インタビュー記録
1941(昭和16)年 現役入隊
南支に派遣され約3ヶ月を過ごす。 その後日本軍の南部仏印進駐に合わせ、サイゴンに進駐するがプノンペンで罹病。台湾経由で内地に帰国。東京の病院から帰郷療養を命じられ、1年間療養生活を送る。
1944(昭和19)年6月末 召集、 7月 硫黄島到着
到着後3ヶ月位で米軍の爆撃と、海上よりの艦砲射撃が始まった。 兵隊の仕事は土方仕事。到着後はひたすら壕掘り。その他は船舶からの荷揚げ作業、飛行場の爆撃穴埋め等を行った。 他所の部隊の壕掘りも手伝った。私は観測兵だったので余りやる事がなかった。こういう場で活躍するのは工兵だ。 自分達は背負子を作った。午前中25回、午後15回、壕の外に出て背負子で運んだ土を捨てる。それが終われば自分の部隊に帰隊を許されたが、自分の部隊でもやる事は壕掘りだった。 部隊で兵器の試射はやったことがない。他の部隊で墳進砲(ロケット砲)の試射をやっていたようだが自分の部隊では無かった。 3つめの飛行場を島の北に作るというので、皆で参加した。もっこで土を運んだが、もっこが足りなくなると、兵が横一列に並んで(バケツリレー式に)土を運んだ。しかし、米軍上陸までにこの飛行場は完成しなかった。 船の荷揚げ中には米軍のP-38が超低空から地上攻撃仕掛けてきた。あまりに低空からの侵攻だったので警報も出なかった。 夜間、米軍の夜間攻撃機が1時間ごとに1機づつ来襲し、我々を眠らせないようにした。 米軍爆撃機は正確に一日3回、飛行場の爆撃にやって来た。B-24、B-29による30機くらいの編隊だった。すぐ日本側が爆撃穴を埋めるので、米側は時限爆弾を混ぜて投下した。それによる犠牲も出た。 米重爆隊は高度1万メートルくらいの高高度から来襲した。大きな機体がすごく小さく見えた。銀色の機体がキラキラ光ることにより識別できる程度だった。米軍の爆撃照準機が優れていたのか、そんな高度からも正確に飛行場を爆撃した。このような高高度では日 本軍の高射砲は届かない。迎撃機はタ弾(※爆撃機編隊の上空に占位した迎撃機から投下され、編隊の中で爆発する小型爆弾)を使用していた。 海上からの艦砲射撃は7月4日の米独立記念日に合わせてか、毎月4日に砲撃があった。
1945(昭和20)年2月16日 米軍攻略部隊が来襲築
海の面が見えなくなるくらいの艦隊が集結した。水平線が見えないほどだった。
米艦による掃海作業中に、日本海軍側砲台が米掃海艇を砲撃した。その為日本側の砲台位置が米に発見され、ひどい反撃にあった。
1945(昭和20)年2月19日 米軍上陸開始
海岸の位置確定の為、日本軍は事前に浜辺に丸太を立て、区画割をした。それぞれの区画に号数を振り当てた。我々観測兵はそれを見て『○○号海岸に敵○名』などと報告する。
米軍は一日中砲撃してきたが、どういう訳か昼飯時になるとピタっと止んだ。
夜間には米艦から照明弾が上がり、砲撃を続けてきた。
米軍の大型艦艇の影から小型の上陸用舟艇がどっとやって来た。
日本軍は上陸時に煙幕を張るが、米軍はそれをしない。上陸後しばらくしてから煙幕を張り始めたが、薄い煙幕で、それすらすぐに止めてしまった。上陸後の米兵は砂浜に足を取られて動きが鈍かった。
観測兵の私は『OX海岸にOO名上陸』と報告。その報告を基に砲兵指揮官が砲撃命令。砂浜に着弾すると凄い砂柱が上がった。戦闘開始から3日くらいはこちらも威勢良く反撃した。 海岸手前に森林地帯があり、米軍の進撃の邪魔になっていた。そこに日本軍の陣地が有ると思ったのか、米軍は空母から30機程度の航空機を飛ばしてその森林を攻撃した。彼らはまず機銃を撃ってアタリを付け、その後ロケット弾を発射し、邪魔な木々を撃ち倒した。巨木が端から端へと並んで1本づつ、根元からひっくり返るように抜けていた。その森林は綺麗に無くなってしまった。
