インタビュー記録
1939(昭和14)年夏
- 2年生の夏休みに無料で満州に行くことができる企画があったので、無料で行けるならいいかなと思って参加することに。
- この企画に慶應義塾高等部からは同級生1人と先輩1人の計3人が参加。他にも龍谷大学や大阪商大など様々な学校から参加者がきていた。
- 最初に千葉県内原の訓練所で1週間くらい訓練をうけてから、新潟から船で羅津へ行き、そこから鉄道で汪清県(註 現吉林省延辺朝鮮族自治州)へ。
- 汪清県で1ヶ月くらい日本人の農場の手伝いなどをした。
- 帰りは汪清から牡丹江→ハルピン→大連と見物し、それから神戸へと帰国。 いろんな学生がいて楽しかった。
1941(昭和16)年 日満商事石炭部入社
- 母親の知り合いに関係者がいたので口を聞いてもらって入社することに。
- 満州に渡ることに不安は感じなかった。
- 新京の大同大街にあった本社に勤務。
- 日満商事は全満の石炭、鉄鋼、化学製品などの重要物資を各メーカーに配給する国策会社。
- 炭坑で掘った石炭を全部日満商事が買い取って満州全土の会社に配給していた。
- 鉄鋼は鞍山、石炭は撫順や鶴岡炭坑(※現黒竜江省かくこう)などから買い上げていた。
- ただ燃えるだけの石炭とコークスになる石炭があった。コークスになる石炭は非常に貴重で、撫順と鶴岡炭坑でしかとれなかった。
- 石炭の貨車は30トン積みだった。
【註】:日満商事は1936(昭和11年10月1日、南満州鉄道株式会社、満州炭礦株式会社、株式会社昭和製鋼所、株式会社本渓湖煤鉄公司の4社が出資し設立した国策会社。公称資本金1千万円。
『日満商事株式会社ハ南満州鉄道株式会社、満州炭礦株式会社、昭和製鋼所、本渓湖煤鉄公司、其ノ他在満主要会社ノ生産又ハ製造ニ係ル燃料、金属、肥料、鉱物、建築材料、化学工業品及其ノ他ノ売買業、問屋業並ニ之ニ附帯スル業務ヲ営ムヲ以テ営業ノ目的トシ、更ニ鋼材ノ輸入並統制販売ヲ為シ、満州国内ニ於ケル鋼材ノ不足ヲ補ヒ且之カ価格ノ安定ヲ計ル等政府ノ委託又ハ命令ニ基ク業務ヲ行ヒ満州国産業政策中最重要ナル配給機関トシテノ重大使命ヲ有シテ居ル』
(「日満商事株式会社概要」昭和15年、ハシガキから)
- 合計で3千人の社員がいたが、中国人の社員はいなかった。
- 1つの部署には主任、副部長、係長などの役職があった。
- 月給は80円くらい。加えてボーナスがあった。
- 寮に入っていたので月20円くらいとられた。寮ではボーイさんに中国人を使っていた。独身寮には同じ部屋に2人。
- どこどこに何を配給するか書いた書類をガリ版で作って各支店に配っていた。当時は通信手段が発達しておらず、郵便で送るよりも直接列車で支店にもって行く方が早かった。
- 支店が各地にたくさんあった。満州以外にも朝鮮の釜山と平壌、東京と大坂にもあった。
- 1941(昭和16)年ごろは歓楽街があり、キャバレーやカフェーなどがたくさんあった。そうした店は統制の厳しくなっていた東京からやってきたようだった。
- 新京には競馬場があり、競馬が行われていた。新京の競馬場では八百長が行われていたと思う。競馬場でのコースの一部が低くなっていて見えないところがあった。どうやらそこで行われていたようだった。
- 遊びすぎた者は人事部から呼び出しを受けていた。
- ある時、1時間に1本くらい走っていた旅客列車が1日1本になった。独身寮から線路を見ていると、相当な量の貨物列車が北へ北へと走っていた。「これはソ連と一戦やるんだ。えらいことになっちゃったなあ」と思ったが、結局それから何も起こらず、後に関東軍特別大演習という名前で発表があった。
1941(昭和16)年12月8日 太平洋戦争開戦
