インタビュー記録

1939(昭和14)年1月1日 召集

 鳥取にある鳥取47部隊(中部第47部隊)の第2大隊第2機関銃中隊に配属。

【注】ご本人は鳥取47部隊と言っていましたが、鳥取47部隊(中部第47部隊)は歩兵第121連隊の補充隊であり、121連隊の編成は1940(昭和15)年の8月なので、鳥取40連隊の補充隊ではないかと思われます。

 45名が初年兵として入営。
 蒜山原(現岡山県真庭市)で演習をしたのちに、そのまま福岡に。福岡から輸送船に乗る。

1939(昭和14)年6月ごろ 6か月の初年兵教育を終えて中支派遣

【注】ご本人の書かれた軍歴表には「中支派遣廣野部隊、坂本部隊、片倉部隊」とあり、廣野部隊は廣野太吉師団長の第17師団、坂本部隊とは坂本末雄連隊長の歩兵第53連隊、片倉部隊とは片倉衷連隊長の同53連隊なので、53連隊の機関銃隊に配属になったらしいです。

 上海にまず着いた。そこから常州を経て宜興(ぎこう、現江蘇省無錫市宜興)の大隊本部にいく。そこから各地の分哨に配属。


 討伐にはよく行った。討伐と言うと聞こえはいいが犠牲が多かった。討伐はだいたい小隊長1人に、2個分隊約20名、そして機関銃1個の合計25名位で行った。大勢に待ち伏せされると歯が立たなかった。
 機関銃隊なので機関銃を担いで行く。機関銃(30kg)を持つのは交代でやったが、弾薬箱(30kg)は交代がなかった。行軍している時は「この辺で弾が飛んでこないかな」とよく思った。歩いているうちは本当に嫌だった。機関銃を担ぐために背嚢をつかわず天幕に装具を入れて持ち歩いていた。
 百発以上撃つと銃身が焼けて白くなりかげろうができる。そういう時は水筒の水をかけてひやして、天幕にくるんで持ち運んだ。


 ある時、体を悪くして休んでいた初年兵を「気合いぬかしてる」といって古参兵がリンチした。その初年兵は肺炎になって内地に送還された。
 作戦中、同じ分隊の小椋光義という兵隊が胸を撃たれて担架で野戦病院に行った。3日ほどして作戦が終わったので野戦病院に見に行った。すると口から泡をブクブク吹いている。「小原、俺はやられた。もうだめだよ。お前気を付けろ」と言っていた。その兵隊は2日後に内地に送還された。それきり死んだかどうかは分からない。


 ある時、杭州の方に作戦にいった。敵は上手くカモフラージュしていて、どこから撃っているのか分からない。小銃隊は水田に伏せたまま動けなくなった。そこに後方から50門くらいの砲が一斉に射撃をした。そして前方の山が煙で見えなくなった。その煙は窒息性毒ガスだった。真白な煙が地を這っている。
 歩兵隊がわーっと突撃すると、交通壕の中に中国兵の死体がゴロゴロあった。日本人は防毒面を持っていたので大丈夫だった。


 重機関銃は狙いすぎては駄目。撃ち続けると発熱して陽炎ができて狙えなくなるので弾着を見ながらでないとあたらない。普通に射撃できる時は状態のいい時。重機の照準眼鏡はほとんど使わなかった。そんなものを用意する時間はなかった。
 私は弾薬手と装填手を主にしていた。射撃手はよくやられた。装填手は重機の脚を持っている。戦闘になると重機の脚を置いてすぐ後方に下がれるから生き延びる確率が高かった。
 日本の重機は1分間に450発しかでない。対して敵の機関銃は600発出た。曳光弾もなかったので夜はどこに飛んでいるのか分からなかった。
 駄載なんかもほとんどしなかった。山岳戦なのでそんなことをしていたらすぐやられてしまう。
 重機を撃っていた上等兵が、ガーンと鉄かぶとを撃たれて、カクーンとなって死んだ。至近距離で撃たれると鉄帽を弾が突き抜けちゃう。1千メートルくらいの所から飛んで来たのが鐡兜にあたるとペコンとへこむ。直接照準でやられると死んじゃう。


 ノモンハン事件に機関銃が1個小隊出ていった。ノモンハンの終りの方だったのでなんとか帰って来たが「ひどいめにあった」といっていた。

【注】53連隊では北原少尉が隊長の北原速射小隊が編成されてノモンハン事件の末期に出動。


 敵は蒋介石の33旅。(【注】国民党軍第3戦区独立第33旅)服装もちゃんとしていた正規軍。優れた兵器をいっぱい持っていた。機関銃なんかは性能がよかった。軽機関銃なんかも日本のはチャチなもの。小銃の弾5発を入れておいて、5発撃ったらまた入れて、ほんとに漫画みたいだった。(【注】11年式軽機関銃の事か)
 むこうの機関銃はガッチリしていて、”バイオリン”といって丸い弾倉にずーっと弾薬が入っている。それを上にのせる30発ダーッと撃てた。(【注】DP28かルイス機関銃か)


