インタビュー記録

1942(昭和17)年春 17歳で満州電信電話株式会社に就職して渡満


○母が幼い時に亡くなり生育が悪かった。  軍国少年で航空兵に憧れ、貧弱な身体で家にいるのが嫌だった。 ○満州電電の仕事は職安で紹介された。  満州に行くことは当時そんなに大それた事ではなく家族は特に反対しなかった。 ○興安(こうあん、=王爺廟(おおやびょう))で通信士として働く。  職場は泥屋根で民家を改造した簡易なもの。  通信の内容は半分以上は軍・官庁関係のやりとりで、部隊同士の連絡は軍の通信兵がやっているが、武器や軍の移動など広範囲の連絡は満州電電でやっていた。乱数字の暗号で内容自体は分からなかった。 ○給与は国境近くの街であるため危険手当などがついて結構良かった。  天草などから渡満した人が同僚で日本へ送金もしていた。  満州の人も主に配達夫などで雇われ、通信士も2名いたが、給料は日本人とかなり格差があった。

1945(昭和20)年


○春ごろまでは王道楽土、食べ物も不自由はしなかった。 ○7月根こそぎ動員があり、興安街にいた約4000人の日本人のうち約1000人の男性が召集された。 ○興安は西は興蒙工作用の興安総省が置かれ、その官庁街になっていた。 一方東は土地で暮らしてきた商売人たちが中心の街で、東西の気風がまるで違っていた。 ○部署柄、興安の参事官はソ連の動きをキャッチしているようで情報を新京に提供していたが、新京は国境とは意識が違って反応は鈍いようだった。  戦況が悪くなるにしたがって内容は分からなかったが送信電報はどんどん多くなり、反対に受信電報は少なくなっていった。

1945(昭和20)年8月9日 ソ連参戦


夜中の3時ごろ宿直をしていると国境のハロンアルシャンの支局からソ連参戦を伝える緊急電話があり、どうなるか分からないと言ったまま切れた。 朝6時に今度は新京から全国的な広報の形でソ連参戦が告げられた。 いよいよ来るものが来たかと戦意が高揚した、怖いとかそういう気持ちはなかった。
 

1945(昭和20)年8月10、11日 興安の爆撃


○職場は焼失、街は殆ど燃えてしまった。 ○参戦前はソ連が参戦した場合は北東100キロのジャライトに行く計画が立てられていたが、その最終打ち合わせのため興安総省の参事官達中心メンバーが興安を離れている時に、開戦となった。 この計画は軍と一体に動くことを前提としていたが、車も馬車もなく、家族連れの多い東側の人間は徒歩でジャライトまで歩くことは無理だった。そのため東側は浅野参事官ら県の役員が引率して、危険は大きくても葛根廟を通り、白子城から列車で南下する計画が立てられた。

1945(昭和20)年8月11日 1キロ東の寒村・ウランハタに集結


○街中はもう原住民の動きが危ないと言う事でウラハタに集結し、そこから出発となっていた。しかしウラハタも東京開拓団のために土地を追われた人たちが移住させられた土地で、決して対日感情は良くなかった。 ○情報が全然入らないまま13日まで漫然とここに留まって仕舞った。

1945(昭和20)年8月13日夜 避難開始


○土砂降りで馬車は泥にはまり捨てなければならなく、小さな子供も歩かせた。 ○この時すでにソ連軍は興安に入っていた事は知らなかった。

1945(昭和20)年8月13日深夜 30キロほど南のバインテブスクへ


○この村は親日派で馬車や食料の補給をしようと思っていた。 顔見知りもいたが、行くと様子が一変していた。家々は門を開けてくれず土塀にもたれて泥まみれで路上で寝た。 状況が変わったからか、ぐらいに思って深く考える余裕も無かったが、戦後知ったのは、先発隊の5~6名が村民を殺害していた事だった。満軍が解散して帰ってきた男性が、拳銃を持って歩いていたのを、日本兵を殺して奪ったのだろうと嫌疑をかけ、川沿いまで連れて行って村民の見ている前で日本刀で切り殺していた。(殺された村民の甥が日本への留学経験もあり詳細を手紙に書いて大櫛さんに送ってくれた。) 浅野参事が深謝し、女性子供がいたので、関係者を引き渡さず村を出ることを許してくれたらしい。

