インタビュー記録
1942(昭和17)年12月1日 現役
同月 独立混成第3旅団独立歩兵第6大隊第6中隊編入 下関→釜山→奉天→北京→太源→じゅん県(旅団司令部)→トラックに乗り換え繁峙(はんじ)→山奥 初年兵教育、体格が良いので大隊砲 すぐに引っぱたかれるのでパンダみたいな顔をしていた、革のスリッパや帯革もフライパンを叩いての各班周り。目をかけてくれる人がいると床の中に大福が入っている、食べるのに音がしない。涙を流しながら食べていた。帰りたかった。 スパイの様な敵の捕虜を目隠しして半身裸にして木に縛って刺突訓練、皆言わないけど殆どやっているのでは。
1943(昭和18)年4月 大行作戦
同年9月 冀西作戦 同年12月1日 陸軍上等兵 一選抜の上等兵、体格も良かったし努力もした 8時に消灯ラッパが鳴った後も10時頃まで教えて貰った事はその日のうちに消化する。 起床になるなと思うとトイレに行って準備する、胸に雑巾を入れておく。 顔も洗わず水で濡らして走りながらタオルで拭く、歯磨きは初年兵の頃はしなかった。 1944(昭和19)年2月 山西省じゅん県原平鎮に移駐。同地区警備。 1944(昭和19)年3月~1945(昭和20)年3月 砲兵兼務のまま、中隊長恩田中尉の当番兵として勤務 1944(昭和19)年4月 西北河南作戦に参加。 同8月 第4中隊に編入。山西省繁峙付近の警備。 同秋 管内粛正討伐に参加。 戦争は悲惨。山賊と同じ。女を犯す、食糧を取ってくる、お金を盗んでくる。もの凄いんだから、山賊と同じ、昔中国にいた兵隊は殆どそう。阿片を見つけたらもの凄く良い金になった。マッチ箱ひとつぐらい持っていくと給料1年分を越えるぐらいもの凄い良いお金になったているのを見た。自分は女は怖いから買わなかったが、融通効かないから恨まれていたかもしれない。でもその方があとで嫌な思いをするより良い。 家の向かいの中国人の子供を可愛がっていたので、休みになると腰巾着みたいに「ち~とん、ち~とん」と言って付いてきた。お母さんが餃子を持ってきてくれる。中国人も人を見ている。 中国は貧富の差が激しく、作戦で奥地に行くと殆どよいものを食べていない。じゃがいもが良い方だが、共産軍に取られ日本軍に取られ、日本にあんなことがあったらどうだろうか。せつなかったと思う。 中国人は皆逃げている、攻めていくと誰もいない。ニワトリを2~30羽飼っているのを皆食べてしまう。きゅうりは未だ花が咲かないのを取って食べてしまう。総なめしたみたいになる、日本軍が通った後は。ブタは殺す、解体は何回もした。中国はよく講和条約を結んだと思う。可哀想な事したんですよ。女は犯す、ニワトリ、野菜、西瓜畑は全部食べてしまう、足で蹴って真っ赤なとこだけ食べてします。残っているのは年寄りだけ、女は逃げ遅れたら強姦されるからね、それ専門の人も兵隊にいたからね。避妊具も渡されるんだからね、俺は使わないから俺にくれやって言われて上の人に皆取られたけどね。奥に行くとまだまだ日本人を恨んでいる人はいるんじゃないですか。 慰安婦は10人ぐらいで出張してくる、上層部の人だけ、初年兵とか行かれないところなんです。まだ中に入っているのに並んでこっちで準備している。戦争はしたくないし、させたくないし、場所も貸したくない。 作戦に出ると数ヶ月、帰ってきても消毒液の中に入れられて1週間ぐらいで出て行かないといけない。寒いときは零下40度ぐらいになる。黄塵期になるとマスクかけてもタオル当ててもばふばふ、兵舎に戻ったら全部着替えるがひどい、太陽がお月様みたい。 肥沃な土地で何でも出来る。山の中は別、じゃがいもぐらい、煮て貰ってというか煮させてだが美味かった。人参畑は生の人参を取って食べ、顔を出す馬にもやる。 作戦は共産党の集結地に対する殲滅作戦。1分間に6発、3分間撃つと歩兵が出て行くので撃ち方止め。
同年11月 独立山砲兵第12中隊指揮班要員として派遣
中隊長も可愛がってくれていたので班長も大切にしてくれたので楽になった。 山砲は後ろだし歩兵が周りに付いてくれる。 お守りをなくしたが、死ぬときは死ぬ、死なないときは死なない。右隣にいた人とその後ろ2名が死んだが小さな怪我だけだった。 体格が良いので砲身を担ぐ役で、山の中は馬を使えないので2名で担ぐ。
1945(昭和20)年4月 曲沃着。第114師団砲兵隊転属、第2中隊に編入
