インタビュー記録
1944(昭和19)年3月
満鉄看護婦養成所の募集に応募して哈爾濱(ハルピン)へ。
卒業して従軍看護婦になりたかった。
1945(昭和20)年8月
看護婦養成所を半年繰り上げ卒業、病院に勤務して赤紙を待っていたら終戦となった。
同年9月 ソ連軍による病院の強制接収
3日ぐらいの間に入院患者を全部出し、職員も全部出て行く、設備は全部引き渡す命令。
患者は自宅に帰れる者は自宅に帰し、自力で動ける者は日本人難民収容所へ移した。重症患者は安楽死するよう病院から指示が出された。自身が安楽死に参加した。
一人は重症の結核の同期の看護婦、意識が朦朧としている、別な病院で看護婦をしていた妹を連れてきて因果を言い含め、妹の手でモルヒネを注射。関東軍陸軍少尉の新妻がやはり重症結核で入院しており朦朧としていた。少尉が花嫁衣装を持ってきて「自分はこれが最後で妻のところには来れない、部隊と行動を共にする。妻の最後はお願いしたい、最後はこの花嫁衣装で見送って欲しい」と挙手をした。間もなくモルヒネを打った。二人とも布団にくるみ防空壕に入れ、まだうめき声が聞こえるが土をかけた。間もなく息も心臓も止まった。
寮(生徒と看護婦100名ぐらい)に戻ると母親代わりの舎監が自分だけ逃げていなくなっていた。若い看護婦だけが残された。部屋は目張りが壊され中に入って坂本さんたちの私物を運び出していた。寮の廻りは現地の中国人、朝鮮人がぐるっと取り囲んでいた。何時連れ出されて殺されても仕方ない状況だった。
ソ連軍侵攻時、青酸カリを病院から渡されていた。それを飲むときだと思ったが、院長室から「ハルピン郊外の関東軍の陸軍病院に移るよう」命令が来た。一緒に帰れるかと淡い希望を持ったが、着いたら明日朝には出て行くようにと言われた。
医局の先生にお世話になる者、身よりのある者、日本人難民会収容所に身を隠す者。坂本さんは副院長(外科部長)の家に1ヶ月身を寄せた。若い女性がいるのが分からないよう窓から頭が出ないよう家の中もいざって移動していたが、分かって仕舞い、明日ソ連人が来ると副院長と親しい中国人青年が教えてくれた。
ソ連人の強姦、輪姦は日常で、そういう患者も毎日の様に見たし、先輩では梅毒を移され脳梅毒で亡くなって帰れなかった者もいた。
同年10月 日本人会本部診療所へ
副院長が責任者だった日本人会本部診療所の宿舎に移り、ここで勤務に。国際赤十字社の建物も兼ねていたので、その中にはソ連人も中国人も入って来なかった。
難民収容所はコンクリートの上に男女構わずごろ寝、1人畳1畳分も無かった。市場には敗戦翌日から品物が溢れていたが、開拓団などお金が無い人は葉っぱのスープや水にコーリャンや粟が少し浮いたお粥、栄養失調になる。発疹チフスが流行し、毎日死体が運び出される。
雇われた中国人がやるが、ロバのひく車に放り込まれた遺体は全部裸、衣服を剥がし必要なものは自分が貰う、いらないものは市場で売っていた。同期の友人が発疹チフスで難民収容所の病院で寝たきりになり見舞にいくとうすぼんやりとした顔で「シラミ取ってもいいよ」と言った。服の縫い目から耳の後ろ、耳の中、頭とびっしりいる。シラミは人が死にそうになると分かって生きている人に移っていく。そういうシラミの移動を何度も見た。
1946(昭和21)年4月 共産党の野戦病院に
日本人会難民会本部に共産党軍の幹部が来て全員が集められ、「医師、看護婦を出来るだけ多く出して欲しい」という協力要請が来た。要請と言っても命令。日本人会本部が協議して、第1回の名簿に自分の名前があった。足りない数は難民収容所に紛れている医師・看護婦を捜し出し、100名近くを集めた。阿城の学校に集められ第4野戦軍に。
