インタビュー記録
1940(昭和15)年10月10日 東京陸軍航空学校入校
1941(昭和16)年9月30日 同校卒業
同年10月2日 熊谷陸軍飛行学校入校
1942(昭和17)年 郷土訪問飛行、帝都班
1943(昭和18)年3月28日 熊谷陸軍飛行学校卒業、
飛行第77戦隊配属(部隊は満州嫩江)
同年4月5日 ハルピン集合教育隊に参加するため列車で下関駅に到着、関釜連絡船で釜山に渡り、大陸横断鉄道で新京に一泊。
同年4月11日 飛行第77戦隊に赴任
ハルピン馬家構(まちゃこう)飛行場に到着。
少飛第11期生34名で九七式戦闘機による戦闘訓練を開始。
単機戦闘を中心に訓練、最初は上から始めてもすぐに後ろにつかれるが、訓練を積むと下から始めても上に回れるようになる。
射撃訓練は、飛行機の後ろに吹き流しを付け飛行、これを色を付けた弾で射撃する。
同年10月6日 訓練終了、北満州嫩江(のんじゃん)の飛行第77戦隊に到着
関特演に操縦者は全部行っていたため1週間ぐらい内務班にいた。兵長だったが若いので古参兵がこれみよがしに初年兵を殴る。
一式戦闘機二型「隼」による戦闘訓練を4日間。
同年10月9日付大陸令 戦隊がシンガポールの第3航空軍の隷下に編入
パレンバン油田地帯の防空のためスマトラ島ゲルンバン-に展開せよとの命令。
同年11月4日 南方に向け出発、11月14日スマトラ島ゲルンバン飛行場着
雁ノ巣→那覇→台湾塀東→フィリピン・クラークフイルド、南京虫が凄い→ミンダナオ島・ダバオ着→セレベス島メナド、温泉に入る→セレベス島・マカッサル→ジャワ島スラバヤ→ジャカルタ→スマトラ島ゲルンバン飛行場着。毎日知らない飛行場で、これで自信がついた。
ゲルンバン飛行場はジャングルの真ん中にある飛行場で熊やトラが出る。兵隊は野ブタ取りもやる。
吹き流しを落として2キロぐらいなのですぐ回収出来ると思ったら、ジャングルに入ったら沼地で方向が全く分からない。白い布を木に結んで目印にして何時間もかけ回収した。
1944(昭和19)年1月10日~
カルカッタから中国昆明への英軍の燃料輸送を阻止するため一時的にタイ・ビルマへ。
飛行機を受け取るためバンコクまで爆撃機に同乗、帰隊するとその間に愛機に乗ったK少尉が不時着して亡くなっていた。確かに機体の調子は良くなかったが当時は皆そんなものだったので気にしていなかった。私が乗ったら同じ事が起こったかどうかは分からないが。
同年1月18日 初陣
ビルマ北部、中国国境で燃料の輸送機を狙う。輸送機を戦闘機で狙うので辻斬りと行っていた。
中隊長に絶対離れるなと言われて付いていった。高度が5~6千mだから南方でも寒い。身体はブルブルブルブル震える、歯がガチガチする。本当に怖い。中隊長が撃ったから私も撃ったが、それを撃ったら幾らか人間らしくなった。その後何度も戦闘はやったが、毎回怖い、上がるとき、敵が来たときは怖い。
同年1月31日 第二方面軍の指揮下に編入
第8軍の撤退を助けるため2月中旬までにニューギニア・ホーランジアに展開することに
・同年2月14日
マラリアを発病、高熱でうなされ、後から来るように言われて戦隊主力はニューギニアに発った。残念な気持ちで見送ったがこれも分かれ道になった。
・同年2月25日
本隊を追ってブル島着、ホーランジアに到着の前日、愛機の油圧系統が故障し翼がだらんと下がってしまう。滅多に飛行機が来るような所ではなく、大きな修理を出来るような整備兵はいないと言われる。同期の若林と私のどちらかが残ることになり、ジャンケンで決めることにしたが、5回やって5回とも負けて残ることになった。これが大きな分かれ道になった。
