インタビュー記録

1944(昭和19)年3月20日 志願

 第1師団歩兵第1連隊(玉5914)に入隊。満州黒河省孫呉で訓練。

 両親はおらず、勤め先が金属供出で材料が無く潰れたので、軍需工場に徴用されその後徴兵で兵隊に引っ張られるなら、同じ歳の者が入ってくるまでに偉くなっておこうと軽い気持ちで志願した。当時は小学生の頃から軍国主義の教育を受けていたので仕方が無いと思う。
 訓練中は毎日拳のビンタ、上靴でのビンタは一番酷くピカピカと本当に火花が出る。だから日本の兵隊は米兵のように怪我をしたからと言って大騒ぎし泣きわめく様な事はなく、手をやられても足をやられても自分で下がっていくようなところがあったのかもしれない。

 古参兵の銃の部品をトイレに捨てた同年兵がいて、誰がやったか名乗り出るまでと一晩山中で正座をさせられたのは辛かった。狼の声は聞こえるし、蚊がどんどん止まっても動いたらビンタされる。この同年兵は脱走をはかり重営倉となった。彼に食事を運んでいたら週番士官に見つかって「お前も入りたいのか」と叱られた。運べと言われて運んだが衛兵の仕事だったと後で知った。
 同年7月一杯で一期の訓練が終わりビンタも無くなりホットする間も無く、8月に師団に動員令が出る。
 中隊長に可愛がられていたので精勤章を貰った。

同年8月 動員令

 衣服や蚊帳の支給で南方だとは分かる。
 汽車で山海関へ、南京を経て上海、廟行鎮で1月、上陸演習をしているので沖縄かと予想した。
 船は台湾沖航空戦をやり過ごし、台湾が見えたので沖縄ではなく、椰子の実が流れてくる。
 魚雷をよけながらバシー海峡を越えルソン島ラボックで第2大隊が上陸。輸送船がやられても第1師団が全滅しないように各1大隊ずつ陸路を歩かせた。
 私は第2大隊だが第3中隊だけ荷揚げ要員としてマニラへ直行となった。

同年10月25日 マニラ港入港

 肩章を吊った参謀(山下大将他)を乗せた小さなランチが輸送船にピタッと付け、米軍がレイテ島へ上陸したので(10月20日、タクロバン)第1師団はレイテへ直行してくれと言われた。
 本当はルソン島の警備だったらしい。

同年11月1日 レイテ島オルモック上陸

 荷揚げを終え同月3日より行軍開始、米軍戦闘機から機銃掃射を受ける、真っ昼間にオルモック街道を堂々と行進したのだから格好の餌食。実戦を知らないし、第1師団だから堂々と行っちゃった。ヤシ林に逃げ損ない、背嚢はびりびりになり、右肩に破片が入り、小隊で1名だけ怪我をして仕舞って冷やかされる。
 街道を行くと守備隊の16師団の兵隊がオルモックへ逃げてくる。格好が凄い、ボロボロ、「あきまへん、あきまへん」と言いながら来る。当時はまだ威勢の悪い兵隊がいるもんだと思っていた。
 肩を怪我して擲弾筒も使えないので、小隊長が山の下に1人残って小隊の背嚢の番をしていろと言われた。そこにラボック経由の本隊が遅れて来て急いで原口山に皆入って行った。1人だから気は楽だった。そのうち怪我をした他の部隊の兵隊と3名になった。皆一等兵なので階級章を外してしまった。
 輜重兵が来てくれていたが、リモンの山の向こうから砲で道に撃ってくるので結構やられてしまう。発射音が聞こえるのでそれが聞こえたら5~6秒したら伏せる。その勘が分かるまで1週間ぐらいかかる。
 現地民の家の小屋に兵隊が銃を持ってもたれたまま白骨になっている。現地民は逃げていない。最初はそんなのを見るとガタガタして震えが止まらない。10日もたつと死骸を見ようと弾が飛んでこようと平気になる。ラワンの大木が覆い繁っているが木が砲弾で倒れてジャングルが明るくなっている。また原口山は草原で草が根を張り掘れないので隠れられない。戦友が殆どここで死んだ。


 一月ぐらいして肩の傷が治り、兵隊も足りないので将校が廻ってきて師団司令部の護衛という名目で軽傷者は皆引っ張られる。
 斥候に出されたが、道路の向こうに米兵がわ~っといる。勝っているから裸になりベラベラ喋りながらいる、腹が立ったので撃たなければ良かったのに撃ってしまった。更に同年兵のMはもっと良く見ようと木を楯に立って撃たれ即死だった。雨外套をかけてやるだけ。ジャングルがすぐ側にあるが入れない、這って這って近づき立ち上がって駆け込むと来た来た。パシッ、パシッと鞭で叩くように弾が来る。側の小枝が弾で折れる。けれどジャングルに入ったら当たらない。
 戻って報告をしても、命令がないと下がれないので、明日までは大丈夫かなと思いながら木の根っこに入り込もうと思ったら中隊の違う2名が駄目だと言う。仕方がないので1人でいたら夜今度は向こうの斥候が5~6名。1発撃ったらパパパパパパと来てこちらの銃では2発目が撃てない。手榴弾を投げたら向こうが下がった。手榴弾が10何発投げられた。先の2名は死んで仕舞う。あの何秒かは死ぬかと思った。両親はすでにいなかったので、東京の街の灯や銀座の灯がグルグル走馬燈のように廻った。本来同じ所には弾は落ちないので砲弾の穴に飛び込むと良いのが常識だが、レイテ戦では何度も同じところに弾が来る。


