インタビュー記録
1939(昭和14)年 海員養成所(横浜)卒業、見習い水夫に
東洋汽船のゼンヨウ丸乗船、船ごと徴用を受ける。
近衛3連隊の兵隊を乗せ、敵前上陸のため武漢、三鎭、漢口へと揚子江の上り下りを繰り返す。揚子江は毎日錨の鎖に死体が幾つも絡んだ。
未だ子供なのでウインチが体重で降ろせず困った。馬が怖かった。
揚子江で夜泊めていると虫が凄く寝ていられない、風呂に水をはって暑さをしのぐ
1941(昭和16)年
東洋汽船良洋丸乗船(操舵手)、7000㌧、ジーゼルエンジンの当時比較的新しい船。
同年8月 宇品港待機
次々に船が集まってくる、10月、11月になると夜が明けるとあの船がいなくなった、この船がいなくなったと各地に散らばっていく。
同年11月半ば 善通寺の輪輪部隊を載せる
東洋汽船のマークを付けて昼間はバンコクの辺りを走り、夜移動して、12月7日タイ・チュンボンへ敵前上陸。太平洋戦争の開戦を聞きショックを受ける。
偉いところへ来ちゃった、どうやって故郷に帰ったら良いのだろう。
同年12月 広東に行き、香港攻略部隊を乗せ(38師団か)香港・九龍へ
1942(昭和17)年
1月、香港攻略部隊と連隊旗、香港攻略時の英軍の白旗を乗せ南下、インドネシア・アンボン島へ敵前上陸。攻略すると守備隊と交代し、西チモールへ敵前上陸、原住民が逃げる電気の光が山腹に連なって見える。高射砲を降ろしダイハツに積んでの運搬
同年 パラオの遊郭の女性をニューギニアに運ぶ
同年7月 南海支隊の兵を乗せニューギニア ブナ・ラエ・サラモアへ
ラバウルで恩賜の煙草を貰って、「死ねってことだよな」と思いながら、恩賜の煙草を人にあげるのもと思ってトイレで帽子で一生懸命煙を仰ぎながら煙草を覚えた。
B17の編隊爆撃を受け、舵を取っているが頭は真っ白に。
年を取った兵隊はワンワン泣いているし、偉い人は隅に言って鉄兜を被って隠れているが舵を取っているので逃げるわけにもいかない。250キロ爆弾が当たって不発だったが、船底の砂袋にめり込み、マストのワイヤに信管が引っかかって飛んで破裂しないがデッキの鉄板を破り、あと一発が船底下で爆発が起き底に穴が開いて傾く。
舵をとっているとわりに運が良かった
(※以下はインタビュー映像にはないが本人原稿にあるエピソードです。)
B17の夜間攻撃、高射砲がまるで届かなくみじめ。
日本郵船のさくら丸が被弾、マストに人間の花が咲いたよう。
米機の20才ぐらいの飛行兵が撃ち落とされて捕虜になり、デッキの腰掛けに後ろ手で繋がれていた。米軍機を見上げるとニコッとしていたのが印象的。
ガダルカナル
飛行場設営部隊、川口支隊、一木支隊、青葉支隊と全部運ぶ
同年8月~11月?
広島で停泊、船底に牡蠣が付き14ノット出ていた船が7ノットしか出ない
船団の中で遅れるが先に行った船が魚雷攻撃を受ける
沖縄沖(時期不明)
5~6本の魚雷がむかってくる。右いっぱいに舵をきり、舵輪にしがみつくと船体が少し浮き船底を魚雷が通り抜けた。
1943(昭和18)年
徴兵検査のため下船、翌年5月入営予定となり、それまで麗洋丸に乗船
サイゴンに 乗せた兵隊の中に同郷のデーブ大久保のお爺さんがいた。
部隊はのちビルマに。預かった時計が遺品となる。
1944(昭和19)年2月17日 トラック島沖で被弾
珊瑚礁の中で何十隻という船が撃沈された。
12時~4時で夜中の当直、交代して寝たと思ったら「起きろ起きろ戦闘準備だ」ブスブス文句を言いながらブリッジまで上がっていったら寝ていたところに爆弾が落ちた。70隻近い船があったのが、お昼頃になったら浮いている船はなかった。可愛がっている少年が「西さん」と言うから振り返るとお尻が半分飛んで目がとろんとしている。機関銃を撃つ人も足りないので自分も打ち返しながら振り返ると甲板から遺体がごろごろ落ちていく。
大阪商船の愛国丸が爆弾が当たって煙が上がってそれが降りたらバカバカ泳いでいる人ばっかり。動いている船が無くなったその時の空しさというか悲しさというか何とも言えない。蛍島というヤシの木が50本ぐらいの小さな島に泳ぎ着き、艦載機の機銃掃射、ヤシの木の根っこに掴まって避けている。それから神も仏も信じない口になった。
夏島に行く。明石という工作艦でパラオに。工員の水飲み場で着ているものを洗濯して裸で乾くのを待っている。武蔵か大和に着るものを貰いに行った。冬服で、台湾の高尾に。敗残兵だから見せたくないのだろう、列車を目隠ししてキールン経由で神戸に。靴も上下離れているので紐で結わえて、その1団が神戸を歩いたら勤め人がその格好に避けていく。
1944(昭和19)年5月15日 海軍に入団 現役
追浜、厚木航空隊を経て、弓ヶ浜で震洋の格納庫を掘る、相模湾から上陸する米軍を想定していた
1945(昭和20)年 8月15日
徹底抗戦派の上司に「嫌だと思ったら一歩前に出ろ、たたき切ってやる」と言われ、反乱軍に。仲間の撃ち合いとなるが、誘った士官が変わっちゃって俺らの逮捕に来る。掴まって軍法会議に岡崎航空隊へ連れて行かれるが、うやむやのまま処分されずに終わる。
1946(昭和21)年~1949(昭和23)年
引き上げ船に乗船。シンガポール、スマトラ、パレンバン、マニラ、釜山、コロ島と送った人を迎えに行く。