 捕虜もいっぱいいた。戦闘が嫌になって帰順兵になったのも結構いた。帰順兵の中には密偵になって日本に情報をもたらす者もいた。
 ”すいせいたい”という情報を集めたり、日本軍に協力する帰順兵の組織もあった。しかし日本軍の前に立って戦闘することは少なかった。(【注】保安隊みたいなものか)
 通訳を通じて中国人と話をしたことがあった。すると中国人は「私は東洋平和のために戦っている。だからいつ死んでもいいんだ。」と言っていた。お互い東洋平和のために戦っているなら、日本が中国から引き揚げればいいのにと当時から思っていた。
 中国人の捕虜3名を捕まえたことがあった。しかし、その3人は逃げようとしたので帰順兵ではないことが分かったので処刑することになった。そして本部から首をはねるのに慣れた下士官がやって来て斬首した。見事なもので、血がバーッと出て首が胸の所でぶら下がっていた。


 ある作戦中、小銃隊と機関銃隊が輜重隊と野砲隊を追い抜いて先行していったことがあった。輜重隊はおっさんみたいなのばっかりで、銃も2人に1丁、甲種合格なんかいやしない。それでトロトロしているから先行していった。そのうち後ろからバリバリ音がして「あーやられているな」と思ったがどうしようもない。それで輜重隊は全滅してしまった。野砲隊もほとんど全滅してしまったらしい。
 その作戦では連隊本部だか師団本部だかを占領した。するとそこへ中国兵が連絡にきたり糧秣を持って来た。みんな捕まえた。そして白壁の大きな家の中にみんな入れた。その家の前には軽機関銃と小銃を持った兵隊2人が番をしていた。機関銃隊は陣地を作って警戒していた。
 夕方になって陣地の下を見ていると、野砲の連中が2人来た。「よくも俺達を見殺しにした。大隊長はどこだ。」と怒っていた。大隊長は出て行かなかった。そうしたら野砲の1人が家の前の番兵から軽機関銃を取りあげて、いきなり大勢中国兵がいる中に乱射した。
 えらい騒ぎになっちゃって、大隊長が飛んで来た。大隊長は「捕虜の人数はすでに師団本部に申請してあるので、もうやめてくれ。どうにもしょうがなかったんだ。とにかく勘弁してやってくれ。」と平謝り。大隊長もブチ殺されるか分からない状況だった。
 その後、近くの部落の中国人に手伝ってもらって、中国兵の死体をクリークに捨てた。クリークには歩く所に石が置いてあったが、そこが血で真赤になった。

【注】53連隊は1940年10月1日から18日まで、増強しつつある中国軍の壊滅を目的とした江南作戦(軍11号作戦)に参加。そして独立第33旅の司令部を占領しているのでこの時の話かもしれません。


 その後”りんぽちん”という所に入った。マッチ工場があって、そこが爆発していた。「なんだこりゃ」とおもって部落に入ると誰もいない。そして品のいい老人が2人か3人手をくくられて頭を撃たれていた。また部落の家の中の壁がボコボコに破かれ、床をはがされてめちゃくちゃになっている。日本人は部落に入っても休んですぐでていくのでそんなことはできない。
 おそらく、日本軍が来ると分かって部落の住人が山やらに逃げた所に、ある人間が家探しに来て残っている人間は殺したんだろう。行ってみるとコロコロコロコロくくられて死んじゃっている。天井だとかもみんなぶっ壊してある。何かいいものがないか探った跡らしい。「同じ中国人でもこんなことをやるのか。」と思った。


 機関銃を分解搬送して山あいの道を歩いていると、現地の人が台を出して、その上にタバコだとか果物だとかを出して、その前で線香を持って一生懸命に祈っていた。「中国軍と間違えてんのかなあ」と思った。とりあえず中国語で「ありがとう」と言ってもらったが、どういうつもりでそういうことをしていたのか今でもわからない。


 中国にも慰安婦がいた。全員中国人で、むこうでは野放しの姑娘と書いて”やちくーにゃん”と呼んでいた。慰安所はあっちやこっちに大っぴらにあった。それを日本語の分かるお婆さんが管理していた。それで1時間いくらと決まっている。
 韓国人の慰安所も別にあり、それは連隊本部か師団本部の近くにあった。慰安婦は自由に行き来できて、好きなものを買って食べていたが、日本の兵隊の事はあまり好きではなかったようだ。


