インタビュー記録
1938(昭和13)年9月25日 善通寺の工兵連隊へ召集 3か月の初年兵教育
1939(昭和14)年1月 初年兵教育の助手
1939(昭和14)年4月 独立混成第12旅団へ転属 中国・漢口へ、8月以降鎮江
1940(昭和15)年1月 鎮江にて初年兵教育係、3月末終了
1940(昭和15)年4月 伍長勤務で分隊長、 6月伍長となる
敵前架橋の任務 頭の上をびゅんびゅん弾がとび分隊長で他の兵隊より高いところにいるため恐ろしい。 膝をついてみたり体を斜めにしたりしていた。 要塞を爆破するための決死隊に選ばれる 戦況が硬直しここは工兵にやってもらうしかないと言われると、第1小隊第1分隊長としては工兵の面目にかけやるしかない。 俺と一緒に死んでくれるものはいるかというと5名が手を挙げ、そのあとそろそろと皆手をあげた。 一番かわいがっていた兵隊と能力の高かった兵隊を選び、爆薬をつけて雪の上に整列したが、出発10分前に見張りが敵が下がり始めたようですと報告して待機に。 どうぞ逃げてくれと思っていたらそのまま退却してくれた。
1941(昭和16)年4月 揚州たいけんに移動
1941(昭和16)年6月 広島から交代要員が来て帰国、除隊
1943(昭和18)年6月18日 2回目の召集 工兵55連隊
善通寺へ召集された時、四国全体で4名だけ分隊長工兵が呼ばれていた。 当時工兵分隊長は何より戦死率が高いと言われていて、お互いに顔を見合わせなんと貧乏くじをひいたものよと笑った。 先に召集の1名の伍長と、5名ビルマ行き。3名は戦死した(坂本さん注:昭和19年2月に、昭和20年4月28日1名戦死、1人だけ生還、英軍の重労役で障害を負う)。 同年7月2日 工兵55連隊の補充兵100名ほどで宇品出航 ビルマについてすぐアラカン山脈に入りタンガップまで7日歩く。 到着の朝初年兵2名がマラリアを発症、一人はその日の夜に死んでしまう。 坂本さんも翌日マラリアを発症して入院。 このため連隊本部の下士官要員だったのが、はずされたのが幸運の付きはじめ。 病院の食事は茶色いご飯で臭く、塩汁に2切れのかんぴょうかツル。 40度の熱が8日間続いたが下がったので退院を申し出て食事の良い連絡所に移る。 中隊本部の糧秣係に 点在している小隊に毎日食料を配布するのにビルマ人が漕ぐ船を使った。 私はこのビルマ人を確保する役割で、郡長の所に行き指示書を出してもらい、それを持って各村長を廻り、1週ごと交代に各村から人を出してもらった。 当時は治安が良く一人で村を歩き回ることができた。
1944(昭和19)年6~10月 ミョーボン(Myohaung)の諜報部隊へ
英兵が無線機を持ち2人1組で落下傘降下していた、これを探す仕事。 本職が警察官(警部補)だったのでそういう人間が集められた。 ビルマ人が通報してくれるので村長を巡回して情報を集めた。 このころ1944(昭和19)年2月に生まれた長男がミルクが足りず死んだと、妻から便りが来る。
1944(昭和19)年11月~1945(昭和20)年年3月
師団が第2次アキャブ作戦で英軍の戦車に大きな損害を受け、54師団と入れ替えになって後方のヘンサダに下がった。それに伴いイラワジ河に障害物を作る新しい任務に。 3×3メートルのイカダを河の600mぐらいに渡って並べたが、川底が非常に硬くて錨が効かず大潮の際みな流されてしまった。
1945(昭和20)年3月27日 ビルマ軍が英軍側に
