死んでしまうのは日常茶飯事だった。毎日お通夜といってもいい。下りると風をはらむ。航空食がついて、待遇はいいが俺たち使い捨てだと思っていた。落下傘は絹だから粗末に扱えない。落下訓練は館山で2回した。
その後、台湾の高雄にいって、最後の訓練。実践を含めて4回しか飛び降りていない。陸戦の仕上げで久里浜にいった。
1942(昭和17)年1月
インドネシアセレベス島メナドへの初の降下作戦に参加
日本郵船の客船を徴用して、まだ内装が客船なので、軍靴で赤じゅうたんを歩いた。「にった丸」でフィリピンを攻略したばかりのダバオに移動。占領したばかりで、街に炎があがっていた。小さな冊子をわたされて、マレー語を覚えさせられた。行く先はわからない。ただ連れて行かれるだけ。軍港にだってスパイがいるから、行く先は教えてもらえない。
ダバオからメナド出撃。第一次、第二次の降下があった。
メナドの落下傘降下
オランダの植民地なので、オランダ軍と現地兵が敵兵。敵は落下傘を撃てば落ちると思うから狙ってくる。だけどそんな簡単に落下傘は破けない。戦闘経験が少ないから弾の怖さを知らない。怖くなかった。
先輩は上海陸戦隊からきている。頭の上を飛んでいく弾は「ビューン」、手前は「プス」という音で見分けられる。将校も兵隊も降下では変わらない。ひっかけるの忘れて飛び降りると死んじゃう。降下高度は海軍は300メートル、陸軍は1000メートル。落下傘は一番上が穴あいている。空気を逃がす役目。
メナド降下は梱包物と人を別に落とした。ジェラルミンで落とした。自分の武器ではなくて、落下させたそのあたりにある、いろいろな武器を使った。ずっと伏せている戦友がいた。声をかけると死んでいた。脳天を突き抜けていた。弾がまたの近くに当たったら生き残れない、止血できなくて5分も生きていなかった。看護兵は後から陸上から来るから適切な治療はできない。下りるのは本当の歩兵。第一次は300名降下。ようするに敵の退路を断つのだから岬の2方向から攻めて、挟み撃ちにする。第二次攻撃隊は次の日。
敵の真ん中に降りるから、補給がつかない。握り飯2個だけを持って降下した。住民は山に逃げ込んでいて人っ子一人いない。畑にあるもの何でも調達する。面白いことにあそこはイスラムなので豚を食わないから野生。そいつを殺して、ドラム缶で燻製にして食べた。
翌日、味方が降りてきた。速射砲は落下傘で落とせないから、飛行艇で運ぶ。そのあたりを警備する。きて、速射砲をおろした。敵の装甲車をやっつける重火器が最初なかった。降下して、ゼロ戦がきて、機銃掃射をしてくれた。敵さんが逃げ腰になった。速射砲が翌日きたから大変たすかった。オランダ軍は山の中に逃げた。掃討作戦で、部落民を手なずけて、オランダ兵が何人いるかの情報をとった。報道員も同伴していた。
メナドに3ヶ月いたかな。17年1月17日、掃討作戦。
4ヶ月現地にいた。感状をもらったのがいつか覚えていない。メナドから南下して、スンバン島、ジャワ島が本部。クーパンも降下した。現地の人と交流もあって、インドネシアの有力者はスルタンといって王様、現地の人と仲良くしないといけなくて、酷いことはしない。内地引き上げで、日本郵船で一番でかい船 「あざま丸」にのって、オランダ人捕虜を1000人くらい乗せて戻ってきた。
1943(昭和18)年2月
海軍砲術学校(横須賀)普通科測定術練習生として入校
昭和18年1月くらいに日本に戻って、砲術学校に入った。
武蔵に乗り込むって決まった。希望をだして艦船の大砲をやった。黙っていると館山の陸戦の砲術にいかされた。学校の試験があった。大砲といっても大砲の「砲測」と「射撃版」があって、射撃版だった。いっぺんにうっていない。3連砲だからずらして撃った。発令所にいた。戦闘のとき様子がわからない。4層くらいにわかれている。機関担当は一番下。
同年5月 戦艦武蔵乗務員 主砲幹部第一発令所配置
南洋群島トラック島前線基地 大小諸作戦に参加。
昭和18年5月に武蔵に乗りこんだ。一日館内案内があったが、とても出口がわからない、覚えられない。
武蔵を一番最初に見たときは、大きいなと思った。練習艦は日露戦争で使った船でちいさかった。船の中にエレベータがあって。冷暖房も完備。方位盤は艦の中枢。沈んで初めてわかったけど、砲台は下までつながって支えているんだね。左に傾いて、スクリューが海面から数秒出た。3枚のスクリュー。漁船の舵はすごい大きい。武蔵は小さな舵。舵だけで動かしていない。自動化も進んでいた。とにかくすごい船だった。
甲板まで波を被ることはめったにない。それほど大きな船だった。南方で潜水艦に襲われないように、ワイヤーの網で回りを囲んだのはびっくりした。防潜網。普通の船では使わない。海軍軍楽隊と司令部付でついている。受け持ちが違うと、入りづらい。艦橋の配置は大変、駆け上がるんだから。将校になるとエレベータ。長さは260メートル。
1944(昭和19)年10月 比島レイテ支援作戦に参加
シブヤン海峡にて武蔵戦没
九死に一生を得て台湾高雄警備隊に編入
持ち場はどんなことがあっても席をはずせない。総員退去命令がなければ、敵前逃亡になってしまう。
500Kの爆弾を砲塔にうけたが、焼け焦げがあっただけ。味方の機銃等の音が館内放送で聞こえてきた。空襲を受けている間は砲を撃つこともない、しかし命令が出るまでは持ち場を離れない。
最終的に副長命令。艦長が艦とともに沈んだ。15度傾いていてまともに歩けない。甲板上は酷かった。あがってきたら、露出機銃がみんなやられていた。撃って撃って撃ちまくったので銃が「あめんぼう」みたいに熱で曲がって、壁には肉片、空薬きょうが散乱、あちこち水が入っているようで、一回命令がでるとみんな海に飛び込んだ。
船の写真はあるはずない。すべて丸秘なんだから。あまりしゃべれない。同じ海軍でも武蔵、大和を見たことないよという人も結構いる。釜が水に浸って爆発した。重油でみんな黒色、助けられても重油を飲んでいて気持ち悪い、気持ち悪い。
武蔵が沈んだとき、米軍はいなかった。二度目のバシー海峡は嫌だった。5分で沈んだ。真っ暗闇、浮遊物があればなんとかなる、同じカッターに乗れなくても、船についているロープにつかまってた。夜が明けて、いろいろな情報がきた。救助のときは固まっているべき。
1945(昭和20)年8月 敗戦 中国軍配下となる
玉音放送は直接聴いていない。
衣服の補給はまったくなくて、山の中をのぼる敗残兵、民間人がいないからよかったがふんどし一本。