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会社で開戦を知る。戦争を北でやらないのでホッとした。
1942(昭和17)年 内地に帰る。全然物資がなかった。ちょうどドーリトル空襲に遭遇した。
1942(昭和17)年秋 教育召集をされる
- 鉄嶺の陸軍病院に配属され、包帯の巻き方や大便の処理などの教育を受けた。
- 目をつぶったまま包帯を巻いたり、大便の代わりに味噌を使って処理の訓練をしていた。
- 班長が36歳ぐらいの召集された人で、ビンタをとられることもあんまりなかった。
- 20代と30代の召集兵では体力が随分違った。
- 軍人勅諭を覚えないと帰れないということだったが、家に帰れることが分かっていたので最後まで覚えなかった。
- 3カ月か6カ月の教育召集が終わってから普通の会社員に戻る。
1943(昭和18)年
- 正月 鶴岡炭坑にあった支店に、上からの命令でハッパをかけに行った。鶴岡炭坑の支店長から本社の人間ということでちやほやされた。
- 石炭を山口県光の日本製鉄の工場に運んでいたが、制海権を握られて船が動かなかった。
- 貯炭場に石炭をためるだけになり、日本はもう駄目だと思った。ソ連が来なければいいという感じだった。
1944(昭和19)年2月 結婚のため内地に帰る
- 1944(昭和19)年秋ごろ、食糧事情が悪くなりご飯に大豆が混じるようになったが、みんな大豆を抜いて食べていた。
1945(昭和20)年 親族が亡くなったので内地に戻る
- 広島の親族の家に寄った時、工場がかなり爆撃されていて、いつ死んでいてもいいように棺桶が相当作ってあると聞いた。
- 東京で空襲に遭遇。何とか助かったが、とてもこんな所にはいられないと思いすぐに満州に戻った。
- 戦争後半になって社員の私生活が乱れてきた。いつ兵隊に引っ張られてもしょうがないという気持ちになっていた。ある人は賭け麻雀をやりすぎてお金がなくなり自分の布団を質屋に入れたことが警察に見つかって、「日本人なのになんだ!」と呼び出されたので謝りに行った事があった。彼らにしてもいつ引っ張られるのかわからないのでしかたない。娯楽が麻雀か競馬しかなかった。麻雀をやりすぎて肋膜のような病気になった人がいて、その人が新京から大連に移動する時にラジオをくれた。当時ラジオを持っている人はあまりいなかった。
- 人出が足りなくなり、徹夜で仕事をすることもあった。けれども兵隊にもっていかれるよりは良いと思っていた。
1945(昭和20)年5月 満州で大規模な召集があった
- この時に何故か召集されなかった。15年度召集の者はほとんど召集されたが、何故か不思議と16年度召集の者は召集されなかった。召集された者はほとんど北満の最前線に配置された。
1945(昭和20)年8月10日 新京に空襲警報が鳴る
- 今まで米軍機の空襲もなかったので「おかしい」と思った。結局それはソ連機によるもので、ソ連の侵攻を知ることになった。
- 関東軍はすでに逃げていて、新京の在郷軍人が勝手に召集令状を出して人出を集め、対戦車壕掘った。
- そのうちに婦女子は列車で南下させろという話が来たので、奥さんと分かれる。
1945(昭和20)年8月15日 会社に集まれという知らせが届いた
- 会社で終戦を知る。「日本が小さくなっちゃったなー」と思った。悔しいと思う者はおらず、みんなホッとしていた。ただ、どうやって帰るのか不安になっていた。
- 会社は解散ということになり、各家庭に3千円ずつくれた。
- 列車で南下していた奥さんは蘇家屯で終戦を迎え、運よく新京に帰って来られて一緒になった。これからが大変だった。
- 終戦の翌日、ソ連軍が新京やってきた。ソ連の兵器は全部アメリカ製、戦車は車体が日本のより大きく大砲も長かった。
