インタビュー記録
1943(昭和18)年2月1日 現役
第1師団野砲兵第1連隊(東京都世田谷区三宿)
同年3月 満州へ
休むとき一番最初にやるのは馬の4つ足を鬱血しないようマッサージしてやること。水を探してきて飲ませること。兵隊は馬以下だから、食事は馬にえさをやってから。砲兵は朝起きて一番最初に馬の手入れをして餌をやって、それから部屋に戻って食事。兵隊を馬は同じぐらいの数で、実際動く兵隊はその半分ぐらい。一晩かかってわらにおしっこや糞をしているので、それを外に出してひっくり返し日で乾かす。一晩尿を吸って重いの重くないの。
幹部候補生になる気はなかったが、こんな事で死ねないと入ってから受ける気になった。
同年5月 幹部候補生合格
甲種に合格するも病気になり入学までに治らなかったため乙種に。
乙種ではトップだったので士官勤務の資格は貰った。
1944(昭和19)年4月 新京(南嶺地区)の関東軍機甲整備学校
キャタピラの付いた牽引車や軽装甲車の操縦・整備に従事。
同年7月末頃
原隊に動員下令があり、第1師団のほとんど(13000人程度)がフィリッピンのレイテ島に転属されほぼ全滅した。学校に出て居なかった自分は150~160人ほどの残留組となった。
夜間演習中目の前の線路を汽車が横切り、灯りの中に馬や砲が積んである。私の隊で動員下令が降りたのではないかと予感がした。
同年10月 第1師団残留部隊司令部勤務
同年11月 残留部隊を再編して独立混成旅団に新編成
1945(昭和20)年2月 上記独立混成旅団が第123師団に改
満州・黒河省孫呉に駐留。
司令部参謀部動員室に勤務、戦闘体制に入るまでに編成、配置を決めるのが任務で、それが終わると仕事がなくなる。
関東軍の現役で戦力になるのは南方に動かした上、内地防衛のため、なけなしを全部内地に送った。3~4月には最後の将校や下士官8800人を内地に動員。関東軍はもぬけの空。国境守備の要員は居なくなった。それを埋めるのは満州の根こそぎ動員しかない、だから開拓団は女子供と爺さん婆さんだけになった。武器は補給できず中国で捕獲したものを使った。根こそぎ動員は訓練は全くしていなかったので、案山子を貼り付けたようなもので戦力にならない。学徒兵の見習い士官も半年の教育だけで来た。
更に酷かったのは朝鮮人の最終召集。近いので北朝鮮が多かった。敗戦直前1週間~1ヶ月頃、入ってから1週間ぐらいで廻されてきてもっぱら弾を担がせた。徴兵後貨車で満州に運ぶ間にどんどん逃げるので、自分が見たわけではないが貨車を外から釘付けして運んだと聞いた。終戦になった時、軍隊の形は取っているが彼らにはあまり干渉しなくした。皆日本の軍服を着ている。階級章は取って鉄道沿いに逃げたが、満州の人から見たら日本の兵隊が逃げていると薪で襲撃されて殆どの人間が殴り殺された。
職業軍人は何を考えていたのか分からない。司令部にいたので陸士出の作戦参謀と称する中佐、大尉ぐらいの言動は、違う人種と会う感じで全然分からなかった。民間の人材が生きない。
昭和20年3月頃、特別兵員調査という兵隊の前歴を全部調べた。遅ればせながら人材の有効活用をしようという事になった。満州航空の一等操縦士なんていうのが星一つでいた。すぐ除隊させたが。工兵隊に婦人科の先生がいた、上等兵だった。「何であんたそんなとこにいるのか、軍医殿」と言ったら「婦人科だから兵隊は」という。「そんな訳ないじゃないか、衛生兵だっているのに」翌日早速見習い士官にした。職業軍人は軍人は軍人社会で、それ以外の我々国民を「地方人」と言った。自分より優れた能力のある人を尊敬しないし利用しない。利用したのは高等文官だけ。
同年8月9日 ソ連軍侵攻
停戦直前に停車場司令の直轄部隊2~30名ほどが戦線を離脱、参謀の命令で憲兵隊2~30名を連れ追及をし、捕まえた。黒河からの最後の引き揚げ列車を止め装甲車を連結して逃げてしまった。
捕まえて、責任者(孫呉の輸送司令部の司令官、中佐)だけは憲兵隊が連れて行った。最後には自決したらしい。
今考えれば見逃せば良かった、掴まりませんでしたって言えばそれですんじゃったんだろうけど若気の至りで一生懸命やっちゃった。嫌な思い出。