○以降守備の弱いところに、ビルマ軍による襲撃が頻発、この討伐にあたる。 あるときビルマ軍の重機関銃(日本製)を奪取することが出来たが、2名の熱中症の兵隊が出て彼らを運ぶために泣く泣く重機関銃を河に捨てた。 報告すると連隊長は無茶苦茶怒ったが副官がとりなしてくれ事なきを得た。 (この間にインパール作戦、イラワジ会戦などの敗退)
1945(昭和20)年6月初め ペグー山に3万4千人が逃げ込む
1945(昭和20)年7月20日 この3万4千人を逃がすためペンネゴンの英軍司令部の襲撃要員に
○襲撃は先行した徳島の歩兵部隊が成功し実行しなくてよくなるが、この時私は第3小隊の分隊長。 もともと第1小隊第1分隊長だったので、これは降格で面白くなかったが、第3小隊の小隊長は指揮能力が無く、行軍の時担架で自分を担がせるような人間で、守役が必要だからとなった。 この小隊長が道を間違え砲撃を受けてカヤの中に迷い込みシッタン河に出るまで3日。 せっかく河に出たのに再び部落に戻る指示、一日は付き合ったが、「部落で敵の襲撃を受けたら全滅です、自分は河沿いを行きます」と意見して離れると、自分の分隊以外に2個分隊がついてきた。 渡河箇所を探しながら移動。
1945(昭和20)年7月27日 土手の下で休んでいた時砲撃を受ける。
別の分隊がビルマ人の子供と会話、英軍の巡察隊がその子に尋問し、会話した分隊は巡察隊によって全滅した。砲撃が始まるがカヤの中に入って逃れる。 20日~27日までの間に分隊10中4名がはぐれる。うち2名は敗戦前に捕虜に、1名はのちに自力で合流、1名は行方不明のまま。 27日、いよいよ今晩渡河しないと全滅するという事で6名でカヤ束を作り竹でイカダを組み、そこに装備をのせ、靴だけ脱がせ、体温が下がらないよう服は着たままでイカダにつかまりシッタン河に入る。一晩流されたが朝方大きなカーブで対岸に上がることが出来た。 シッタン河では1万人がおぼれたと言われる。 工兵部隊はあらかじめ渡河用に縄をなって持って歩いており、それが幸いした。 上がったものの、まともな食事をしたのは21日が最後で、置いて行ってくれと兵に言われ怒ったが、分隊長が動けず残ることになった他の分隊に2名を託す(のち死亡)。 12日目に刈り取った後のサトウキビ畑に出る、根を噛んで汁を飲む。 徳島の歩兵部隊と合流、行動をともにすることに。 坂本さんが歩兵部隊の本部に行っている間にビルマ人ゲリラの襲撃があり分隊中2名が戦死。一人は耳が聞こえないのに召集されていたが、砲撃が聞こえないのでぼーっと立ったまま撃たれたという。分隊で残ったのは坂本さんと兵長1名に。 食べ物を探しに部落に行って撃たれ兵長が被弾、励ましたが手榴弾で自爆した。 ビルマ人のいない部落でモミの倉庫を見つけ久しぶりに30人で2升の米を得る。 先に通った部隊がすでに食べつくしているためビルマ人の部落に食料を取りに入っても、成果があったのはこの一度だけ。 戦後ビルマの中でシッタン河のこちらの岸の領域だけは対日感情が非常に悪く、慰霊で入ることが出来なかった。 シャンの道に出る 雨季で草が生い茂っている。 道の両側に毎日百人ずつぐらい死体を見る、10日間歩いて千人は見た。 自分の骨の髄まで死臭が染みこむ様に思えた。 小高い所にバナナの葉で出来た患者収容所があるが、奥の方は白骨死体。手前はまだウジが湧いている、そんな所を幾つも見た。
1945(昭和20)年8月23日 敗戦を知る
集められ振武兵団(55師団、混成105旅団など)の斉藤参謀が天皇詔勅を読み上げる。
1945(昭和20)年8月24~27日