1945(昭和20)年3月初旬
米軍はその後も続々と上陸してきた。我々の部隊の周りには3月初旬に米軍が侵攻してきた。我々にも戦闘命令が来て、銃を持って壕の外に出た。 白兵戦を谷を挟んで行った。こちらは(ボルトアクションの)三八式歩兵銃だが、相手は軽機関銃を豊富に持っていた。 ふと気が付くと左隣の戦友が射撃していない。『お前も撃て』と言おうとしたら、その兵士は頭から血を流して既に戦死していた。それで後の丘を見たら、敵の狙撃兵が回り込んでいた。小隊長に『後ろに敵がいます』と叫ぶと、小隊長はその言葉と同時にパッと手前の岩に移動した。次の瞬間、今まで小隊長がいた岩に狙撃兵の弾がビシっと当たった。小隊長は『敵ながら腕が良い』と言った。 投球術に優れているのか、米軍の投げる手榴弾はこちらに届くが、我々の投げたそれは上手く米軍陣地に届かなかった。 米軍は偽装退却をよく行った。こちらが調子に乗って攻め入り過ぎると、敵の猛砲撃に囲まれ壕に帰れなくなる。米軍は銃を捨てて退却した。我々はそれを拾って再利用しよう としたが、一部の部品が抜いてあり、利用できなかった。敵もよく考えるものだ。 戦後の遺骨収集の際、錆びたこの米軍の銃を拾った。
南地区の残兵約500名は海岸線を迂回して北地区へ向かう事になった
米軍に発見されないように昼は壕に入って寝て、夜、闇に紛れて移動した。 壕内にいる時に米兵に発見され、壕に手榴弾や発煙筒を投げ込まれた。それが爆発しない内に壕外に投げ捨てる、なんて事が仕事になっていた。 とある日、ある小隊長が『俺に続け!』と言い、部下を何名か引き連れて壕から出て行った。翌日、中隊長の点呼の下に集合したら、よそから来た兵士が抜き身の将校軍刀を持っていた。何処から軍刀を持ってきたのかと尋ねると『そこの丘の下で20名程度の兵士が死んでいる。そこで拾った』と言った。それを聞き『あぁ小隊長は戦死したのだ』と思った。その後、私はその丘の下に行った。兵士たちの死体が多数転がっていたが小隊長の死体が無い。よく探すと上半身を吹き飛ばされた遺体が横たわっていた。将校用の革脚袢を着用していたので、それが小隊長だと判った。 その後も移動を続けると、闇夜に赤い灯火が見えた。遂に栗林壕に到着したと思ったが、それは敵の戦車隊のライトだった。彼らに発見された私はそこから急いで逃げたが、この間、防毒面嚢と間違えて食料を入れた雑嚢を捨ててしまった。(しかし防毒面を捨てずにいた事が後に私の命を救うことになった) そのうち崖に追い詰められてしまった。私は銃の台尻で崖を少しづつ削り、足場を作ってわずかづつ崖を降りた。その内、敵戦車は引き上げたが、崖の途中で私はどうする事も出来ず、『よし、ここで自決しよう』と決意した。銃を崖の下に捨て、飛び降りた。まるで地面に吸い込まれていく気分だった。しかし崖の下に波打ち際の柔らかい砂が堆積しており、そこに落ちた為、私は助かった。 その後の移動中に拳銃で自決した下士官の遺体を発見した。その遺体に横には誰かがお供えしたのか缶詰が1個置いてあった。私はそれを頂戴し、拳銃も拝借した。崖で銃を捨ててから武器も持っていなかったのだ。 途中、米軍が残していった食料などを食べながら彷徨っていると、元々自分がいた壕に戻って来てしまった。その壕に居れば所属部隊の同僚達が戻ってくると思ったが、誰一人戻ってこなかった。
ここから私の長い敗残兵生活が始まった