 カンギポットへ撤退命令。逃げられなかった現地のお祖母さんがいて将校が殺せと言ったが、兵はお祖母さんなんて殺したくはないので、皆知らん顔をして歩いていた。どうなったかは分からない。移動中2名の戦友に会う。Yは胸が裂けてしまって包帯でまいて見せてみろって言うとウジが湧いて肺がプカプカ動いているのが見えちゃっている。Sは頭をやられて真っ青な顔をして3人で話していたら弾がほおに当たって止まった。
 カンギポットで警備に出される。河があって橋が壊れているので安心していたら、何日かしたらカタカタ音がしておかしいなと思ったら戦車が来た。小銃ではどうしようもないので竹藪に飛び込んだら、目の前で戦車が止まり戦車砲を撃ちだして、兵隊がぞろぞろ出てきてどんどん連隊本部に向かった。応戦しなかったのであとでとても怒られたが、後で参謀が「お前達だけじゃないよ、道中皆居たけど誰も撃ちやしないよ」と言われた。
 連隊本部へ伝令に出された。連隊本部は米軍が上陸したパロンボンに迎撃に出る準備をしていたが、同年兵のKが腹を壊して痛くて動けないと言ったら、連隊長が怒ってそんな兵隊を連れて行けるか、お前代わりに入れと急にこの攻撃部隊に入れられる事になった。これがセブ島へ転進する部隊だった。そう言うことは兵隊には一切教えない、教えると我も我もと大変。やっとリモンから命からがら逃げて来たのに米軍が攻撃している所に行くと言ったら兵は行きたがらない。途中で部隊が海岸沿いで動かなくなったら、輸送船が来るのを待つ待機だった。Kは亡くなったと思う。

同年12月末 夜中セブ島へ転進

 セブ島からレイテへ迎えに来るダイハツは1連隊の場合70人乗りが1回しか来られなかった。
 同じ中隊の者がいなかったので比較的残っていた10中隊(たざわ隊)に入った。向こうもやりにくいので連隊本部に行かされた後セブ島での戦闘が始まり、たざわ中尉が突撃したが島田さんは本部に行ったので助かった。
 1945(昭和20)年4月29日、連隊本部の前にも米兵がちょろちょろ来る、壕に入っていられないので半身出していたら、目の前に迫撃砲が来てば~んとなり、右腕を負傷。神経も飛ばされているので痛くもないが血が止まらず腕はだらっとしている。更にマラリアが出る。その夜移動命令が出て、歩けないなら手榴弾で自決しろと言われたのでいよいよ死ぬしかないかなと思ったら、班長のMさんがついてやるから歩けるだけ歩いてみろと言ってくれた。

 衛生兵が手当をしてくれる、と言ってもヨウチン程度だが、肉芽が盛り上がってくるので、衛生兵がこのままでは駄目だぞと言ってピンセットの先で肉芽を掻き落とすのを何度か繰り返した。脚絆を巻いた儘なので皆、熱帯潰瘍で足が腐ってくる。薬がないのでヤシ油を湧かし、そこにぼろ切れを漬けて傷口に当てる。ジューッと音がする、涙を流すほど痛いが火傷にして治した。
 手当てして貰えるだけ良い、手当もして貰えないで死んだ者が大勢いる。自殺する力が無いので「どいてくれどいてくれ」と言ってこうやってるが発火しない。危なくてしょうがない。「殺してくれ殺してくれ」って。亡くなると暑さと雨で1週間で白骨になる。2~3日は膨れて、ウジが湧いて食べられちゃう。人が死ぬと黒く油が浮いて草が枯れてしまう。現地人の小屋には行って寝ようと思って何かこの部屋は臭いなと思うと遺体や白骨がある。

1945(昭和20)年8月28日 停戦

 米軍の「戦争は終わりました」というビラが8月15日頃撒かれたが誰も信じる者はいなかった。15日を過ぎるとグルッと取り巻かれたのに撃ってこない。こちらは兵隊は20人ぐらいで、出て行くほどの人数はいない。シンガポールから師団本部に無線が入り、参謀が白旗を掲げて米軍に話しを聞きに行き本当に敗戦だと確認した。
 原っぱで武装解除。トラックに乗せられセブ市に向かった。島田さんは1台目に乗っていたが、2台目からは住民から石をぶつけられた。皆笑っていて「ジャパニーズ、パタイ、パタイ」と首を切る仕草。お前ら皆死ぬんだと言う。こちらも頭にきて皆叩き殺してやると思っていた。
 セブの収容所へ。毎日朝昼晩コンビーフを食べさせられる。美味しかったのは最初の1~2日だけ。

同年9月 船でレイテ島の収容所へ

 所長は良い人で、交渉すると、米兵が個人的に取り上げた時計などを返させた。
 黒人兵は白人より親切。
 絵の巧い戦友がいて、所長は芸術家は働かなくても絵を描いてろと展覧会をやったりした。“危なっかしい絵”を描いて米兵に渡すとタバコなどで買い取ってくれた。
 食事は3食、タバコにシャワーもあった。演芸会も盛んで全体としては悪くなかった。
 仕事には遺体の掘り返し(米国は仮に埋めたものを持って帰ろうとする)、米兵の精神病院の檻の掃除など嫌なものもあった。精神疾患の米兵は日本兵が掃除に入ってくるのだから怯えてベッドの下に潜ったりする。
 同年兵で下士官候補生に志願するつもりだった私の代わりに衛生兵になったYは、血まみれの遺体ばかり見ているうちに気がおかしくなり泣きわめいていたが、死んでしまった。

同年11月 復員

 10月末にリバティー船に乗船、船では1日にレーションの缶詰2個×3食をくれ食べきれないほど。横須賀で風呂をくれたおばさんに缶詰を2個あげると大変喜ばれた。
 両親はいないので帰る先がないが、当座兄の住み込み先を頼った。
 命があるのだからもの凄く働いた。

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