モールメンに通じる自動車乗り場まで120㎞を4日間斉藤参謀の先導を命じられた。 4日間食べておらずふらふら、糧秣公布所で2升のコメは渡されたので、あわてて3合を粥に炊き一気にかきこむ。 雨季で道には竹や木が倒れ覆いかぶさっている。 参謀はビルマの馬で移動、この馬に足踏みをさせてはいけない。竹や木を斧で切り払いながら先導、本来切ったら補助の兵がのけてくれる役割分担だが、彼も食べておらずふらふら、仕方なく切ってはのけ切ってはのけながら進む。 初日はふらふらだったが、米が食べれるので次第に元気になり、26日はとても元気に。27日に疲れが出てきたが、27日予定より早くつけた。マルタバン街道の自動車乗り場である。 「近来まれにみる下士官じゃ」と参謀に褒められ箱を渡された。帰って開けてみると真っ白なタバコが10箱で、兵は米もなくふらふらなのに参謀はこんな白いタバコをまだ吸っているのかと腹が立って腹がっ立って、箱を投げ捨てようかと思ったが、兵隊に配ると1年半ぶりのタバコに兵隊達は喜んだ。 1945(昭和20)年8月29日 無理をしたのでマラリアが再発 道路で先へ行ってくれと1時間ほど寝ていたら隊長の当番兵が迎えに来てくれた 同年9月2日 モールメンの捕虜収容所へ
1946(昭和21)年7月 ミンガラドン収容所へ移動
リバティー船が7隻来て、6隻は復員用だったが、工兵ばかり3千人ほどが集められ、残る1隻でラングーンへ移動となった。 帰国する兵隊が並んでいる前を通って移送の船に乗った惨めさは忘れられない。 ミンガラドン収容所では英軍の将校宿舎を建てるための木材運びで主として工兵作業。 1946(昭和21)年11月 木材運搬中の事故で腰椎を損傷し入院。第3腰椎、第4腰椎、2節の軟骨がひしゃげる。回復不能で障害者となる。 1947(昭和22)年2月半ば 部隊が帰国すると聞き、置いて行かれてはいけないので自己退院する。英国の米支給は日本軍の4割(1合6勺)、昼食はなく水を飲んで我慢した。
以下証言テープに加え、坂本さんが加筆されました
1946(昭和21)年7月ラングーン郊外のミンガラドン収容所に入れられた。米は日本軍は1日4合であるが、英軍は9オンス、たった1合6勺で、日本軍支給の4割であった。工兵は土木作業が主であったが、重材料運びをやらされ肩の皮がむけた事もあった。 1946(昭和21)年10月8日、英国将校宿舎建設用の外壁と思われる木材製品を250kgと思われるのを4名で運べと言うので、飯を昼はないから食ってないので6人で運ぶと言って口論になったが言葉が通じず、やむなく4人で担ぐ事にした。左2人、右2人が位置に着き担いだが、午後3時頃で空腹、足がふらふらで、左の前端を体の弱に担がせ、私は荷の中央より6割担いだ。前端を担いでいた兵が10歩歩いたが転倒した。そのはずみで荷が30㎝ほど下がり、私は荷は落とさなかったが大きな音がして腰骨が折れたと思った。激痛を感じた。 翌日より作業休みで、キャンプで寝ていたが、11月となり兵站病院へ入院した。 英軍の病院でレントゲンを撮って貰ったが痛い腰でなく異常が無い背骨を撮ってダマシてくれた。重労働をさせた事を隠すための手段である。 英軍は自動車事故で日本捕虜を死傷者数10名を出しているのを口止めして、隠しているのである。 英軍は老獪、陰険、嘘つきである。鉄道連隊の兵120名を裁判するから待てとイラワジ河の中洲へ入れ干満日に2回ある所で、すね迄水に浸からし、干潮には毒のカニを食し、赤痢で殺してしまった、裁判をせずに。食糧支給があったかどうか疑う。 1947(昭和22)年3月20日 広島に復員。 腰痛が強く仕事への復帰が難しいため6月4日付けで警察を依願免官、地方事務官の辞令が来る。