ある日、壕へ米軍の火炎放射攻撃があった。壕内の小銃弾箱に火が付き、銃弾が四方へはぜた。壕内は凄まじい火炎と煙に覆われたが、私は防毒面を持っていたのでそれを着用し、壕の排煙穴から脱出し、助かる事が出来た。 (戦後の遺骨収集でこの壕を発見した際、私が脱出した排煙穴の途中で息絶えた人の遺骨を見つけた。私の後ろについて脱出しようとしたが、煙に巻かれて果たせなかったのだろう) 排煙穴から脱出した後、すぐ横にある分隊壕に入ったが、そこは死体だらけだった。しかし、その死体に紛れる事で、米兵に発見されず助かった。(私が助かったのはこの死者たちのおかげだった。必ず彼らの遺骨を収集し内地に戻さねばと決意した) その後一晩、友軍の壕に入れてもらおうとさまよったが、どの壕でも『食料は持っているか』『武器は持っているか』と聞かれた。いずれも無いと答えると、どこも入れてくれなかった。仕方が無いので波打ち際に打ち上げられた大量のゴミに潜り込んで隠れた。 夜が明けると米軍の残敵掃討が始まり、それらの壕の一つ一つが米軍によって潰されていった。自分は壕に入れて貰えなかったので助かった。 私以外にもゴミの中に隠れていた兵士が居た。彼は静岡の元造幣局職員だと自己紹介した。しばらく彼と一緒に行動した。 死体がごろごろ転がっている中、死んだ真似をしながらその中を少しずつ匍匐全身で進み、内陸のガラクタ山に駆け込んだ。 米軍のテントから食料を盗み出そうと近づいていった。テントの裾をめくると目の前に機銃があった。その機銃を盗み出そうとしたが米軍に発見されてしまった。近くの対戦車壕に逃げ込むまで凄まじい射撃を受けたが、私は妙に冷静で、走りながら後ろを振り向き、足元を見て、曳光弾の光を眺めていた。 ある日米軍の電信柱を大量に積んである場所を発見した。それを盗んで筏を作り、海から脱出しようという話になった。しかし島の周辺は三角波という鋭い波が発生する場所の為、上手く筏を漕ぎ出せ無かった。そのうち筏の置き場所が米軍に発見され、筏は銃撃でボロボロにされてしまった。 (戦後ハワイの俘虜収容所で他の兵士にも聞いたが、筏に乗って脱出に成功した日本兵は一人も居なかったそうだ) ある夜、井戸から水を汲んできた帰り道、2人の日本兵に呼び止められた。私の水筒を見たその二人は水をよこせと言ってきた。私は、水は渡せないが水のある場所なら教えると伝え、井戸の位置を教えた。しかしその二人は危険を感じたのか井戸に行こうとせず、そのまま消えた。私が自分の壕に帰ろうとすると、帰り道に先ほどの二人の兵士が銃を構えて待ち伏せしている。恐らく私を射殺して水を奪うつもりだったんだろう。私は違う道を通って壕に帰った。 戦後、同じハワイの捕虜収容所にいた海軍将校から聞いた話だが、その将校の部隊でも兵士達が味方を襲撃して食料や水を奪おうと相談している事があったそうだ。その将校は『それだけは止めてくれ』といって止めたという。
米軍の捕虜となる
ある日、私の居た壕に米軍の日系2世兵士がやって来た。彼はたどたどしい日本語で『もう戦いは終わった』などと言った。その後、既に捕虜となった日本兵が現れ『米軍は捕虜を殺さない。大丈夫だ』と説得した。私は『一晩考えさせてくれ』と伝えた。帰り際に『逃げようとしても無駄。(米軍が)壕の外にトタン板を敷いたので、逃げようとすると音がしてすぐバレる。』と言われた。 私は、どうせ鹵獲した日本刀の試し切りにでもされて殺されるのだろう、と考えていたが、米軍は翌日約束どおりの時間にやって来た。 壕から出た私は、どうせ死ぬのだからと、それまで大切に少しづつ飲んでいた水筒の水を全部飲もうと思い、水筒を手にした。すると米軍将校が突然私の手を払い、水を飲ませまいとした。地面に落ちた水筒から水が漏れた。日の当たる場所で見たその水は黒く濁っていた。こんな汚い水を今まで大事に飲んでいたのかと思った。