インタビュー記録

1943(昭和16)年現役 第14師団野砲20連隊(通称:満州第818部隊)

 兵役検査で甲種合格したときは、表には出せないが、これでおしまいと思った。

同年 満州516部隊に転属

 所属した第14師団の主力はパラオに送り込まれて全滅したが、私は満州516部隊に転属したので生き残れた。転属先の部隊は関東軍化学部練習隊に所属し、毒ガス戦の訓練をさせられた。

1944(昭和19)年 満州第516部隊(軍直)、関東軍化学部練習隊にて瓦斯教育

 所属部隊はチチハル近郊に駐屯していた。遺棄毒ガス弾が最も多いのは、そのためである。
 イペリット(びらん性毒ガス)を散布したあとは、サラシ粉を撒いて無毒化をはかって歩けるようにしたが、散布が不十分であると靴底が腐食したり、ひどいときには足に障害が生じ、入院した人もある。
 今から思うと、毒ガスを使ったのはひどいことをしたと思うが、当時は、ガス兵として当然のことをしていると思っていた。
 満州に滞在していた兵隊には、全員に防毒マスクを携行させていた。鉄かぶとが不足していて、持っていない兵隊がかなりあったというのに、いかに毒ガスを怖がっていたかの証拠と思う。

1945(昭和20)年 123師団野砲兵第123連隊に転属(孫呉)、関東軍砲兵教導学校(阿域)

同年8月9日 ソ連軍侵攻、 8月15日 敗戦

 昭和20年8月9日にソ連兵が侵攻したときは、国境には監視兵しかいなかったので、重戦車を主体にしたソ連軍に有効な抵抗は出来ないで、あっというまに突破され、国境監視隊は全滅した。
 飛んできた攻撃機(イリューシン「戦車殺し」)の25ミリ機関砲弾が、大砲を引いていた馬に当たったので馬が跳ね上がり、乗っていた私は振り落とされ、足と手をかなり負傷した。この傷はシベリアに送られた後でも、なかなか治らなかったので苦労した。
 国境の荒神山を守備しているときに戦闘終了となり、基地に帰る途中に武器を壊して、ソ連軍に引き渡した。

同年9月7日 ソ連領へ オレンブルク州に抑留

 基地では、宿舎の焼け跡にテントを張って、半月ほど過ごした後に、シベリアに送られた。鉄道で列車に乗り込むことが出来るところまで、数十キロを歩いた。送られる途中に、滞在をしてイモホリなどの作業をした。

1948(昭和23)年 舞鶴に

 日本帰還の時は、最終収容地よりナホトカまで、約1ヶ月かかった。ナホトカで乗船するときに、持っていた戦友の遺骨を捨てさせられてしまい、日本に持ち帰ることが出来なかったのは心残りであり、未だにその戦友の遺族を訪問できない。

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