分哨はよく全滅した。日本では「勝った勝った」と言っていたが、何なんだと思っていた。

和橋鎮(宜興市の北部)に駐屯

 2回ほど攻撃を受けた。ある日隊長の三宅中尉が近くの街に巡察に言った。そこで箱から出して組み立て作るブローニングという銃(隠し持てるらしい)を持った便衣兵にやられて死んだ。当番はやられなかった。

その後”ぱてい橋鎮”に駐屯(宜興の北5キロくらい・和橋鎮の南)

 日本軍はいろいろ横柄だったので近くの部落の人にはあまりよく思われていなかったのではないかと思う。でも死体をかたずけるときには手伝ってくれたりした。
 ある日、中国人の知事か何かが来た。きれいな女の人も一緒にいた。内緒で「あの女の人きれいだなあ。(嫁に)もらったらいいなあ」といったら、女の人に「ああそうですか」と言われた。日本人だった。笑われて参った。


 ”ぱてい橋鎮”の陣地の千メートルか8百メートル先に敵がいるのが見える。むこうも陣地を作って対峙していた。そして毎晩毎晩襲撃がある。夜も寝られない。しかし昼間は作業をしなければならない。
 トーチカを作る事になり、そのために現地人のお墓をぶっこわした。現地の人は人が亡くなると立派な木材で棺を作り、それに遺体を入れて何年か放置した後に埋葬する。その棺の木材を使ってトーチカを作った。嫌な仕事だった。


 そんなところにいたためか、2カ月ほどしてマラリアに罹った。そして体がまったく動かなくなってしまった。口もきけない。しかし目は見え、耳も聞こえた。

 ぱてい橋鎮から自分も含めて2人身体がおかしくなったのが出た。そして宜興の本部から援兵が15人くらいやって来て、宜興までつれていってくれた。宜興には軍医はいなかったが、ある曹長が軍医の代わりをしていて、とりあえず診てくれた。そして、「あ~こりゃしょうがないよ、もう、ここで死んじゃうとまずいから早く本部に送っちまえ、送っちまえ。ここで死んじゃうと現認証明書を書かんならん。めんどくさいから本部に送ったら現認証明書を書かんでもいいから。」といっていた。それを聞いていたが、何もできない。
 そこにたまたま知り合いの三宅少尉がやって来た。三宅少尉は入隊前は医者かなんかだったらしい。そして「あ、小原。お前とうとうやってきたんか。元気出せよ。」と言った。何も言う事が出来なかった。
 そしてトラックが2台やってきた。2人を送るために、15人くらいの警乗兵をのせて連隊本部へ。そこから野戦病院に入院。毎日4回リンゲルを注射され、体がブクブクになった。リンゲル注射をやめると1気に痩せた。寝台からフラフラで立てなくなってしまった。 さらに、なんだか肩や尻がムズムズ痒いので、衛生兵に見てもらうと「こりゃあひでえや。ウジが湧いてらぁ」。褥瘡(床ずれ)になってしまっていて、ウジが湧いて骨が見えていた。しかし全然痛くなかった。

 1ヶ月くらいしてやっと立ってしゃべれるようになったが、足が進まない。軍医が来たので「どうして私はこんなになってしまったのでしょうか」と聞くと、ニヤっと笑って「この部屋の隣はね、屍室なんだよ。この部屋で生き残ったのはお前と○○の2人しかいない。ここに入った者は皆死ぬんだよ。」と言った。
 そしてある日、上海への担送患者が発表された。そこに名前があった。そして上海へ。上海で2日目、内地送還の患者が発表された。そこにも名前があった。

1941(昭和16)年初め みずほ丸で内地送還

 福岡だか久留米だかそのあたりにあった陸軍病院に入院。3カ月ほど経ってみるみる回復。そこに冬までいて、姫路の病院に移る。

1941(昭和16)年12月28日 鳥取連隊に帰り着きそのまま除隊

光海軍工廠に徴用

 除隊して3日後、さあどうしようかと思っていたら徴用の通達が来た。」うまくできてるなあ」と驚いた。そして山口県の光海軍工廠へ。どの部署がいいかと言われたので、どこでもいいと言ったら1番つらい鋳造部に配属された。
 鋳造部では、満州とか朝鮮とかから送られて来る銑鉄を12ポンドハンマーで細かく割って、キューポラの中に入れて溶かす。その溶けたのを型までもっていって流し込む。いろんなものを作っていた。
 下松(現山口県下松市)にも大きな工廠があった。そこではすごい大きな機械で溶解して、1軒半くらいあるでかい桶の中にいれて、それをクレーンでつりさげて動かして、地下に掘ってある型に流し込んでいた。そこが1回爆発したり、その吊り下げるクレーンが壊れて落っこちたりした。クレーンが壊れた時は下にいた人はみんな死んじゃったらしい。
 ある女工員が、なにかで手の指を切断してしまって青い顔で医務室に送られているのを見たこともある。