- ソ連兵が日本人を殺すようなことはなかったが、女性を強姦する。夜になると「ダバイ、ダバイ、マダム」といってソ連兵がマンドリンを持ってやって来る。これを防ぐのが大変だった。北満から引き揚げてきた人にはずいぶん強姦された人がいたと思う。ソ連の憲兵(GPU)はソ連兵が強姦している現場を見れば銃殺していたが、結局みてない所でやっていた。
- 都会では人目に着くのであまり行わなかったらしい。吉林でソ連兵が日本人を強姦したので日本人が寄ってたかって殺した。するとソ連兵に日本人が十人殺された、という話を聞いた。
- ソ連兵は刺青を入れていて、悪いことをしても平気な顔をしていた。ソ連兵が時計を欲しがるので売り付けたことがあった。あるソ連兵は時計を腕に4つもつけていた。
- 持っていた物を満人に売って生活していた。戦後に満人に日本人が殺されたようなことは聞かなかった。
- なにもしないで食べるだけだった。最後は布団まで売った。社宅が使えたのでそこに住んでいた。石炭がないのが困った。ソ連兵のところに盗みに行ったこともあった。電気は戦後も使えた。
- ある日、ソ連兵が6人ぐらい家にやってきた。そしてラジオを持っていたことと、教育召集の時に軍服姿で撮った記念写真を持っていたことが見つかり、スパイ容疑で連行された。寮の地下室のようなところにつれていかれる。日本人の脱走兵や朝鮮人など合計で5、6人がスパイ容疑で捕まっていた。 日本語の分かるソ連の者が、何年何月生まれ、学校はどこかなどと質問をしてくる。違ったことがあったら突っ込もうということだったのか、同じことを何度も何度も質問してきた。杉山という姓だったために、杉山元元帥に関係があると疑われた。 手錠をはめられて、トイレの時以外はずされない。捕えられた者同士で話す事は禁じられていて、筆談していた。
- ちょうど1週間がたち、たった1人で釈放された。
- シベリアに送られる日本兵捕虜の中には逃げる者もいた。その員数を合わせるために、町を歩いていた日本人や朝鮮人がソ連に引っ張られるようになり、町へ出られなくなった。
- それからしばらくすると、各家庭に対して日本人を出せという通達が来た。
- 病気の診断書があればいかなくてすんだ。水風呂に入ったりしたが、緊張して熱が出なかったので、近くに会った寮の人に頼んでかくまってもらった。
- 日満商事の上司だった人が新京の日本人会のメンバーで、北満から惨めな格好でやって来る引き揚げ者の面倒を見ようとしはじめた。その人に賛同して、布団を調達したり満州国時代の役人の使っていた建物を使わせたりした。
- そのうちソ連が引き揚げて、中国国民党がやってきた。そこに八路軍もやってきて、国民党と八路軍の間で戦闘になり、弾が飛んでくるので外に出られなくなった。 しばらくすると国民党が負けて、八路軍の統治が始まった。八路軍は規律がしっかりしていて、治安が良かった。日本人が町の公会堂に集められて、支那事変で八路軍の捕虜になってから八路軍の将校になった日本人から洗脳教育を受けたこともあった。
- しばらくするとまた国民党軍がやってきて八路軍がどこかに消えてしまった。
- 八路軍は引き揚げるときに、畑に大豆の種をまいて行った。八路軍の兵士は電球や物を貸してもちゃんと返してくれるが、国民党軍の兵士は物を貸しても返してくれず、規律が悪かった。
1946(昭和21)年6月頃 日本に帰ることに
- 新京から列車で葫蘆島(ころとう)に向かう。
- 途中、伝染病の患者が出たので奉天で留まることになった。奉天の工業地帯で1カ月暮らした。工業地帯と言っても、工場の機械はソ連が持って行ってしまったために空倉庫になっていた。
- 葫蘆島に到着してからリバティー船に乗船。リバティー船は普通の船より大きく、はしごが高くて登るのが怖かった。