インタビュー記録

1937(昭和12)年1月 現役

 麻布歩兵第3連隊。
 20日ほどの教育のあと2月3日満州・斉斉哈爾(ちちはる)へ。初日は赤飯と鯛が出てお客様、翌日から訓練。

同年7月12日 一等兵に、選抜されて上等兵候補者として教育

同年7月7日 廬溝橋事件

 29日中国への派遣命令、山海関を経て8月1日天津へ、南開大学が燃えていた。警戒に出されてすぐ先には敵軍が溢れていたらしいが、運良く遭わなかった。
 満州・承徳を経て貨車で蒙古・張北へ。

同年8月20日 万里の長城の総攻撃、張家口から長城の突破を図った

 遠い弾はビューンビューンと飛ぶが、近い弾はプツプツと飛ぶ、あっちがやられた、こっちがやられた。段々畑を利用して伏せているが敵にはなかなか近づけない。
 地雷に気を付けろ地雷に気を付けろと言われるが何処にあるか分からない。
 連絡兵の任務だったので幹部と一緒にいるため助かったが、伝令で行った先で後ろにKが死んでるから弾を取ってこいと言われる。Kは頭を貫通し全身が痙攣、初めて見た戦死だった。  一人で山道を小隊へ伝令に、夢中で移動した。

 別な小隊は爆発でほぼ全滅、中に入れず外側にいた初年兵だけが3名ほど助かった。寒いから暖をとったのが仕掛け地雷を誘爆したのか? 
 21日は長城の上から撃たれ続けこちらからは少しも撃てない。一度撤退し場所を移動して夜襲。部落で初めて食事。そこに数日滞在中に戦死者の遺体収拾に。20数名の骨箱を一杯雑嚢に詰める。張家口目前で中国軍に包囲され2~3日迫撃砲の集中砲火を受ける。2名が壕の中で直撃を受け戦死。
 27日張家口から入城。

同年9月8日 陽高へ突撃 中隊長ほか幹部が全滅

 2年兵が分隊長をやっているような有様で指揮も出来ない。

同年9月13日 大同へ無血入城

 内地から8月頃召集された強い新兵がどんどん送り込まれてきた。

 警備にあたる。歩哨が居眠りしたのか橋の望楼の根本に爆弾を仕掛けられ2名戦死。

同年11月 斉斉哈爾に戻る

1938(昭和13)年3月 泰安鎮に

1938(昭和13)年11月 留守隊

 初年兵の教育にあたる。

1939(昭和14)年3月 32師団歩兵第211連隊(新設)に転属

 同年 5月 北支山東省で討伐作戦。

1940(昭和15)年 7月 満期除隊

1941(昭和16)年 7月19日 召集

 東部第72部隊(世田谷) 野戦重砲兵第8連隊。満州へ

同年10月 コロ島から台湾へ

同年12月24日 リンガエン湾上陸

 何十隻もの輸送船で、航空機や海軍の護衛も付いての上陸。
 歩兵が先に行ったので上陸は安泰だったが、遺体がゴロゴロあって腐っている。
 進みすぎてしまって、バターン半島の入口で待ち伏せされ一編に撃たれ、砲本体を運んでいた兵は誰か分からないぐらいにやられて仕舞う。大澤さんは砲弾を二つ運んでいた。
 砲の撃ち合い、敵の砲は戦車の上に載っている、こちらの牽引は4トン車までだが向こうは10トン。砲の撃ち合いになると何処の神様でも良いから拝んで、横にそれたくれれば良いが、潜り込んで陣地を飛ばす砲もある。砲の能力は落ちたが、制空権制海権があったので何とかなった。

1942(昭和17)年 7月12日 復員

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