 当時は虹ヶ浜に住んでいた。
 日和のいい日のちょうど正午ごろ、なにかえらい音が「ズズズズ-ン!」とした。地面が揺れた。「これは何かな。日曜は魚雷の発射実験をやるんだけど、こんなとこで爆発させるはずないのに何なんだろう。」と思った。あとでわかったのは陸奥が沈んだということだった。

【注】1943(昭和18)年6月8日、戦艦「陸奥」爆沈

1943(昭和18)年7月頃 再召集

54師団歩兵第121連隊第2大隊第2機関銃中隊(兵10113)指揮班に

 鳥取から上海へ行き敵前上陸の訓練を行う。マレーシアに行くと聞いていたので「こりゃ大丈夫だ」と思ったが、ビルマに行くと聞いて「こりゃ大変だ」と思った。
 上海からサイゴン(現ベトナム・ホーチミン)へ行き、そこからペナン(現マレーシア・ペナン州)へ。ペナンから4隻の輸送船に乗る。
 輸送船の船倉に馬を積み込む作業をしたが、馬は暴れるし足を踏まれるし大変だった。船倉は船の底なので馬の小便を外に出すのもつらかった。しかも誰もやろうとしないので連隊の馬全部の積み込みを3人でやらなければならなかった。
 しばらくして、4隻のうちの1隻から煙が出始めた。「ありゃなんだろう」と思っているとボンボン燃え始めた。積んでいた馬糧にショートした火花かなにかのせいで火がついたらしい。火事は船の船倉に水を入れて鎮火させたが、積んでいた馬が全部死んだ。この火事のせいで到着が20日ほど遅れてしまった。

【注】121連隊史によると、1943年8月23日、輸送船「羅津丸」(大連汽船?)が火災を起こしている。

1943年末頃ラングーン(現ミャンマー・ヤンゴン)に夕方着いた

【注】連体史では同年9月3日

 あくる日の昼ごろ、50機くらいの敵機がやって来て空襲が始まった。高射砲が撃ちはじめてきれいに弾幕を作るが敵機に届かなかった。そのうち大きな音がして、1時間ほどしたら輸送船が全部やられて埠頭が全滅した。輸送指揮官と船長が戦死した。現場に行ってみると、船のマストがちょこんちょこん出ていた。

(連隊史には「9月4日、安南丸他1隻がB24の爆撃により沈没」とある)


 ラングーンには慰安婦がいた。九州の部隊がやられちゃってそれといっしょにボロボロになって後退して来たらしい。ロバに荷物を載せて連れていた。どこを見ているのか分からない顔つきだった。
 一方ラングーンにはまた別の慰安婦たちもいて、夜になるとぼんぼりにあかりをつけて内地と同じような感じで浴衣を着て外に出ているのもいた。彼女達は「外へ出て軍隊でアレをしていれば3倍の給料になる。そして家族にも手当てがあるのでこうして来ている」と言っていた。ただ、後に日本軍と共に苦労した。

ラムレ島へ

 ラングーンからプローム(現ピエー:Pyay)へ貨車で行く。そこから歩いてアラカン山脈を越えてタンガップ(現タウングプ:Toungup)に着き、そこから発動機船でラムレ島(Ramree Island)へ。
 ラムレ島は平和な島だった。住民もよく協力してくれた。
 1944(昭和19)年ごろドイツの潜水艦がやってきて日本人はいないか聞きに来たと現地人が言っていた。