同年4月22日 ニューギニアのホーランジアに連合軍が上陸
サルミまでジャングルの中を200キロ歩いて帰っているが百名弱の中で生き残ったのは2名(+4名:島に行っていた)。
部隊が着のみ着のままで乞食のような格好でサルミに付いたところ、そこを守っていた36師団に、第6飛行師団長がトル河より西には来るなと止まらされた。サルミに行けば食糧もあるしと思っていたのがバタバタとそこで死んだという。師団長だけは部下を残しダイハツで先に帰ってしまった、その後軍籍を剥奪されている。
同年4月 アンボン島へ
修理が来ないので飛行機は諦め、舟でアンボン島に渡り、ニューギニアのバゴに操縦者を迎えに行く便があったので連れていって貰うが、そこは飛行機も操縦者もなく、もう壊すものもないような廃墟になっていた。
仕方なくアンボンに戻る。ホーランジアへの米軍上陸したらしいかニューギニアに行くのは無理だぞと聞くが、それも偶々無線を傍受して。
同年5月初旬 ハルマヘラ
在ニューギニア戦闘隊の生き残り操縦者は、ハルマヘラ島のミチ飛行場に集結するよう命令。古参兵ばかりで召し上げもさせられるので偉いところに来たと思っていた。
南方航空の操縦者から「飛行第77戦隊」がマニラで再建中との話を聞き輸送機に便乗。
ネグロス島でトッケートッケーと泣くトカゲを見る。
同年5月16日 ルソン島・アンヘレス飛行場で戦隊に合流
同年6月初旬 シンガポールのテンガー飛行場へ。
「シンガポールで77戦隊を再建する」と言われ、南方航空のMC輸送機に便乗してシンガポールへ。マニラに5回ぐらい飛行機を受領に行き戦隊では40機ぐらいに。操縦、整備も増えてくる。
同年7月25日 飛行第77戦隊は解散と決まり、
新編成の第17錬成飛行隊に移管される
・同年8月初旬 特別操縦見習士官第1期生(学鷲)40名ほどの実戦機による錬成教育。
短期訓練しか受けていないため1ヶ月の訓練の間に飛行機が半減してしまう。20機を訓練用に、20機を実戦用に。あまりに壊され続けるので隼に複座を付けて訓練をする。2人羽織で足をこちらがやり、操縦桿を持たせて感じを掴ませる。
・同年8月 潜水艦の出没が増え何度か船団護衛に付く。
一番上を隼が、その下を49軍偵が、一番低空を海軍の神風と3段階に分けて守り、月に5~6回やったが、特に損害を出さなかった。
飛行機で1時間進むところを1日ぐらい行く。
同年10月初旬 第3航空軍より当隊に対し、シンガポールの防空と直轄作戦任務を付与。
同年11月1日 シンガポールにB29単機で初偵察
7000mまで上がったが敵機はそれより高くにいる。酸素も付けていないので無理だと思い降りてくる。それまでの酸素ボンベは人1人分ぐらいの重さがあったので、新しいものに取り替え準備する。
隼は1万m上がれるが機体が古く実際には9000mぐらいでアップアップ、水平飛行なら良いが少し機体を傾けると落ちていく。10日おきぐらいにB29は来た。連絡が来てから上がっても間に合わない。
同年1月11日 B29撃墜
B29が約20機来襲、当隊から6機邀撃に上がる。少し早めに上がっていたので待っている事が出来た。500mぐらいまで我慢して撃ち始めた。
真っ正面から撃った。向こうは千mぐらいから撃ってきて煙もパンパンパンパン、弾もカンカンカンカン当たるが高度を落としたら負けだと思ってそのままで進み敵機に煙を吐かして離脱した。左翼には大きな穴があいていたが、前からの弾は見えない。降りると一発はエンジンを貫き計器盤に当たり操縦席に落下していた。昭南神社のお守りが吊してあった。遠距離からの弾だった。
1945(昭和20)年3月 ボルネオ、ミリ派遣隊へ