同年4月~7月 発疹チフスにより、原平鎮(げんぺいちん)陸軍病院に入院 同年7月 中隊復帰、曲沃付近の警備。 同年8月18日 復員下令。武装解除は無いまま。 同年11月頃より 恩田中隊長から山西省に残留するよう説得される。 「俺も残るから残らないか」と言われ「私帰ります」と言ったが「そう言わないで付き合いして残れ、長くとは言わない、1~2年で良いから」という約束で残った。今なら承知しないで帰るだろうが、昔の義理人情で馬鹿だから。 残ったのは中隊中10名ぐらい、さらに居留民と一緒に3~4人が引き揚げた。志願した人もいたが、上官の目にとまった者が多かった。 私たちが残らないと居留民や、年齢の高い召集兵や補充兵を閻錫山が返さなくなった。実際に一時ストップしたが、私たちが残ったら円滑に帰るようになった。知らないうちに准尉達も帰った。 ※当時、北支山西省の実質的な統治者であった閻錫山は、中共軍との全面的な戦闘に備え、旧日本軍の第一軍(司令官澄田れい四郎陸軍中将)と日本人居留民の活用を考え第一軍の幹部と元山西省の政府顧問等に日本軍と日本人技術者の残留を要請していた。 要請を受けた第一軍の幹部等は、大本営や支那派遣軍総司令部では、速やかに復員帰国するように命令しているのを承知の上で残留を決定し下部に命令しました。 残留の理由として ①閻錫山に協力することによって、当時数十万と言われた第一軍主力と日本人居留民を速やかに復員帰国させる。 ②閻錫山に協力することによって、山西省の膨大な資源(石炭等)と工業施設を確保し、併せて敗戦の祖国日本の復興にも役立てる。 ③戦犯として拘留されていた、澄田第一軍司令官以下の将兵を速やかに釈放させる。 閻錫山は帰国復員を阻止すべく鉄道を破壊し、それにより山西省からの帰国が遅れたりもしたそうです。 これらの理由から齋藤さんは、断れず残留することになったそうです。
残留後の経緯
恩田さんと4名で部屋を借り自炊していた 1946(昭和21)年3月 暫編第10総隊情報科(山西軍の組織)に在籍 元第一軍参謀、山西軍の総教官、岩田清一の副官として勤務 山西軍の下士官学校、士官学校、砲兵学校の教官。 副官は実質鞄持ち。岩田さんからお金を貰い自転車を2台購入、士官学校、下士官学校、教官隊の司令部と毎日廻る。司令部は情報関係(共産軍の情報収集のことか)、教官のスケジュール管理。兵舎ではなく民家を借りて住んでいた。麺や餃子が美味しい。副官は小間使いだが一緒にいると美味しいものも食べられる。教育は完全に日本と同じ教科書、銃剣術まで教えた。 軍服は中国のものが支給され青天白日旗がついていた。自分で中国の名前も付けた。 日本兵から武装解除した武器を山西軍は使いこなせないので、その使い方を教える。 司令部には今村参謀が中心だが、中国人も沢山いた。皆日本語が上手。 太源に居た時、2名の日本人が処刑された。閻錫山は許しても農民が許さず戦犯となった。一人はすごく短気で捕虜をすぐ軍刀で切ってしまう。後始末と遺骨を取りに行った。 一緒に暮らしていた1名が偉い人が拳銃の手入れ中に弾が入っているのを忘れて撃ってしまい軍医に運んで手術したが腸が20何カ所穴が空いて死んだ。
1947(昭和22)年5月
ゆう次(太原南方)における山西軍の作戦指導に出勤。総教官岩田清一の副官として参加。 同年6月 太原において司令部勤務に戻る。 同年12月 今村総隊長に帰国願書を提出。 北京、上海経由で日本と手紙の遣り取りが可能になると家から1週間ごとぐらいに「帰ってこい」と手紙が来るようになった。恩田さんに先に帰るか?と言われ、最初から1~2年ぐらいの約束だったのだから帰ることになった。太源で背広を作り、軍服では帰ってこなかった。インフレが酷かったので死人が出るほど、背広が3千万円。中国から給料が出ていたが高いか低いかよく分からない。すぐに銀貨と交換していた。 本部にいたからあそこが全滅した、ここが全滅したと状況が分かる。恵まれていた。奥村さん(映画・蟻の兵隊主人公)は分からなかったんだと思う。
1948(昭和23)年2月
太原西方東村鎮に共産軍の攻撃強まり作戦指導に参加。その後再度司令部勤務。 同年4月 帰国願書が受理され強制抑留を解かれ帰国の途につく。 残留者の中では一番早い帰国 同年6月2日 長崎県佐世保港に到着、復員。 厚生省には2回行ったが、好きで残ったという資料になっていて駄目だった。 恩田さんとは死ぬまで文通したが、証明を頼んだら嫌だと言われた。命令ではなかったのかもしれない。自分達だけは知っていて良いあんばいに騙されたのかもしれない。相良さん(暫編第10総隊参謀長、独立混成第3旅団独立歩兵第9大隊大隊長、戦犯になり38年帰国)は証明をしてくれた。彼は本当に命令だったのだろう。 体調の悪いときは戦争の夢を見る。逃げている夢ばかり。