インタビュー記録

1933(昭和8)年 一家でテニアン島に移住

 3歳のときに島におばあちゃんと両親で渡った。南北20キロ、東西10キロの平坦な小島。サイパン島から5キロしか離れていない。浮沈空母と昔は言っていたんです。
 親と移住したころは、緑が多くて、海はエメラルドグリーン、子供にとって天国だった。島全体がサトウキビ畑。街のところに工場があって、列車で輸送する。ほとんど、サトウキビの栽培なんです。砂糖も相当生産できたと聞いています。私たちは、町に学校があって、学校の帰りにはさんご礁をとって遊んで、遅くなると親によく怒られた。親が一生懸命働いていましたが、子供は天国でした。
 ここに移住した家庭は、バナナ、一番根っこが黄色になったら、その瞬間に担いできて、それをつるして、だんだん黄色になってきたとことを食べると上手いんです。うちの周りに植えてあって、雨水をためている。4畳半くらい深さ2メートルのタンクがある。水が貴重。水を溜め込んで、ぼうふらがわく。フナを放していた。ぼうふらを食べてくれるから。牛も2頭、水をためるタンクも2つ持っていた。スコールが毎日くるんだけど、水は貴重で、どこの家庭でも大きなタンクを2つくらい持っている。
 お月さんが出るのは、ほとんど十五夜みたい。赤道に近いから。新聞も読めるんです。天国だった。

 太平洋戦争開戦後半年たたないうちに、アメリカが、潜水艦の攻撃が激しくなってきて、南方にいく日本の船はどんどん沈められた。親父は、いろんなうわさを聞いて、今、引き上げるのか、島に留まるのかを迷った。結局、留まった方が安全との判断だった。留まったはいいが、とにかく物資不足。米はない、塩もない。大きなパンの木、15-6メートルになると、ちょっと実に切れ目をいれると白い液が出てくる。それをふかして食べて、何とか凌いだ。タピオカとか、パパイヤとかも食べた。主食はだんだん厳しくなる。塩不足で東海岸に親父と行き、塩水を汲んで一日中炊き塩を作った。
 島の人たちは、陣地構築に借り出された。島には日本軍の飛行場が4つあったんです。爆音がすごかった。6年生くらいから泊り込みで行ったり、工事現場に行ってもそんな戦力にならないけど、小さなモッコを持って手伝った。
 同時に絶対国防圏という指示ですから、義勇兵、普通の邦人から募った3,500名が、いざ上陸に備えて、いろんなことを協力していった。

1944(昭和19)年2月 初空襲

 あの時は、たいしたことなかった。だんだん回数が増えた。住吉神社から300メートルいったところに、森があって家族が避難した第一次洞窟があった。テニアン島南側カロリナスは日本軍と共に米軍に追い詰められたところで、急に断崖絶壁になる。この辺(南)が絶壁。洞窟がないと、助からない。無数の洞窟でテニアンの人は助かった。私も洞窟で助かった。

1944(昭和19)年6月11日 サイパンとテニアン同時に空襲が始まる

 それまでは、グラマンがきていたけど、たいしたことなかった。でも、これは敵の砲台がどこにあるかを調べるためだったのではと思う。
 11日の飛行機はすごかった。日本軍も黙っていない。バンバン対空砲が撃たれる。洞窟に避難して、街の様子、島全体がいい眺めで見えた。子供ながら11日は怖かった。どこに弾が飛んでくるかわからない。
 ところが12日になると、慣れてきて、外を見ていた。日本軍がすごく反撃していた。反撃した所に米軍が攻撃をして、ほとんど沈黙した。日本の飛行機はほとんどいない。お国のためだと飛行場整備したのに、いやしない。勝負にならない。
 13日、アメリカの機動部隊が島全体を囲っていた。水平線を見ると全部艦船。アメリカはいかに、大量の物資を投入したかと思う。日本軍は殆ど沈んだのとえらい違い。艦船を見たときには、えらいびっくり。抵抗がなくなると、巡洋艦クラスから駆逐艦クラスが全部艦砲射撃。攻撃に慣れてしまって、洞窟の前に出て、海を眺めていた。船の砲身がこっちをむくか、飛行機がこっちに来なければ大丈夫だと分かってきた。大変な、これが戦争かと思った。日本の飛行機も空中戦の訓練を見て、すごいな兵隊さんと思っていたが、いざ米軍が来ると殆ど飛んでいない。物資がないからだと思うけど。
 夜になると、テニアン島の隠れていた洞窟からサイパン島の火砲、照明弾等が見えた。明るくなると艦砲射撃、夜は照明弾。テニアンは43日間、夜昼なく攻撃をしてきた。艦砲射撃はすごかった。
 偵察機が旋回している。5キロ先のサイパン島アギガン岬に砲台を設置(記録では、155ミリ榴弾砲156門)テニアン島に撃ち込む。ドンドン音がしてまもなく着弾。一箇所に何十発と激しかった。一番恐怖を感じた。どこに飛んでくるかわからない。でも、偵察機が上空にきたら気をつけろとのことだった。隠れる場所が限られている。