引き揚げ列車だから色んな人が乗っている。機関車が1台しかないのでそれを一度孫呉の駅まで戻さなければならない。
御真影を持った領事館員から行かせろと言われるが半日だけと言って戻す。
戦争をしている方に戻すのだから乗っている方も気が気じゃない。その時に余計な事をやる。兵籍のある人は全部降りろ、ここは123師団の指揮下に入るから兵籍のある方は皆召集します、と。もうひとつ満蒙青少年開拓団も降ろした。
同年8月18日 敗戦
参謀が白旗を持っていくのに付いていく。通訳1名と兵隊7~8名と一緒。行ったらいきなり「ホールドアップ」で「こちらが言ったことを司令部で報告しろ。2時間以内に帰ってこなかったらいる連中は全部殺すから」向こうの言いなり。太った女性の兵隊で初めて見る女性の兵隊で驚いた。戦闘での消耗はそれほどなかった。
終戦時には無条件で武装解除に応じたので、武器はそっくりソ連軍に渡した。武器を渡した部隊は南方のハルピンの方に行き完全に囲まれることとなった。武器の中には毒ガス弾も入っており、ソ連軍が始末に困って適当に遺棄した。現在の中国の毒ガス弾被害が出ているのはその為ではないか。
同年10月or11月 チタ地区エローへンパーロビッチに抑留
9月からコルホーズを廻って仕事をしてからこの収容所へ入った
明日死ぬか今日死ぬか。
火力発電所でトロッコにより石炭を運ぶ仕事中に左手おやゆびを骨折、骨が飛び出るほどだが医療品が何もなくゆわえているだけで快復には数ヶ月かかった。もう指が曲がんないよと軍医に言われたが毎日動かして動くようになった。
参謀と組んでいた特務機関の人間から「これは何かの役に立つよ」と阿片を1缶貰った。それをシベリアに持っていった。 シベリアに行って最初に食べたのが燕麦、血便になった。阿片を吸うと痛くない。それを繰り返していると量が増えてくる、軍医部の男に言ったらそれが無くなったらそうする気だと言われた。そうだなと思って彼に渡した。あれは随分多くの人間を助けたと言われた。盲腸の手術などの麻酔剤として使えた。
チタで「共産党小史」の勉強などを受けた。親切にされ、自動車の運転など手伝っていた女医さん(上級中尉)に呼び出されて「チタに行きなさい」と言われた。
500人ぐらいの部隊に2名で入れられたが、その部隊の乗った貨車がどんどん東に向かっている。日本に近づいているから「これは様子がおかしいからあまり気張らないでいこうよ」と2名で話しをした。着いたらナホトカ。ナホトカの第3収容所の便所を作った。日本に近いから日本人ふうの便所にした。知り合いがナホトカのリーダーでいて、「ここへ来たらインターナショナルの歌を歌わないと帰れないよ」と教えてくれて部隊皆を集めて覚えた。赤ダイコン。
貨車に強制労働のロシア人が乗っている。夏は女性も皆裸で詰め込まれていて臭いがする。普通に生活している人でも、アメリカ人の外交官で戦犯になり刑期を終えたが列車の切符は取れないという人がいた。食事をするのも顔を洗うのも洗面器一つ。流刑の地で、彼らはスターリンを憎んでいた、ぼろくそ。
収容所には600人ほどが居て、30人ほどが死亡した。収容所の日本人のリーダー(中尉)が山梨の和尚さんで、一人でも多く生きて帰ろうと比較的皆で平等に助け合う方針だったので余所よりは随分良かった。
1947(昭和22)年6月2日 舞鶴復員
大森さんからのメッセージ
(田母上発言を巡って)職業軍人は一種の“カタワ”。当時の職業軍人はそれにしんにょうをかけたようだった。「軟文学を読んでいる下士官はお前か」と言われた、小説・岩波文庫の事など。相手の人間性など見ようとしない。最後まで馬鹿にしていた。(その遺伝子を受け継いでいるのが田母上。)そういう人たちがどう考えているのか。
そうかといって、満州国境の引き揚げた居留民を見ていると戦争は負けたら駄目だと思う。負けたり、武器がない状態で占領された国民は非常に不孝。何をされてもかまわないという覚悟が無ければ、非武装には出来ない。それが嫌なら戦うしかない。どうするんだとそれは私には分からない。私の心情はソ連相手なら戦う、共産主義なら戦う。それ以外なら仲良くした方がいいな。
スターリンがやったことは偽物であり、ソ連内の貧富の差はすさまじいものだった。