ミリ飛行場は敵機の爆撃により使用不能で近隣の海岸に離着陸したが、満潮の時は使えず敵が干潮の時だけ来るわけでもなく戦果は無かった。
・同年5月18日
アナンバス諸島に50キロ爆弾2発を装備して出動したが、離陸の際片方の爆弾が落下して尾部の水平安定板に当たった。操縦桿が利かなくなり、だましだまし飛行場の端に着陸したが、落下があまりにすぐに起こり爆発しなかったのは本当に運が良かった。
同年6月中旬 ジャワへ
ジャワ派遣隊視察のため戦隊長とスマトラに、スコールで地図を見て最も近いジャンピー飛行場に着陸。ジャングルの真ん中にある設備のない飛行場。ジャワのマランに。
マラン派遣隊にいた同期のT軍曹が悪酔いして新部隊長と口論、翌日隊長からセレベス・リンブン派遣を命じられたが着陸の際P38に襲われ戦死した。
同年6月25日 B24撃墜
手伝いで数日リンブンへ。2機で迎撃に上がりB24を撃墜。降りたらもう1機の機関砲は故障して弾が出なくなったと言われ自分の戦果になった。
同年7月初旬 部隊に特攻命令「七生昭宇」
マレー・ペナン島付近に英軍機動部隊が来て部隊に将校2、下士官2の特攻命令が出される。個人は特定されず、全員が神風の鉢巻と新しいふんどしや下着を貰い誰が指名されても良いようにしたが、英軍がすぐ退去したので行かなかった。
同年7月25日 全機特攻命令
英巡洋艦がプーケット島を攻撃、全機特攻命令が出た。シンガポールにいたので随分距離がある。スンゲパタニーまで移動し泊まっている間に引き揚げた。地元にいた戦闘機は特攻を行っている。
同年8月15日 シンガポールに戻り玉音放送を聞く
9月まで飛行機は飛んでいた。B24がビラを撒きに来るがそれがいなくなると各飛行機は空に上がって海の方に行って撃ったり宙返りしたり。高射砲もバンバン撃っている。
同年9月 武装解除
チャンギー飛行場を経て徒歩でマレーへ。
5日、更に明日中に○度より北へ行けと言われポンテアンへ。偶々自分の部隊は4台トラックがあり負担が少なかった。
同年10月 レンバン島へ
最初の1ヶ月で余力がなくなり、食べるものが何もなく、あらゆるものを食べた。エビ、トカゲ、草、口に入るものは何でも食べた。最初はむくみ、それから痩せて骸骨みたいになる、糞が出なくなる。兎のような糞が2~3時間かけてやっと出る。
同年12月8日 英軍のレーションが来る
チーズ、豚肉、チョコレート、煙草、ガム、ビスケット。カロリーはあるが量が無いので食べた気はしない。1日分を1食で食べてしまう。餓死は出なかったが、マラリア、赤痢、カニやゴムの実での中毒で死ぬ者は多かった。
1946(昭和21)年5月18日 名古屋港着、同20日 復員
〈インタビュー時の質疑応答から〉
- 洋上の最長飛行距離は800キロぐらい、島の上で燃料の切り替えは行うようにしていた。
- 地図は5万分の1、分度器と羅針盤だけで飛ぶ。マレーは目をつぶっても飛べるぐらいの感じ
- 1式戦闘機2型が多くこれが良かった、3型はうるさくて耳栓が必要。3式は煙を吐いて嫌。陸上滑走をするとメーカーの違いなどは大体分かる。弾はま102、ま103を積むようになって落ちるようになった。タ弾攻撃。飛行場によって弾が足りないという事があり、撃ってみたら弾が半分しか入っていない事はあった、ちょっと行ったからか言ってくれない。
- 海軍の飛行場を緊急時使っても良いが一切手助けは無い。陸軍のセンバワンにいたとき海軍のセレタが隣り合わせの飛行場だったが、B29が来ても別々に上がって何の連絡も取り合わない。
- これは勝てないなというのは自分の中ではある。でも口にすることはなかった。