インタビュー記録
1938(昭和13)年 麻布連隊に入隊
1939(昭和14)年2月 独立混成第8旅団独立歩兵第32大隊第3中隊に配属
満州へゆく予定が北支派遣となる
河北省晋県で初年兵教育を受けるが、敵を銃剣で突き殺すというすさまじい教育であった。敵兵か農民か自分たちでは見分けがつかず、上官の命令でやらなければならなかった。その軍事教練は毎日あり、そのすさまじさに落伍する者もいたが、自分は体が丈夫だったので一期検閲を無事終了することができた。
最初軽機関銃班だったが、3ヶ月後に上官から希望を聞かれ、軽機関銃は重いので小銃班へ移動した。
自分はあまりしゃべらない性格なので推薦されて暗号教育を受け、暗号兵となった。当時大東亜戦争が始まりつつあり、戦況は暗号でどんどん入ってきたため、解読して部隊長のもとへ持っていかなければならなかった。新しいことは暗号で次々入り、全軍について解読するため、秘密兵としてあまり一般兵と交わらぬよう個室をもらった。上官に「暗号兵は敵に囲まれたら暗号書を食べてしまえ」と言われたくらい徹底したものだった。
暗号兵は無線士が打ってくるものを解くため、無線士が未熟だと数字が出てこず、解くのが大変であり、熟練されていると正確に解けた。討伐に出かけた際は、皆が休憩をしている時間にも解かなければならないので、休めなかった。
1940(昭和15)年11月18日
南智邱において、第3中隊分遣隊が八路軍の大軍に囲まれ、小隊長以下ほぼ全滅する戦闘に遭遇し、九死に一生を得た。日本兵の遺体は皆全裸にされ、目はくりぬかれ耳鼻が切り取られて誰だかわからなかった。中隊長から「なぜ小隊長と一緒に死ななかった」と言われ、大隊長からは「よく死守したと」褒められた。
当時、この戦闘以外は基本的に日本軍のほうが優勢だった。
共産軍は武器こそはよくなかったが、勇敢で粘っこく、野生的であった。それに対して正規軍は負傷した日本兵捕虜に包帯で捲いて返すなど、手厚く扱い、人道的であった。
同期の中には、討伐で捕虜になった者もいた。「初年兵だから」という理由で敵が殺さずに送り返された戦友もいた。後々、送り返された戦友は捕虜になったことを恥じ、戦友会には決して出てこなかった。
上官の中には酷い物もいて、部下をいじめ、そのいじめに耐えられずに、中国軍に入った日本兵もいた。その日本兵は、中国軍の中で活躍し、部下を従えて、いじめられた上官の名を叫びながら仇討ちにきたが、その後、日本軍に捕まり、処刑された。(北京にて銃殺)処刑の当日、戦友が受刑者に食料を差し入れに行った。
中国の部落は日本軍が来れば日本軍、八路軍が来れば八路軍に尽くした。その部落が日本兵に良くしてくれれば、日本軍は中国の人々を攻めることなく、部落に協力した。部落に道路を作ったり、八路軍が攻めてきたら守ってあげたりした。
日本に協力的な部落は荒らすなといわれ、非協力な部落には、討伐粛清に行った。しかし、中には部落を荒らす者もおり、隊長の命令下で部落に火をつけ、苦しみながら出てきた老人たちを殺したりした。しかし、老人に罪はないと自分は助けてあげた。
中国の部落にいる討伐要員は普段は中国を侵略しにきたのではなく、治安維持にきているという宣撫工作を行っているにもかかわらず、某隊長の遺品を整理したら、銀貨が南京袋一杯出てきたりもした。
1942(昭和17)年 挺身部隊へ
(当時は秘密主義で部隊名も明かされず、知らされていなかった)
暗号で落下傘部隊の募集を知り、どうせ生きて帰れないならパレンバンの落下傘兵のように華々しく戦死しようと応募。適正検査があり、体の重い人、平行感覚のない人はだめで、足の強さもみた。全陸軍から募集、100人中10から15人しか受からなかった。
所沢で、体を柔らかくするため軽業師のような基本訓練を受け、次に二子玉川で、高いところから落として足を鍛える訓練を繰り返した。着地が下手だと足を折った。だめな人はどんどん原隊へ戻された。宮崎で最後に飛行機から飛び降りる訓練があったが、一瞬風圧で意識不明になった。ふわふわ落ちているようで、二階から落ちるような衝撃があり、骨を折る人もいた。当時、落下傘部隊は極秘の下で行われていたので、軍服は着ず、学生服を着せられていた。
落下傘部隊はビルマ作戦に参加することになり、その前夜の歓送会のさなか、上官から「教育要員として日本に残れと」言われた。自分は厳しい訓練を共にした戦友と一緒にビルマに行きたいと懇願したが、受け入れてもらえず、宮崎に一人残った。その後部隊はビルマで全滅、当時の戦友は誰も残っていない。
主力が全滅したため部隊は解散し、北支の原隊に復帰した。この頃はもう日本軍の旗色が悪く、劣勢であり、敵のほうが優勢だった。
1943(昭和18)年12月 除隊
現役はとっくに満了しており、予備役で務めていたため、いったん内地に帰った。
久しぶりに帰った内地は、物資が不足し、武器も少なかったので、敗戦の予感が頭をかすめた。
1944(昭和19)年2月 2ヶ月後再召集
通信兵が足りないと暁第1982部隊の船舶担当となった。船がなく木造船の大発で訓練したが、敵が日本の近海に来ていたため、何もできなくなってしまった。台湾防衛のため台湾へ向け出港したときも、本隊がやられて沈み、自分たちは後備だったため助かり引き返した。
1945(昭和20)年8月15日
内地で物資を調達しているうちに終戦を迎えた。敗戦を信じられなかったので、どこで聞いたか忘れた。他の部隊では、敗戦を受け入れられず、自爆した者も多かった。アメリカ兵が銃を構えて立っているのを見かけると、戦争に参加した自分は殺されるのではないかという恐怖に駆られることもあった。