 ラムレ島の南西にあるチェドバ島(Cheduba Island)で気の毒な事件があった。チェドバ島には日本軍はいなかったが、ビルマ人に変装した英軍のスパイが潜水艦で密かにやって来て偵察していた。 そのスパイをビルマ人が捕えて日本軍に引き渡した。日本軍が取り調べると、そのスパイは日本軍の様子を調べるためにきていて、○月○日に迎えが来ることが わかった。それでこっちで作戦を練った。師団司令部から参謀もやってきた。
 出来上がった作戦の手順は、海岸に師団本部から派遣された非常に優秀な少尉の指揮する速射砲を置き、山の上に敵から捕獲した25ポンド砲を据えて援護させる。敵が陸にあがってスパイと連絡を取ろうとした時にまず速射砲が射撃し て、それを合図に連隊本部の森谷曹長が小原さんを含む1個分隊を率いて突撃し、敵を捕まえるか殺すかするというものだった。
 そして敵が巡洋艦でやってきて連絡員も船で海岸に来た。しかし速射砲は発射されず、スパイにそのまま逃げられてしまった。なぜ少尉が速射砲を撃たなかったのかは分からない。なにか変更があったと勘違いしたらしい。少尉はその後軍法会議にかけられ1等兵になった。
 そして大隊本部に帰って来た。すると猪股大隊長が森谷曹長に「お前だけでもやってくれればよかったのに。」というようなことを言ってしまった。森谷曹長は「小原、俺はもう内地には帰れない。」と言って、その後の戦闘で危険な任務に全て志願していった。そしてある時、英軍の戦車が2台やって来た時に攻撃に行って、頭を撃ち抜かれて戦死した。森谷曹長は同年兵で本部付きの本当にいい人だった。


 1944(昭和19)年、軍旗祭か何かがあった。指揮班には再召集になった兵がもう1人いて、その人が「小原、お前この戦争はどう思うね」と聞くので「そんなこと知っちゃいないよ。日本が勝とうが、アメリカが勝とうが知っちゃいないね。俺はこのビルマの果てで死んでいければそれでいい」といった。それを言った後に隊長がすぐ近くにいる事に気づいて、「聞かれてしまったかな」と思って 隊長を見ると、隊長がじーっとこっちを寂しそうに見つめていた。それが印象的で今でも覚えている。
 隊長とは仲がよかった。もう褌一つの仲。隊長も 現役の人とより、召集で入った社会を少し知っている人のほうがウマがあったらしい。年中「小原こないか。碁やろうよ」なんて呼ばれる。自分は碁はうまくな かったが「隊長殿、1本」なんてよくやっていた。”サイクル”という名前のオーストラリアの煙草をくれた。
 隊長の米田悦治大尉は後の戦闘中に20メートル先で撃たれて戦死した。戦後日本に帰って来てしばらくしたら隣の家の人が「小原さんは鳥取連隊ですか」と尋ねて来た。「そうですよ。」といったら「じゃあビルマにいかれました か」ときた。「ええ、そうです。」と答えると、「私の親戚でビルマにいったのが、米田というんですけどご存知ですか」と聞いて来た。「それは私の中隊長ですよ。」となり中隊長の話をした。米田大尉は結婚してすぐ召集になって、そのまま亡くなったそうだ。「中隊長には大変よくしてもらったので、1回お墓に参りたい」と言うと、米田大尉の奥さんが離縁したがらなかったが説得されて今は離縁して里に帰ってしまったそうで、行かない方がいいと言われ、それでとうとう墓参りには行かなかった。
 他にも戦後に戦死した戦友の家に行ってビルマでの状況を話した。仏壇に手を合わせて帰る時、おばあさんが「ありがとうございました」と涙を流して喜んでいた。


 ラムレ島では壕掘りばかりしていた。島は要塞のようになっていた。

1945(昭和20)年1月21日 英軍がラムレ島に上陸

 機関銃中隊の指揮班にいたので、戦闘はほとんどやらなかった。
 あるとき連隊から「今晩の8時を機して一斉に水路を渡ってビルマ本土に戻れ」という命令が下った。8時になり、日本軍の飛行機がやってきて爆音が轟いた。「あれ新司偵だな」と誰かが言った。そして爆弾をポロポロ2発落としていった。すると敵が下からブワーッと機銃を打ち出した。

【注】 ラムレ島での戦闘の様子は受領資料「鳥取長澤部隊、猪股部隊米田隊の最後」に詳しい】

 第2大隊がビルマ本土に渡る時【注 2月19日】に、日本兵約千名が大きな爬虫類(イリエワニ)に食べられて凄惨な死に方をしているのを見たという英兵の証言があり、現在ギネスブックに「動物がもたらした最悪の災害」として登録されているそうだが、渡河中はワニではなく英兵に撃たれてやられた。また、ラムレ島にいた時はカメは見たがワニは見なかった。