1945(昭和20)年8月14日11時半 ソ連軍戦車による攻撃


○その前にソ連軍の偵察機が頭上をゆっくり飛び回っていた。 ○バインテブスクでそんな事があったので報復を恐れたのと、ソ連軍に追いつかれる事を恐れたのだろう。隊列は7中隊に分かれていたが、最後尾に小銃を持った男性たちと県職員が集められていた。一方大櫛さんたち電電職員数名の男性は、一番先頭を歩いていた。 ○11時半、ソ連軍の戦車部隊が隊列の後ろから襲いかかり、一番後ろのグループは一瞬にして殲滅された。 全滅してしまったので何がきっかけだったのかは分からない。  一人だけ生存者がいるが彼は決して話をしようとはしなかった。 ○前を歩いていた者は後ろが騒がしいので振り返ったら、戦車が撃ちながら迫ってきていた。 ○そのあとの事はなぜ自分が生き残ったか分からない。とにかく本能的に動くだけ。走り回った事と恐怖だけを覚えている。 戦車は山の上から一定間隔で並んで追いかけてきて、戦車砲、機銃を撃ちまくった。 ○伏せていて泥水をかぶったと思って横を見たら、母親と子供が戦車に轢き殺されていた。瞬間身体を反転して遠ざかった。畑に飛び込み機銃が波のように追いかけてきた。痛い、やられたっと思ったが、後でみたらくるぶしを機銃弾がかすっただけで済んでいた。 ○戦車が1時間ぐらい追いかけまわしたあと、各戦車の上に3人ずつぐらい乗っている歩兵が降りてきて、しらみつぶしに生き残っている者を探しては機関銃で撃ち殺していった。 子供で目こぼしされた者もいれば、子供でも殺された者もいた。 それが戦車による攻撃後さらに1時間ぐらいであった。 ○浅野隊全体で幾人いたかも明らかではないが、千人以上がいて生存者は140~150名ぐらい。 ○体験を本にした時、1キロほど離れたところからそれを見ていたと言う斥候隊の人が連絡をくれた。  ソ連戦車が20台ほど並んでいて動けなくなり、隠れていたら、目の前で事件が起きたらしい。彼によれば戦車は浅野隊を待っていた、戦車同士が相討ちしないように指揮をとっていた戦車もあり、偶発的な出来事ではないように見えたと言う。 ○攻撃が収まった後はその場で泥酔したように眠った。夕方気温が下がってきて目をさますとうつぶせになって寝ていた。あたりは賽の河原となっていた。 ○お互い呼び合う訳ではなくても自然と生きている者のグループが出来ていった。 私がいたのは一番大きな40~50名ほどのグループで、男性は10名ぐらい、あとは女性だった。 ○そういう時は悲しみとかは無い、ほおけたようになっている。  生存者からも自決者がどんどん出始めた。  母親の遺体の上で泣いていた子供や赤ん坊の声も次第に聞こえなくなっていった。  草原で水が無く、遺体の水筒を見て廻ったが、何故かどの水筒も空だった。 ○それでも脱出しようとなったのは復讐心。日本が負けたとは思ってもいなくて、この様子を日本軍に伝えて敵を取ってもらおうと思っていた。一人がそう言うと、俺もそうだ、私もそうだとなった。 ○出て行ったのはグループの中で30人ぐらい。  負傷していたり、子供やご主人を亡くした人は自決する者が多かった。自決は連鎖反応ですよ、そういう時は残されていく不安の方が大きい。自決は青酸カリや(保存が悪かったが)、洋カミソリで頸動脈を切ったり、銃で撃って下さいとか刀で切って貰ったり。 ○その後更に現地の農民に襲われたグループもあった。 最初は死体から衣服をはぎ取っていたのが、段々エスカレートし生きている人の物を奪った。殆どの遺体が裸にされて転がっていた。  自分たちのグループはトウモロコシ畑の中にいて誰も来なかった。 ○遺された子供たちは残留孤児となった。  慈愛に満ちた養父母もいたし、売られたり家畜のように扱われた子もいた。文革を契機に帰国した者は多い。 新京を目指すつもりで北上して行った ○助け合って行くことはしない、着いて来れる者は着いて来いという感じだった。 ○周りはすべて敵、夜歩く。  北斗七星を背中に見ながら歩いているつもりだったが実際には北上していた ○脱水が激しいと幻覚症状が現れ、谷川の清水が流れて太陽がキラキラしているのが見える。誰かが水だと言って皆飛び込むと岩に顔をぶつけた。自分も2回幻覚を見た。 ○村に寄ると危ないので、食料は現地民の畑からトウモロコシやジャガイモを盗った。 ○銃が4~5丁あったので一度半ば強奪するように農家に入ったが、「日本は負けているのにどこに行きよるか、早く投降した方が良い」と言われたが信じなかった。新京に向かうと言うと、年寄りが笑って北に行ってるよと言った。 ○また一度川を渡るために、川沿いの一軒家の老人を銃で脅し、船で何回も往復して貰ったが、彼を見ていると、文明ははかないもので自分たちは生きていくのも精いっぱいなのに、この老人は戦火を幾つもくぐり悠々と生きている民族の強さを思わずにはいられなかった。 ○武器を持った現地民が馬に乗って襲ってくる事があったが、5~6人で銃を順番に撃ち続け難を逃れた。