1944(昭和19)年7月24日 米軍上陸、島内を逃げ惑う

 追い詰められて、43日間の砲爆撃が終わると、上陸してきた。砂浜は南部の西海岸しかないので、日本軍はそこから米軍がくると思っていた。実際は北西海岸だった。
 朝、南西から上陸舟艇がきた。日本軍がまだ残っていた砲で反撃した。朝の6時くらいか、目が覚めた。ところがこれは陽動作戦で、北から上陸してきた。砲台を発見するや、お返しの米軍の攻撃が来た。洞窟で見ていると、びっくりした。子供ながらも、兵隊さんの話を聞いていたので、「上陸してきた、いつ死ぬことになるんだろう」と思った。
 親父が上陸したから逃げようと、第二洞窟に移動した。第二洞窟は今の鎮魂の碑があるちかくにある。民間人も兵隊も追い詰められた地点が一緒ですからね。「死ぬんだね」「死ぬもんだ」とみんな思っていた。ここが死に場所だと思っていた。
 第二洞窟に行くときに、食料をお袋は考えた。持ち運びとしても考えないといけない。お袋は、かつおを茹でて、乾かして、子供が背負った。5-6本持ち歩いた。水は困った。ビンに詰めても限度があるので。この島で生き残るには、水が不可欠だった。鰹節をしゃぶっていれば、何日かもつと思った。なにがあっても本土に帰るんだと思っていた。
 洞窟にこれが最後だと兵隊が集まっている。どうやら最後の突撃だとのことらしい。落ち着かない。銃を空に向かって撃っている兵隊もいる。洞窟の中に入ってきて、「私がここで死んだということを遺された妻子に伝えてくれ」と言ってきた。写真とかを渡してくる。日本の祖国を思う、正直戦争行きたくない兵隊も一杯いたと思うんだよね。でも、突撃前はこんなんだった。
(註:最後の組織的攻撃は8月2日)
 親父が一家を集めて、「死ぬのはいつでも死ねる。アメリカ兵を見てからでも遅くない」みんなどこの家庭でもいつでも死ねるように爆薬を持っていた。親父が爆薬を捨てて、逃げるように家族に伝えた。

 島内の水源地マルポ井戸を目指して島内を移動するが、途中、祖母と生後2ヶ月の弟が衰弱死。
 弾の音は遠いときは、ヒュー。シャッ、シャッと音がすると近くに弾が来ている。米軍は、追い詰められた軍人と民間人がいるとわかっている。サイパンから砲弾も飛んでくる。破片が友人の首に刺さって死んでしまった。私も足に傷を受けた。傷が大きいと、すぐに血がでない。
 喉がからがらで、水が欲しいけど、何故かこのタイミングで雨が降らない。仕方ないからから海水を飲むが、余計に喉が渇く。スピーカーで米軍が水もある、食料もあると洞窟に向かって放送している。100メートル余りの断崖絶壁から荒波打ち寄せる波に飛び降りる人もいるし。月明かりの林の中をマルポに移動中家族とはぐれる。
 夜にならないと行動できない。弾が余っているのか、遊んでいるのか、バリバリ弾を撃ってくる。家族はみんな死んだものだと、1人で行動した。そのうち雨が降って、とてもおいしい水だった。そこで眠り込んだ。明け方に目が覚めて、家族は南に行ったと聞いた。
 日本兵と出会い、鉄兜に米を入れて、炊いてくれた。一口食べ終わったくらいか、米軍の手榴弾が飛んできた。米軍の手榴弾は取っ手が付いていて、投げるとドンとなる。熱い破片が左膝に刺さった。迫撃砲がどんどん飛んできて、追いかけてくる兵隊さんと左右に逃げる。

 暗くなるのを待って、家族がいるかもしれないので米軍の手榴弾が飛んできた場所まで戻った。米軍が掃討作戦を始めていて、洞窟という洞窟を探っていた。
 自分がいた洞窟は、小さな入り口に大きな石が落ちて4人が、閉じ込められた。夜になると、石を外から外してくれる人がいて、助かった。行き場は海しかなくなった。洞窟の石をどけてくれた人が、頭がおかしくなっていた。隠れましょうといっても通じない。半日以上波際の洞窟で隠れていた。銃声がして、夕方に恐る恐る近づくと、武器を持っていない頭がおかしくなった男が撃たれていた。脳みそが飛び出ていた。私は今も生きて、その人が死んでいる。人生の不思議。
 東海岸は食料がなく、テニアン港側へ非常線を3回目で超える。二回目のとき、米兵に遭遇。30メートルくらい撃たれ、右太腿部負傷。食料は米軍の塹壕跡や、ゴミ捨て場に求めた。コンビーフの缶詰が埋まっていた。衣類を手に入れようと米軍兵舎に忍び込んだこともあるが、見つかって何人かは帰ってこなかった。日中の行動は危険なので、サトウキビ畑で静かに隠れている。米兵はサトウキビ畑を焼討ちすることがあって、煙の流れる方向に苦しいけれど逃げる。5,6人のグループで行動。夜の出会いは情報交換になる。日本軍の迎えを信じて生きる。

1945(昭和20年)1月ごろ

 一緒に生活していた敗残兵に投降の要領を教えられ、水杯で別れ、明るくなって自動車道路に、棒に白い布をつけて投降。米兵もジープから降りてきて「カモン、ボーイ」と声がして司令部へ日系二世の米兵が日本語で日本兵の居場所などをしつこく質問を受けた。と、収容所で家族と再会することができた。

(記録的なお話で、私の体験ではないですが)
 1944年6月から北九州に爆撃が始まった。11月まで成都からB-29がきたんですね。成都から爆撃はぎりぎりだったんです。11月24日まで、中国の成都から爆撃、それ以降はマリアナ諸島から爆撃していた。
 サイパン、テニアン、グアムとサイパン187機、グアム188機、テニアンは291機のB-29がいた。テニアンというのは、サイパンの影に隠れますが、飛行機の数、原爆を積んだ飛行機が出た島です。B-29用の滑走路がテニアンに7本あった。
 珊瑚礁があって、浅瀬、上陸したところに砂浜がずっとある。そんなに深くない。海の中歩いてわたってきた。原爆を積んだ船が南に停泊していて、はしけで運んだそうです。

1946(昭和21)年2月 日本に帰国

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