ラムレ島から英軍の包囲を突破して2人だけ脱出

 ビルマ本土に渡ったのち、戦友と2人で部隊を追及。北の方をうろうろしていた。(その時からビルマ人の変装をしていた?)。
 途中で他の部隊の2人と一緒になった。夜林の中で4人で野宿していると、後から人がゾロゾロきた。よくみると英軍の軍服を着ていて、グルカ兵の様だった。誰が言うともなく「もうこの辺で出て行って死んじまおうじゃねえか」。各自手榴弾を一つ持っていたので、「2個ブチこんで、後の2個で4人で死んじまおうじゃねえか」「そうしよう、そうしよう」。何かもう他人ごとみたいだった。
 それで4人でトコトコでていった。近づいてまた敵をよく見たら、天幕を張っているが、裸足で帽子をかぶっていなかった。その内むこうからビルマ語が聞こえて きた。ビルマ人だった。彼らは十人くらいで英軍が飛行機から落とす物資を街に売るために拾っていた。そして、彼らの天幕の空いている所を借りて1晩過ごし た。飯も食わしてくれた。
 あくる日になって、近くを流れる川にブクブク泡が立っている場所があるのをビルマ人が見つけ、「マスター、あそこに手榴弾を投げ込んでくれ」といって英軍の手榴弾をくれた。英軍の手榴弾は、安全弁を外せば4秒で爆発する。ビルマ人はおっかながってやらない。投げ込んでやる とビルマ人はワーッと遠くに行ってしまった。手榴弾が水中で爆発してしばらくすると、白い鯉みたいなのがいっぱい浮いて来た。そしたらビルマ人が喜んで取りに来た。その鯉をその場で焼いて食わして貰って別れた。


 それから4人になって行動していた。他部隊から来た2人は、1人は将校らしい男で、もう1人は関東弁を使うさばけた男で下町出身の人みたいだったが、どこか軍隊慣れしてないような感じだった。関東弁の男はおもしろい奴で「ああ、こん なでたらめな戦争やりやがって。負けるってこと分かっててやりやがる。挙句の果てはこのザマだ。」と言う。すると将校らしい男が「そういうことをいうのはやめろ」といった。


 ある日、雨が降って来たのでお寺に泊めてもらった。3日4日そこにいた。そしたらビルマのおばあさんがやってきて、 「マスター、バマセタ(?)がやってくるよ」と言う。バマセタというのは日本軍が作ったビルマの兵隊。「逃げなくていいのか」と言う。おかしなことを言うなあと思った。ビルマの兵隊が来たら日本軍は何処に居るのか聞くと言ったら、おばあさんは怪訝な顔をして帰って行った。 あくる日、ビルマ の兵隊がやって来た。そしたら全員が捧げ銃をして迎えてくれた。ちょうどその頃、対日蜂起したビルマ人がイギリスが独立させてくれない事を知ってまた日本軍と手を結ぼうとした時期だったらしい。あと少し早かったら殺されていた。
 それで「3日4日したら来るからこれを直しておいてくれ」と言って、英国の機関銃と実包20発くらいを置いていった。直すと言っても薬きょうが焼き付いているとか大したことないのですぐに直してしまった。3~4日してまたやって来て、「ありがとう」と言って持って帰って行った。日本軍が何処にいるかは教えてくれなかった。

敗戦を知る、武装解除

 地元の人にきいたら「ラングーンにいる」と いうので、セダンに行った。そしたら黒人兵が出てきて、「手榴弾を捨てろ」という。これは自決するためだから捨てないと言い争っていると、女の人がやって 来て「マスター、もう戦争終わりました。ラングーンに日本兵がいっぱいいるからそこに行きなさい」という。師団司令部があったのでそこで通訳をしていた人 らしかった。そこで日本が負けたという事を初めて知った。


 そのうち「MP」と書かれた4人乗りの小さい車が2台やって来た。「MP」って いうのはどういう意味かなと思っていたら、それに乗せられてラングーンの方へ連れて行かれた。ラングーンまでの道路は、ラングーンへ向かう車輛でいっぱい だったが、クラクションを鳴らすとみんな道を譲るので「MP」っていうのは随分権限を持っているんだなと思った。【注 憲兵=Military police=MP】 助手席にはビルマ人が乗っていて、運転手(英兵?)もビルマ語が分かるようで「こいつらは大丈夫か」とビルマ語でビルマ人に聞いた。ところがこちらもビルマ語が話せるので「何も持ってないから大丈夫だ」と言ったら、ゲラゲラ笑っていた。その後は何も言わなくなった。


 そうこうしてラングーンに着いた。日系2世らしき人が来て尋問を受けた。どこからやってきたのか聞かれたので、ラムレ島からやって来たと言ったら、「あなたの部隊では今は長澤部隊ではなく馬場部隊になったので覚えておきなさい」と言われた。
 その夜発熱したので、野戦病院に入れられた。1週間ほど入院したが、英軍はキニーネを浴びる程持っている。日本語の分かる軍医がやって来て「口を開けなさ い」といってキニーネを放り込んできた。また、日本軍では包帯は1度使うと、また洗って再使用するが、むこうは1度使うと捨てて新しいものを使う。豊富 だなと思った。
 野戦病院には、イギリスの看護婦と日本の看護婦がいた。日本の看護婦は慰安婦で、どうも慰安婦として帰したらまずいから看護婦にさせたらしい。