1945(昭和20)年9月末 ソ連軍に捕まる


○早朝霧の中でソ連軍に囲まれ、収容所に連れて行かれた。 収容所には日本兵もいて、本当に敗戦していたんだと初めて分かった。人によって違うだろうが、もう歩かなくて良いのだと思うとほっとした。他の人もそうじゃないだろうか。 ○百人程度の小さな収容所。 食糧は与えられず、ソ連の馬糧の大麦をかすめて食べていた。 また30~40人、ハルピンの刑務所に入っていたらしい先住者がいたが、政治犯とかではないけど人情味のある人たちで、どうやっているのか分からないが収容所の外に出入りし皆の食料を調達してくれた。夜中にうどんを打ってくれたりもした。 ○線路工夫の使役に出された。収容所で亡くなった人は枕木を燃やして火葬した。 ○雁(かり)が越冬で南へ飛んでいくのが見えた。九州の鹿児島の八代辺りに行くと聞いていた。鳥には国境がなくて好きな所に行けて良いなと思った。 ○当初武器を持っていたので兵とみなされたが1か月ぐらいで解放された。

1945(昭和20)年12月 新京に


ここで銘々のつてを頼って別れた。 満州電電の社宅に入りありとあらゆる仕事をした。中国人の店の客引きとか、葬式の作業とか。お供え物を持ち帰れるのが魅力だった。

1946(昭和21)年8月13日 コロ島を経て佐世保に帰国


船で日本が見えた時、日本の美しさ、緑の美しさに皆が甲板に出て喜んでいたが、隣にみっちゃんという女の子とお兄ちゃんの子供だけの乗客がいて、お兄ちゃんが「みっちゃん、あれが日本だよ」と教えていたが、日本を知らないみっちゃんは「イヤダ、日本に行きたくない」と言っていた。みっちゃんは満州で生まれた、3才であった。 港から帰国手続きをする宿舎まで3キロぐらい、みっちゃんを背負って歩いたが、手続きを終えて離れるとき職員からみっちゃんは死んだ、お兄ちゃんは1人で施設に行くことになったと聞いた。 1975(昭和50)年ごろから生存者を訪ね歩き、亡くなった方の名簿を作った 空欄も多い簡単なもので判明したのは720名分足らずであった。 災害や事故による民間人の死は皆騒ぎ関心を寄せるが、戦争による民間人の死は戦争だから仕方ないと軽く思い過ぎていると思う。

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