それまでは暗闇の中、口 にガーゼを当てて舐めるように飲んでいたから気付かなかった。その将校は自分の水筒を私に渡し、綺麗な水を飲ませてくれた。 捕虜になる際は氏名と所属部隊、階級などを名乗るだけ。簡単な手続きだった。 捕虜になる事は恥と考えられた時代だったので、氏名を名乗る際に多くの兵士が偽名を名乗った。しかし米軍は全て調べをつけているから正直に名乗ったほうが良い、とも勧められた。 捕虜になったばかりの頃、スイスの牧師がやって来て『国際赤十字を通じて君たちの故郷に手紙を届けるから手紙を書け』と言った。しかし誰も手紙を書かなかった。捕虜になったという恥ずかしい事実を故郷の家族に知られたくなかったからだ。私もどうせフィリピンあたりの砂糖農場で死ぬまで働かされ、絶対日本には帰れないだろうと思っていた。
ハワイの捕虜収容所に収容
ハワイの捕虜収容所では現地の新聞と日本から送られた新聞が壁に貼り出されていた。当初はデマ新聞という者もいたが、その二紙には同じ事件が書いてある(日本の降伏など)。どうやら嘘では無いらしいと思った。 収容所では飢餓と人肉食の話がよく出た。しかし、いずれの話も知り合いから聞いた、と言った類の話で、私が食べたという話は誰もしなかった。 収容所では日本の勝利を信じる“勝った党(勝ち組)”の人々の勢いが当初は強かった。勝った党の人々は『ハワイの山の向こうに連合艦隊が来ている』『友軍の落下傘部隊が降下した』などと主張した。 収容所での我々の労働に対して米側は賃金を払ったが、勝った党の人々は“消耗戦術”と称し、その賃金で残らず石鹸などを購入した上、それらを全て捨ててしまった。少しでも米軍の物資を消失させようという事らしい。 散髪の際も勝った党の人々は旧軍スタイルの丸坊主にした。現状を認めた者たちは長髪だった。 収容所での労働には賃金が支払われた。日当60~80セント位だったと思う。現金ではなくクーポン券の形で支払われ、それで収容所内の売店で買い物が出来た。売店ではアルコール以外の生活用品はほぼ全て揃った。その金を貯金してもよかった。中隊長にその金を預けたが、私の場合は帰国までに300ドルほど貯まった。 収容所内での中隊長は軍隊時代の中隊長では無く、皆で選挙によって選出した。私の隊ではMさんという元日大教授の人が選ばれた。大学教授だが軍隊時代は一等兵。英語が堪能で米側との意思疎通が上手かった。
復員
復員して浦賀に上陸すると、そこには日銀職員がおり、我々のドルの貯金を日本円に換金した。私には3千円弱の現金が渡された。当時はサラリーマンの月給が現金支払上限の五百円とされていた時代だったので、かなりの額だった。 収容所を出る際、米側は上着から靴まで、衣類一式(しかも着替え分も)を我々に支給した。そして浦賀に到着した際、これで捕虜の帰国は最後だろうからと、復員局の職員は我々に倉庫内の日用品を売ってくれた。 硫黄島の水は塩辛かった。それらで炊飯や味噌汁を作るのだから皆しょっぱかった。味噌汁の具はかぼちゃの薄切り、サツマイモの乾燥葉など。良いときは高野豆腐が入っていた。 戦闘前の壕掘りの時、一日に支給される水は水筒1本分のみだった。多くの兵士はサトウキビを切り、茎内の水分を摂っていた。 食事は飯ごうの内蓋にすりきり一杯分の白飯で朝昼2食分だった。副食に魚が出たのは戦闘前にメザシが3匹支給されたのみだった。 避難した住民が残していった牛馬を飼っていた部隊もあったが、上官からその家畜を食べて良いという許可はなかなか出なかったので、米軍の爆撃がありそうな場所に牛馬を連れて行った。爆撃で家畜が死ぬと、死んでしまったものはしょうがない、といって皆で食べたようだ。 栗林中将が我々の部隊に視察に来たのは一回のみ。それも随分遠目で見ただけだった。