インタビュー記録
1941(昭和16)年8月10日 電信第4連隊補充隊(青森)に召集
独立電信第10隊に入隊、特殊無線中隊に転入
1942(昭和17)年12月 宇高へ 船舶通信連隊第3中隊に転属集
南方にいくか北方にいくか、雪のあるときに夏服着せられて、「どこにいくかわかるか?ガダルカナルだ」まずはラバウル。ニューギニアに行く人もいた。ガダルカナル島行きになった。
1943(昭和18)年1月能登丸に通信士として勤務、
船舶工兵第8連隊本部に転属
ガダルカナル~ショットランド 鼠輸送
ガダルカナルには2回行っている。食料弾薬の輸送と撤収。
1回目はガダルカナルに弾薬、食料を下ろして引き上げている。荷を降ろしたらすぐに帰った。
日中は島影に隠れて、夕方動き出す。羅針盤ひとつで6隻の舟艇で進む。夜の星を眺めて、星と星の間を移動する。水産学校出の中尉がよく星を知っていた。
ガダルカナルは人の腐敗した匂いと、どぶの匂いで酷いところだった。食料なしで戦う戦争は大変。
ジャングルに隠れている。豪州兵はわいわい話しながらくる。後ろから襲うと、すぐ手を上げて捕虜になった。今朝の捕虜はどうなった?と聞くと、「う
ーん」と言って答えない。晩のカレーライスにでも入ったのか?
ほとんど人肉だよ。食べ物ないんだから。捕虜は1人も帰ってこない。今朝のお客さんがいない。夜の肉になっている。人の肉も食べないと生きられない。トカゲを見たらすぐに皮むいて焼いて食べた。最後にはやしの木の芯を食べる。バナナの木の芯を食べる。木を切るな、銃殺にするといわれた。上から丸見えになるから葉っぱの大きなものを切らないようにということだった。
夜になると海が花火大会。海戦を見ていた。
やしの木の陰、バナナの陰で隠れる。途中で空襲を受けたことは1回あった。
後ろにいた人が、怪我をした。流れ弾が石かなんかにあたって、人間の命なんてどこにあるかわからない。これはその人の運命だね。
一週間くらい島にいた。コロンバンガルに行くと、海軍のたまり場があって、駆逐艦で送ってくれる。
生きている戦友はほとんどいない。地図にない小さな島がたくさんある。舟艇が沈んだり、流されてきたり、助かった人もいる。ラバウルに帰る途中の艦隊とぶつかった。島を右回り、こちらは左周りぶつかった。海に投げ出された。朝方になると潮の流れが変わる。溺れ死んだ人が結構いた。島に流れ着いた。張って上がって、助かった。誰かいないかとカッターで迎えに来た。海軍に助けられた。2日ぐらいしてラバウルに無事帰った。
同年 2月 ガダルカナル撤退作戦
駆逐艦雪風にてブーゲンビル島着。ラバウルへ
上陸用舟艇で移動していた。駆逐艦の本船まで連れて行く。次の船がくるまで静かに待っている。やっと歩いて、よろよろ、銃を杖にして歩いている。すっかり弱ってしまって。
ラバウルにいた時は毎日夕飯すぎにB-17が飛んできて爆弾を落としていった。防空壕に入ってなくなった人もいたし、暑くてかなわんといって外にいて助かった人もいる。戦争はわからんね。
同年 4月 アッツ島へ出港。トラック島にて待機
ラバウルから船舶無線の三中隊は北方作戦 アッツ島にいく予定だったらしい。トラック島に三ヶ月いた。横須賀についた。汽車で宇品に。
マラリヤになった。広島の陸軍病院にいった。同部隊はマニラに派遣されて全滅した。運がよかった。
1944(昭和19)年3月 再召集 東部第1901部隊
(高射砲隊本部中隊)
マニラ要員だと言われた。でも、東京に残された。ガダルカナルで苦労したから?と言われた。陸軍は電波兵器に理解がなかった。
1945(昭和20)年10月 電波兵器を米軍側に引き渡し。