国民党軍に入った地域の医師、看護婦もいた。後日捕虜の中に日本人の医師・看護婦がいた。
同年9月 内戦が拡大
1946(昭和21)年~1949(昭和24)年 四平市、山海関、天津市と行軍
行軍、行軍。国民党軍を支持する米軍の飛行機が来るので、夜歩く。8~12時間の駆け足、早足、歩くをミックスした感じ。着いたところで患者の手当をして後方に送り、また歩くの繰り返し。お粗末な軍服に、せんべい布団に荷物を入れて背負い、琺瑯のコップをぶら下げて、極簡単な救急カバンを持ち歩く。靴は布靴、底も布。ぼろ切れをのりで貼り付けて1センチぐらいの厚さにし針で刺したのが底(兵隊も)、水に入るとすぐに駄目になる。裸足の兵隊も一杯いた。
農村の家を半ば強制的に追い出し病院にする。オンドル(中を煙を通して暖める)に4人ぐらい、患者が多いときは床にわらをしいて病室にする。食糧は最初はコーリャン、粟、トウモロコシのお粥、ニラや白菜のスープ。患者がいるのでまだ食事はマシだった。使った後の家を綺麗にして、遠くから水を汲んでくる、お茶碗など壊した時はお金を払う、そういう規律は大変厳しくやっていた。
日中行軍した時に米軍の機銃掃射を受けた、平原で隠れるところはない。3mぐらい先の炊事班班長が死んだ。
1949(昭和24)年~1951(昭和26)年 黄河を越え武漢
黄河を渡る頃国民党軍はかなり敗退をしていた。黄河を舟で移動する事になり、病院の百人や機材を乗せる舟はあったがエンジンがない。3昼夜交代で人力で舟を引っ張る。国民党軍は線路を剥がして逃げてたいが、貨車が止まっており、中に国民党軍の負傷兵が逃げるときに味方に爆破されて何十人も死体になって散乱いていた。
畦道を歩いていると、いかにも日本人らしい親子がいて、日本軍人の未亡人で地主の妾になっていた。その後土地革命が行われ、地主はどんな人かに関係なく、どんどん群衆の前で後ろ手に縛られ銃殺された。縛っている手が膨れても緩めてやらない。いっぱい見た。彼女の条件が揃えば殺されただろうと思っている。
中国人の女の子が座り込んでこれ以上歩かないと座り込んだ。中国人の男の子はならお前はそこにいろという感じ。当時婦長でそうは行かないので、彼女の荷物をしょって40分ぐらい遅れて連れて歩いた。
馬車に乗って移動出来るようになってくる。ボロボロの馬車だが布団をひいて乗ると中国は星が綺麗。お父ちゃんお母ちゃんどうしてるかな、お父さんお母さん私はここに生きているよと心で叫ぶ。皆ぼろぼろ泣いている。でも日本人しかいないが誰も帰りたいとか何時帰れるかなという事は口に出してない。何時帰れるかとか何時までこういう事が続くかとかの話しは当時いっさい無かった。暗黙のうちに中国人に悪いことをしたんだという負い目があって聞けない、抵抗も出来ない。
野戦病院は医者が足りない、特に外科医は足りない。内科や小児科医が俄か仕事をした。20歳の時医師助手の命令を受けた。出来ないと断ったが断りきれずなると、やるのは医者と同じ仕事。診断はする、傷の手当てはする、処方箋は書く、必死になって勉強した。質問攻めにしてカルテを整理して教材にして仕事をした。レントゲンはない、血圧計もない、血液検査は出来ない、ガーゼは夜中に寝る時間を割いて川に行って洗って釜で消毒して再生。農村には電気がなく布きれの灯心で灯りにする。手術もその灯りでやる。移動は担架なので仮に縫ってあっても振動で傷が開き出血多量になって死ぬ者が多い。破傷風、ガス壊疽は見殺し。