ラングーンの収容所に収容

 退院すると収容所に入れられた。その収容所は200人くらいの規模で、ビルマ人を収容していた所だった。ビルマ人の格好をしていたので、イギリス人には 日本軍との違いが分からないから、日本兵の収容所には入れなかったらしい。初めはビルマ人と一緒に暮らしていたがだんだん離された。
 収容所の衛兵はインド人だった。インド人の軍医もいて、ある時「日本はインド独立のためにインパールまでやってきた。だけどインパールで帰ってしまった。イ ンパールに来た時のために食料なんかを貯めておいてあげたのに。もうちょっとやってくれればよかったのに」ということを言っていた。日本と戦って いても、日本がチャンドラ・ボースを支援していた関係でインド人とは仲がよかった。作業に出ているとき、収容所の外にインド人がやって来て鉄条網ごしにタ バコを2、3箱投げ入れた。歩哨のインド人が文句をつけると、そのインド人は日本語で「バカヤローバカヤロー」と日本人にわかるように文句を言っていた。 煙草を拾って吸っても、歩哨も含めてインド人は何も言わなかった。


 ペグー飛行場によく作業に行った。そこには大きな寝像があった。その前を毎日行き来していた。


 途中でインド人ではなく、英人の監督が来た。その監督は仕事をしていても「ジャップ」だとか「ギャラップ」だとかやたらうるさかった。通訳になんであいつ はうるさいのか聞いたら、その監督は捕虜として日本に送られ、さんざん酷い目にあったから敵をとってやるといっているという。「しょうがねえ、日本はそんなことをやっていたのか」と思った。
 ある日を境にその監督が来なくなった。その後現地の病院のドブさらいの作業に行ったとき、その病院に青白い顔 をした監督がいた。どうもマラリヤになったらしい。通訳を通じて「何だ寝てんのか、早く元気になってまたギャラップって言わないか。」と伝えた。そしたら その後、その監督が袋1杯にチョコレートだとかお菓子を持ってやってきて、みんなにくれた。そして笑顔で捕虜を見ている。それきり本国送還になったのか来 なくなった。


 内地に帰るようになった頃(5月頃か)、師団の参謀がやってきた。参謀は飾緒を付けて、ピカピカの滑車のついた長靴をはい て、まっさらな格好をして颯爽としてやってきた。こっちは英軍の落とした落下傘を破いて作った着物や古い英軍の軍服なんかをきて、おんぼろな服装だったので、まだこんな格好をしている奴がいたのかと思った。
 参謀は第1声に「君達は気の毒であった。捕虜であった。」と言った。するとみんなが「我々が 戦っているうちにみんな引き揚げてしまった。我々はほったらかしになっちゃったんだ。それでどこに行けばいいかわかんなくなって、全滅しちゃってやっと生き残ったんだ。それが君達は捕虜になったなんて、なんてことだ。」と怒った。「あんなの叩き殺しちゃえ」となってワーッと行きだした。そしたら英軍の兵隊が泡をくってやって来て止めた。それで参謀は早々に帰った。
それから1ヶ月後また来て、今度は「この前はすまなかった。いよいよ君達も内地に帰れるように なった。だから決して短気を起してくれちゃ困る。」と言った。逃亡してビルマ人に化けて生活するのがたくさんいたので、そのことを注意しに来たらしい。
「何が帰るだ。そんなことできるのか。」と思っていたが、2、3日して帰る支度をしろと命令が出た。着替えだとか私物を持って、3列になってラングーンの埠頭まで行った。そこには中国人の慰安婦とか、ビルマ人と一緒になった日本人がバナナとかいろんなものを持って待っていた。どこで聞いたか、帰れることを聞きつけて集まったらしい。


戦犯で引っかかった奴も結構いたが、ビルマ人には好感をもっていた。

ラングーンからリバティ船に乗船

 船内ではどこに連れて行かれるかわからないので、もし変な所に連れて行かれたら自決しようと、誰かが持ち込んだびらん性の毒ガスへの治療薬が配られた。
 船はずーっと南へ行き、2日目にはジョホール水道に着いた。これからどこ行くんだろうと思ったら、南十字星を背に北東に向かうので、「日本に本当に帰れる」と思い、みんなが薬を捨てた。
 途中カメが泳いでいるのを見たり、くじらが潮を吹いているのを見た。


