インタビュー記録
エフォギの激戦
1942年9月7日、南海支隊はポートモレスビー攻略のため、オーエンスタンレー山脈中標高1,350mのエフォギ村に到着した。深い谷の向こう側にはポートモレスビーからきた豪州軍約1,000名が陣を構えていた。支隊はかつぎ上げてきたいく門もの大砲をエフォギの丘に据え、迎え撃つ準備をしていた。
9月8日、命令を受けた第5中隊は夜明け前の暗闇を手探りで急斜面を回りこみ、各自掩体壕(タコツボ)を掘り、攻撃に備えた。第3小隊の42名は最前線で配備についた。
6時半、最初の襲来は軽機関銃の一斉射撃に敵は驚き引き返したらしく、銃声は数分でやんだ。戦死者なし。
7時過ぎ第二波攻撃を受ける。今度は敵は第3小隊の正面から逃げ道を求めて攻め込んできた。30分程度の銃撃戦で2名の戦死者がでた。
連隊本部から「本隊がこれから総攻撃をかける。大勢の敵が必死になって出てくるはずなので、各兵の間隔を広くし、敵兵を1名も通さず撃ち倒せ」という命令が出た。
8時ごろ「来たぞ」の声とともに敵は押し合いへし合い雪崩を打って襲い掛かってきた。敵の先頭は連発銃を腰だめにして弾丸を振り撒くように出てくるので、一瞬の油断もできなかった。第3小隊は第三波の攻撃で25名の戦死者を出した。残りの兵力は15名。
14時ごろ第四波攻撃が始まる。
小隊長から「友軍の本隊が近くまで来ているので、敵兵は今までより必死になって出てくるぞ」と知らされていたので、皆覚悟はできていた。撃ち合いが始まったが敵兵はあまりにも多く、弾丸の装填が追いつかない。小隊長もたまりかねて「西村、銃を貸せ」といわれ、全弾5発を装填して渡した。「おい西村、弾がなくなった。もう一度つめてくれ」といわれ、弾を詰めなおして小隊長に渡すと、「4人やったぞ」といいながら銃を受け取り構えようとしたその瞬間、敵の一斉射撃を受け倒れた。即死だった。
第4波の攻撃では7名の戦死者が出た。生存者は8名に減った。
小1時間ほどで銃声が小止みになったので、壕から首を出し周囲を見回したが、元気なものは誰も見つからなかった。西村が近くに倒れていた重傷兵の銃を取って戦いを続けようと、タコツボから身を乗り出したとき、左前方2m足らずのところに敵兵の走りかかってくる足が見えた。第五波の攻撃だった。
(西村さんの手記より)
《しまった!》と思いましたが、もう遅い。跳ね起きようとした私の頭部に敵兵の機関銃が差し付けられて、連射を浴びせられました。何が幸せになるのか、壕から飛び出した私の鉄帽に、銃口が当たり、滑ったらしく、鉄帽は割れて鉄帽の紐で、首にぶら下がりましたが、弾丸は頭には当たらずに、右肩をかするような、貫通銃創で済みました。
私は《もうこれまでの命》と覚悟を決めて、鉄帽をかなぐり捨てて、走り去った敵兵の後を追いました。
約10m位で追いつき、敵兵の腰に、むしゃぶりついてから、右腕の利かないのに気が付きましたので、組みついた左腕を離して、自分の帯剣を抜き、こちら向きになった敵兵の胸をめがけて突きかけました。剣は、あばら骨に当たったらしくコツンと止まりました。痛かったのでしょう、敵兵はその剣を刃の上から、素手でつかみ、分厚い革靴で私の腹を蹴りました。私は剣をもぎ取られて、仰向けにひっくりかえりました。
私は離れたら打ち殺されると思いましたので、夢中で跳ね起きて、もう一度、敵兵に組みつきました。私の左手が、ちょうど敵兵の帯剣に触れましたので、これを引き抜いて、今度は敵兵の腹をめがけて、力いっぱいに突き立てました。今度は十分に手ごたえがありました。敵兵は悲鳴を上げてうずくまりました。その悲鳴は、ちょうどサイレンの鳴り終わりのときと同じ感じで、今でも耳から離れません。
42名の小隊でただ一人生き延びた。
「身長は6尺余り(180㎝強)、ひょろりとのっぽの割には顔が小さかった。青年というより少年。だから10代です。こんな小若いし(衆)を何で殺さないかんだろう……。一瞬躊躇した。でもやらなきゃこっちがやられる。」 後に西村さんが高知新聞の取材に語った言葉。
西村さんは3日後、友軍に助けられ野戦病院に運ばれた。第五波の攻撃では死者3名、負傷者5名だったが、最終的にエフォギの激戦で生き残ったのは42名のうちただ一人だけだった。
西村さんは最後に両軍の名誉のためにいっておきたいことがあるという。「42名の兵士たちは補給が途絶える中、最後まで陣地から一歩もひかず戦った」。また、「小隊長が戦死し、私が埋葬する間、6~7m先にいたはずの敵はその隙を衝いて撃ってくることはなかった。彼らにも<戦場の武士道>があったのである」