インタビュー記録
1942(昭和17)年 弘前北部第16部隊へ入隊。北支山西省へ
1943(昭和18)年 経理部幹部候補生として満州新京経理学校へ
卒業後原隊復帰。36師団歩兵第222連隊に配属になる。
1943(昭和18)年12月 本部主計少尉としてビアク島へ
同年11月 36師団上海出航、高雄、マニラ、セブ、ハルマヘラ島を経て、同年12月 ビアク島南岸へ投錨。
食料、弾薬の荷揚げと分散に狂奔する。
軍は飛行場の建設を最優先に突貫工事を行う。
兵力補充が出来ぬまま米軍上陸を迎える
1944(昭和19)年2月 兵力補充のため、初年兵を迎えに上海出張を命じられる。
まず師団司令部のあるニューギニア本島サルミに出向いたが2月17日米機動部隊によるトラック島大空襲のため日本側艦船43隻、飛行機270機を失う非常事態下、上海行きは無期延期となり、ビアク島に戻る。
同年4月21日、ビアク支隊として配備につくはずであった32師団、35師団が乗船する「竹船団」8隻のうち1隻がバシー海峡で撃沈、5月さらにセレベス海で3隻撃沈され、計4隻を失う。
ガダルカナルを奪取し破竹の勢いの3万のマッカーサー軍をビアクで迎え撃った戦闘部隊は佐々木さんの所属する36師団のみになった。
同年4月28日
モクメル第一飛行場滑走路が完成した矢先に敵の空爆が始まる
同年5月27日 米軍上陸
早朝米軍の艦砲射撃から水陸両用戦車と上陸用舟艇による上陸が始まる。
敵の砲火爆撃下で夜戦以外にとるべき道なし。
集成大隊180名が連隊本部の一部、「開拓勤務中隊」、船舶部隊などから編成される。彼らは本来戦闘部隊ではなく小銃も持たないものもあり帯剣、手榴弾で武装、中には手製の竹ヤリも。
夜襲のおり負傷。目が見えず動けなくなり拳銃で自決をしようとしたが、大村曹長にとどめられ、野戦病院に運ばれる。
野戦病院といえども建物があるわけでなく敵機に狙われ移動が続く。残置されるもの多数。白い包帯が目標になるのではと生きて気にかかる。食料が底をつく。
他の隊の増渕庄平氏の献身的な介護がなければ命は10日となかっただろう。
同年6月27日
「ビアク支隊は玉砕することなく、極力島に残り現地自活を徹底し、次期攻撃を準備すべし」との命令。
同年7月2日 葛目支隊長自決
ビアク支隊は組織的戦闘が不能となる
やっと歩けるようになり、負傷者と半病人7名の兵員でジャングルに分け入る。飢餓の中での持久彷徨は筆舌につくし難いものであった。
彷徨中被弾し昏睡、島民に発見され捕虜となる
米軍の野戦病院に収容されブリスベンへ。
1946(昭和21)年 シドニーから復員船で浦賀へ上陸、召集解除
佐々木さんからのメッセージ
日本軍は「学ばざる軍隊」であった。
現地を知らない参謀長の命令で生命線である飛行場を奪取され大隊長が命を落とすことになった。
土のないサンゴ礁の島に農民である「開拓勤務中隊」を送り込み屯田兵的自活自給を図ろうとした。