インタビュー記録
1936(昭和11)年3月2日か3日 東京に出て木炭自動車を売る会社に入る
その後、目黒の雅叙園のそばの軍需工場に勤める。 工場の前にはピストン堀口が所属していた日本拳闘倶楽部があった。その軍需工場は閑院宮が作った会社のもので、その関係か兵隊に行かなくてもいいといわれていた。普通の会社ではなかった。すごいスパルタ教育を受けた。 昔、新宿伊勢丹の2階はアイススケート場でよく行った。地元岩手で経験があったので、人が倒れるとその上を飛び越えて走った。
1941(昭和16)年12月1日 召集が来た(第1補充兵役)。徴兵検査は乙種。
1941(昭和16)年12月8日 日米開戦
銀座の街が提灯行列・万歳万歳ですごかった。山手線は乗降客が駅で軍歌を歌って万歳万歳、とにかく凄かった。
1942(昭和17)年4月1日
弘前の輜重兵第57連隊に教育応召、3中隊に配属。6月に2回目か3回目の演習で、軽装で八甲田山に行った。桜が咲いていた。桜は満開で雪もぱらついてきた。だんだん吹雪になって道も分からなくなった。なんとか帰ってきたが、八甲田山は本当に気候が激しい魔の山だった。 初年兵教育は厳しく、腹が減って残飯をあさるほどだった。これは社会に出たときなんでもできるなと思った。
1942(昭和17)年7月6日 第36師団司令部に転属を命じられる
同年7月17日 弘前出発。 同年7月19日 宇品出港。 同年7月22日 朝鮮釜山港上陸 現地の国民学校に2泊ぐらい泊まった後に、列車で満州方向へ向かい奉天についた。 当時、森繁久弥がラジオのアナウンサーをやっていた。 同年7月29日 山西省”ろあん”(さんずいに「路」+安:現山西省長治市)に着き、師団経理部勤務班に配属。 木炭自動車を売る会社にいたとき、車の運転を覚えたので師団経理部の自動車運転手となる。経理部にはトラックが1台あてられていた。 中国で作戦中は、山岳地帯で急な坂がいくつもあった。トヨタや日産、シボレーのトラックは登れなかったが、フォードは登れた。シボレーはエンジンが直列だったので、坂を登ると足(シャフト?)が折れた。フォードはV8エンジンで山岳地帯には強かった。 【※車のメカニズムは全然わかりませんが、戦前シボレーなどのエンジンは直列6気筒、対してフォードはV型8気筒を採用。フォードが採用したV8エンジンはすぐれたもので自動車史に残るものらしいです。】 そうしたトラックは内地の民間から集めたものでトラックの箱の板の部分に「○○運送会社」とか書いてあった。 日本製のトラックは大きく見えたが力がなかった。 内地から慰問団が来た。その中に森光子がいた。新宿に吉本興業の事務所があり、そこに行ったとき名前をちらっと見ていたので記憶があった。慰問団1向をトラックで運んで各地を回った。慰問団が内地に帰った後、森光子から手紙を2回もらった。 中国で作戦を練る時、左官以上の参謀などは経理部に集まって会議をした。そこではその辺の食べ物は出ず、西洋料理・日本料理・お菓子なんかの調理師十人くらいがきて料理を作った。佐々木さんは給仕の係りをやったが、その時は自分たちにも料理を作ってくれた。食糧はたくさんあった。 トラックで中国の道を走っていると、道の両側に大きな太い木がいっぱい生えている。その皮が剥かれていた。中国人は、その皮を乾燥して折って石臼でひいて粉にして、饅頭みたいにして食べていた。食べてみたが木の味だった。 ある天気のいい日、なんか雲みたいなものが来たと思ったらイナゴの大群だった。トウモロコシが一瞬にして棒だけになった。凄いもんだ。そして中国人が「アイヤーアイヤー」と泣いていた。 中国には道路に饅頭やスイカを売る露店が多く出ていた。そこに休みの日に行って「まずい、まずい」と言ってスイカを食べる。そしてまた隣の店で「まずいまずい」と言ってスイカを食べる。ほんとうはおいしいんだけど、こうすることでタダで腹いっぱい食べれた。兵隊はみんなやっていた。 露店にはうどんを売る店もあった。こねてのばして、指と指の間に生地をいれてうどんの形にする。日本のうどんやそばと違って、だしや汁は少なかったがおいしいものだった。 中国人との仲はそんな悪くはないように見えたが、陰には八路軍がいた。 ある時、民間だかわけのわからない捕虜を有刺鉄線で囲んで逃げられないようにした収容所に連れてきた。入れない者は広い原っぱに連れて行った。原っぱには井戸があり、直径1メートル位で小さいけれども深い。どんどん井戸を掘っていった。そこに捕虜を1人ずつ並ばせて、銃剣で着き刺して生き殺し。中には軍刀で首をはねたりして井戸につきおとした。処刑している所には近所の中国人達が大勢集まってきて、饅頭を売る店さえ現れた。 