日本人は最大限の努力と工夫で仕事に当たった。兵隊は小作農や貧農、口減らしのために軍に入ってくる。15~16歳から宣誓だけすれば入れる。一人でも助けて親元に帰してやりたいという気持ちがあった。便秘の患者は多く、浣腸機もないので、手に油を塗って便を掻き出すことも日常。輸血をすれば助かる男の子がいたが血液型を判定する試薬が無い。自分の血液と彼の血液を混ぜたら凝固しない、上のひとに相談したらどうせ何もしなければ死ぬんだからとOKが出たので自分の血液を輸血したら患者は助かった。自分の血液の輸血は全4回行った。
1951(昭和26)年~1953(昭和28)年 玉林市、南寧市
朝鮮戦争に志願で行った事を威張っていた特別待遇をしろという患者がいた。初日に痛み止めをくれと言われた。当時の痛み止めは阿片剤。次の日もくれと言われたが、騙されたことに気付いていたので出さなかった。
「俺が死んでもいいと思ってるんだろう、それはお前が日本のスパイだからだ」と言われた。宿舎に夜中にやってきてドアをどんどん叩く、薬を出さずマッサージをやって1時間ぐらいで寝た。それが1週間ぐらい続いて体力的に参った。涙をこぼしているのをみた他の患者から病院内の共産党の集会で彼への批判が出て担当を変わることになった。
1953(昭和28)年~1957(昭和32)年 北京郊外、小児科勤務
2年ほど小児科の先生にみっちり教えを受ける。
時間の余裕があるので予防医学を始めた。日本人も中国人も余計な仕事を始めてという反応だったが次第に理解が広がった。一人一人の子供の健康手帳を作った(保育診療室予防医学健康手帳)、身長体重、献立、栄養、既往症、家族歴など、当時の中国では始めて。衛生部門の大会で最優秀医療従事者に表彰された。
痙攣で運ばれる子供が多かった、栄養失調でカルシウム不足。当時皮膚切開をして静脈注射する時代。
1957(昭和32)年~1958(昭和33)年
太源市、元日本鉄路病院勤務。
1958(昭和33)年4月 舞鶴に復員
21~23、27~28年の帰国組がいた。自分が最後の帰国の最初の船。最後に撫順から帰ってきた戦犯も同じ船だった。普通のおじさんに見えた。33年に帰ってきたのは4艘、千人ぐらい?
「日本の友人の皆さん、本当にご苦労さまでした。沢山の中国負傷兵の命を救ってくれました。皆さんの中国人民に対する熱い友情と大きな貢献は決して忘れる事はないでしょう。私は中国政府と中国人民を代表して感謝申し上げたい。本当にご苦労さまでした。本当にありがとう。・・・」という言葉を頂いた。
強制的に抑留されたが、その後非人間的な扱いを受ける事はなかった。国際友人という言葉を使っていた。あなた達も日本軍国主義の犠牲者だという言葉を使っていた。抑留された月から帰るまで給料は貰い中国人より多かった。退職金も貰った。中国人としては大変な金額だった。
家族や厚生省、日本赤十字社の人が出迎えた。涙、涙だった。家族と手紙を出せるようになったのは帰国の2年ぐらい前。
どうしてそこまでやるんだと中国人も言っていたが、目の前の患者をいかに助けるか、敵も味方もない、それだけ。私の中に過去の日本人が犯した罪、日本人の立場で出来る罪滅ぼしをしなければいけないという気持ちは一貫してあった。
同時にこの期間にたくさんの医師、看護士、レントゲン技師、薬剤師が養成され全国に散らばって現在の中国の医療体制がある。大きな貢献だと思う。鉄道関係者、パイロットなども養成をした。こういう貢献があった事は現在の中国人に知って欲しい。
〈質問に答えて〉
共産党の幹部が派遣されて来た。最初に覚えているのは「あなたは何故ここにいるんですか」と問われたこと、それを考えると侵略しかない。日本人がどんな事をしたかという事を具体例で示した。実際に被害にあった人たちが来て話しもした。信じざるを得ない話しだった。それでいてあなたは日本人だからと責められる事はなかった。
同時に自分の病院の事を思い浮かべて中国人の優秀な医師の冷遇や思い当たる事があった。