船の中に北朝鮮と、南朝鮮出身の志願兵がいた。士官候補生ですごく頭がよかった。その2人が神妙な顔をして話をしている。「どんな話をしているのか分からないから、日本語で話さないか」と言ったら、「そうだねえ」といって日本語で話しだした。「今、我々は北と南で、これは資本主義と共産主義の2つに必ず分かれるだろう。そうしてまた戦争をやるんじゃないか。その時私は指揮者として先頭に立たなければならないだろう。お互いはこうやっていても、何かまた敵味方になるような気がする。」と言っていた。その時の神妙な顔を今でも覚えている。


 船には看護婦と慰安婦と台湾人も乗っていた。看護婦と台湾人はマカオで降りた。
 船の中で戦犯の遺骨をどうするか問題になった。「もし戦犯の遺骨を持って帰ったら、家族はどういう目で見られるんだろう。戦争犯罪者の家族として見られるんだったら、これはもって帰らないほうがいいじゃないか」という結論になった。それで元気なものが甲板に整列して、汽笛を3回ならして水葬にした。今考えてみると遺族に帰した方がよかったんじゃないかと思う。戦犯と言っても自分から悪い事をしたわけじゃない。
 また船の中で「あ、お前生きていたのか」という事があった。ある兵隊が戦友の口が開いてハエがブンブンたかっているから、てっきり死んだと思って指1本を銃剣で叩いてとって、それを遺骨として持って帰った。しかしその兵隊は後に収容されて助かっていた。どうして自分の指がないんだろうと思っていたら、船で自分の遺骨と戦友に遭遇して真相が分かった。


 船はとうとう瀬戸内海に入った。船が動かない。なんだろうなと思って甲板に上がってみた。鏡の上を船が走っているみたいで、下を見ると鯛なんかが泳いでいた。日本はなんていいところなんだろうなと思った。どこにいってもこんなきれいな水のところはなかった。揚子江やイラワジ川はどこへいっても茶色い。国敗れて山河ありとはこのことだと思った。

1946(昭和21)年7月27日 広島港着

 そこ に1晩寝て、あくる朝出発しようとすると、4歳か5歳くらいの男の子がどこ見ているのか分からないような目をしてボロボロの格好で裸足でやって来た。それで「兵隊さん、飯少しおくれよ」という。「あーやるよやるよ、でもお父さんとお母さんはどうしたんだい」というと、「ピカドンでみんな死んじゃった。」と言う。かわいそうだなあと思ってみんなのご飯を分けてやると、またどこを見てるのか分からない顔をしながら「ありがとう」といいながらヒョロヒョロウロウロ出て行った。ひどいもんだなと思った。
 引き込み線の所に出てまわりを見ると、なんにもない。松の木が真っ黒に焦げたのが残っていた。50年間何も生えないと聞いていたけれど下を見ると芝生が少し目を出していた。


 倉敷から伯備線に乗って鳥取へ。伯備線に乗ったら、なんだかみんなが変な目で見てくる。「勝った勝ったと言って、負けて帰ってきやがって。このザマはなんだ」と言う。こっちはオンボロになって働いて、やっと帰って来たのに、負けてきやがったと言う。本当に情けなかった。「御苦労さんだった。こんなになっちゃってねえ」と言ってくれる人が誰もいなかった。
 鳥取駅に着いた。駅前にはビルマで戦ったインド兵がいた。鳥取連隊を兵舎にしてあちこち遊んでいるらしい。ビルマ語で話しかけると向うもわかるので、懐かしい。敵対心はなかった。そして親戚宅に復員。


 帰って来てもいい事は一つもなかった。店を出そうとすると、警察があんたはふさわしくないと言って許可をくれなかった。何一つ悪いことはしていないのに。復員軍人と言うのは本当にカスだった。
 藤沢の家に帰っても、ビルマの部隊は全滅して死んだろうからという事で家は勝手に売られてボロボロになり、知らない人が住んでいて、家財道具もみんな 売られて仏壇しか残っていなかった。親の遺産なんかも全部とられてしまった。年下の兄弟もバラバラになっていた。
 食っていけないので裏の仕事を色々やった。中国人と組んでアメリカの物資を横流ししたり、韓国人とも手を組んだ。韓国人は戦勝国民と言う事で日本人より配給が多かった。それで幽霊人口を作って3人だ、4人だと申告してその分の配給を貰って利用した。
 表立って商売をやらしてくれないんだからしょうがない。なんでもやった。負けてそのしわ寄せが全部こっちに来た。言われたとおりにやっていただけなのに。

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