処刑した捕虜は10人や20人ではなく百人くらいいて、それを運ぶのに師団の持つ自動車が総動員された。経理部のトラックも例外ではなく、それで佐々木さんもこの処刑の場面に遭遇した。 【注 いつどこでの出来事かは忘れてしまったそうですが、36師団は1943年度に南部太行山脈(この山脈の西側が山西省・東側が山東省)の重慶・中共軍の根拠地を一掃するための作戦に2回参加していて、1回目の十八春太行作戦(4月20日~5月22日)では、中共軍第18集団軍129師や重慶軍(国民革命軍)第24集団軍などと交戦し、俘虜15900名・帰順兵58000名を得ており、2回目の十八夏太行作戦(7月10日~7月31日)には重慶軍第27軍と交戦し、俘虜4853名を得ているので、この辺の作戦で捕えた捕虜を処刑するのを目撃したのではないかと推測します。】 部隊の移動に伴って太原、徐州、鄭州、南京、上海など各地を移動する。 南京には大きな城門があって夜は閉じられた。 大きい町に行けば必ず慰安所があった。日曜になると集合させられ「1歩前へ出ろ」といわれてコンドームを渡される。中には私物を持ってきている兵隊もいた。明日はどうなるかわからないので上官から勧められる。慰安婦は将校は日本人、下士官は朝鮮人、兵隊は中国人と分かれていた。 36師団は青森・山形・秋田・岩手など東北の人が多かった。東北人は寒さに強いし、我慢強いしあんまりしゃべらないけれども命令はちゃんと聞くので優秀。ところが大阪の兵隊は口ばっかり。 なにかの時に大阪の兵隊と青森の兵隊が揉めることがあった。しかし、津軽弁と大阪弁では喧嘩にならなかった。 岩手と秋田より、岩手と山形の兵隊はウマがあった。 上海は大きな町で広島に似ていると感じた。上海神社に参拝しに行ったり、森永製菓までいこうとして間違えてフランス租界に入ってしまったこともある。今でも上海の道は大体分かる。 船の荷揚げ作業にあたっていたとき誤って海に落ちた。ハンコをなくしてしまったので、中国人にたのんで作ってもらった。【※そのハンコを今でも持っておられる。】
1943(昭和18)年12月28日 上海呉淞港(ウースン:現上海市宝山区)出港
上海を出て、台北に1度寄って、フィリピン、シンガポール、ボルネオに寄った。 インドネシアが1番日本語が通じた。インドネシアのライスカレーは辛くてとても食べれない。 インドネシア人兵補を使っていた。ある時、兵補を使いに出そうとしたら勝手に行ってしまったので「トアン待て―」(トアン:インドネシア語で『tuan』:ご主人様とか旦那という意味)と叫んだところ、「トアンマテー」→「tuan mati」(インドネシア語で『おまえ死ね』という意味)に聞こえたようで、顔が青ざめていた。 パラオに行ったとき、航空母艦とその前に駆逐艦がいた。だがしばらくたっても動かない。よく見ると島だった。パラオの町はサンゴ礁があってきれいだった。 米軍の空襲があるので、普通の貨物船の煙突に赤十字を書いていたが、米軍もわかっていてやられちゃった。 佐々木さんは経理部の自動車運転手だったので車が必要だったが、車は重いから載せられないということで第2梯団に回された。(第1梯団はのちにビアク島で玉砕。)
1944(昭和19)年1月15日 ニューギニア・サルミ上陸
全員が上陸したとき、ちょうどカーチスやロッキードがやってきて船に機銃掃射をしてきた。船は沈んだが、その時に船長が甲板に出てきて手を振りながら一緒に沈んだ。 大分前に上陸していた兵士も大勢いたが、彼らは栄養出張で骨と皮だけ。太ももが片手でつかめた。よく生きてるなあと思った。だが天皇陛下の勅語が読まれると、寝ていた者も直立して背をピシッと張って聞いていた。それにはびっくりした。 日中は60℃くらいになる。そこにスコールが1日2、3回降る。サウナみたいになる。スコ-ルが来ることを予測して、洗濯物を持って立っていたらスコールがそれた。 マラリアになった。最初は熱がすごい。40度になるとご飯が食べれない。アメーバ赤痢などの余病も併発した。あまりの高熱に気が狂って「東条を殺せー!東条を殺せー!」と叫びまわる兵隊もいた。 毎日、予防の注射を打っていたがそのうち医薬品がなくなって、気休めに椰子の汁を注射した。注射をしすぎてだんだん腕の皮膚が厚くなり、針が刺さらなくなった。 麻酔がないのでみんなで患者の足や腕を押えて切り落とすこともあった。体格のいい人は一つの腕を2人で押さえつけて手術した。その人は2、3年前まで生きていた。 夜は真っ暗、トイレに行ったはいいが帰れなくなったこともある。しかたないので朝に帰ってきた。一方、原住民たちは夕方から朝まで踊っていた。最初原住民が男か女かわからなかった。原住民とはだんだん仲良くなったが、隣の村に行くと言葉が違った。奥の方には人食い人種がいたらしいが、それには会わなかった。原住民たちの食事は家の裏の山に行ってパンの実やらマンゴー、パパイヤを採ってその場で食べて家に帰る。それが食事。料理はしなかった。 ニューギニアはとにかくジャングル生活。海は艦砲射撃、空は空襲。落下傘爆弾を空が真っ黒になるくらい落としてきた。その爆弾は人馬殺傷用で、破片が水平に広がる。それで足をやられて亡くなるものが相当いた。 砂浜は車で走れた。ある時車十台くらいで弱った兵隊を後方に運ぼうとした事があった。しかし出発すると同時に空襲にあう。海に逃げたりジャングルに逃げたりちりぢりになって、残ったのは佐々木さんの車だけになった。機銃掃射やら爆弾が降ってきた。目の前に大きな大木が見えたのでそこに逃げ込んだ。その木は屏風みたいに厚い根が張っていて、20人くらいが入れるくらい大きかった。そして奇跡的に助かった。不思議と自分が死ぬとは思わなかった。 空襲で海も陸も危なかったが、ドブ川だけは安全だった。ドブ川は砲弾が着弾しても柔らかいから炸裂しなかった。最初にそれを思いついて飛び込んだら、後々みんなが真似した。 3年半サルミにいてとにかくいろんなものを食べた。最初は持ってきていた食糧があったがなくなってからは食べるために様々なことをした。缶詰倉庫が爆撃でやられて、火がついて雨が降っても火が消えなかった。その燃え残って半ば腐っていたものを食べたり、そのへんの訳の分からない青草を食べた。 サゴ椰子の澱粉も採った。タピオカを食べたが、タピオカにもいろいろ種類があってその中の毒をもった奴を食べて死んだ人もいた。【注 タピオカの原料となるキャッサバには青酸が含まれていて、生で食べると有毒】 ネズミ・カエル・トカゲ・ブタなどが採れると、部隊長のところに持っていき「部隊長殿、今日はネズミのお頭付きであります。」と報告していた。トカゲが採れると海水を汲んできて瓶の中に入れてトカゲの塩辛を作った。1晩漬けて翌朝食べた。バナナから酒を作ることもあった。 飯合がなく鉄帽を使って煮炊した。青草に青虫が入っていることがあったが、軍医が「動物性たんぱくだ」というので一緒に入れて、油がないので編上靴の靴墨を変わりに入れて煮炊きしたら、大変な下痢になった。しかしそれを1週間通して食べたら体が慣れてしまった。 トイレがあって、そこにたまった便にウジがわいていた。それを猪か何かの子豚がおいしそうにパクパク食べていた。その子豚を我々が食べた。 屋根に使っていたトタン板をはがして、波打っているのをたたいて平らにして、底をなんとかして作ってバケツ状にして鍋を作った。それがみんなに感謝されて、戦後復員した後も「お前のおかげで助かった」と手紙が何通もきた。 どうせもう帰れないから死ぬのは怖くなかった。ある時、佐々木さんから3人隣りの人が無くなった。次に2人隣りの人、そして隣の人が順番に亡くなっていき、「佐々木、次はお前の番だぞ」と言われたが、そう言われても平気だった。1晩前まで生きていた者が翌朝になると冷たくなって死んでいた。 ニューギニアでは阿南惟幾に会ったこともある。
1945(昭和20)年8月15日 敗戦
師団司令部にいたのですぐに知った。銃器を地面に置き、「あ~よかった」と思った。 オランダ兵がやってきて日本兵の腕時計とか貴重品を没収した。アメリカ兵はそういうことはしなかった。収容所に入れられるということはなく、みんな適当に自活生活を始めた。 師団長(田上八郎中将)や部隊長(国分繁彦中佐:奈良県出身)ら15・6人がホーランジアに裁判を受けるために連れて行かれた。佐々木さんは国分部隊長の当番兵をしていていつも部隊長と一緒にいた。サルミで分かれるときも同じ部屋に泊まった。その晩に「おい、私は帰れるかわからないからうちの娘を嫁にやってくれ」と部隊長に言われた。戦後日本に帰ってきたがお金が無くて奈良には行けなかった。そのことを今でも申し訳ないと思っている。国分部隊長はすごく良い部隊長だった。 1945(昭和20)年12月1日 陸軍伍長に進級 1946(昭和21)年6月3日 サルミから日本の貨物船に乗って内地へ出発 「あれ、姿が見えねえなあ。昨日までいたのにどうしたんだ」。輸送船の中でいなくなった人が2・3人いた。みんなに聞いてもしらんぷり。いなくなった中に、病気で頭がおかしくなった同期の兵士もいた。
1946(昭和21)年6月17日 名古屋上陸、6月18日 復員
名古屋に上陸すると、将校や上官だった人は袋叩き。将校が1兵卒に土下座して謝っていた。名古屋では殺されなかったが結構殴られていた。