インタビュー記録
1941(昭和16)年3月
尋常高等小学校卒業。満蒙開拓青少年義勇軍志願 出身の寺屋小学校は開拓団教育に熱心な学校で、同級生で8~9人が義勇軍に志願、後に校長、担任の先生も満州に渡った。
1941(昭和16)年8月 満州に渡り、勃利(ボツリ)訓練所に入所
農業訓練、規律などの教育、炭焼き・畜産など特技訓練にあたる
1944(昭和19)年末 方正開拓団が結成され入植
1945(昭和20)年8月9日 ソ連侵攻 開拓団との逃避行
若い男性は他にはいなかったため、18~19歳の義勇軍85名で 避難民(開拓団と方正の街の住民)500名を連れて逃げる事になる。方正近くの開拓団には抗戦をしたため皆殺しになった団が幾つもあり、 村々を通ると井戸の中には開拓団の人の死体が溢れていた。 村々では満州軍兵士による叛乱が始まっており、現地民は山に隠れ村には兵士が残っていて攻撃をしてきた。至近距離で撃ち合いながらその村の中を幾つも通過した。避難民の中には外に飛び出てしまい敵と思われて味方の義勇軍に撃たれる者もいた。 村は通れないということで山中を移動、生のジャガイモを食べる。 義勇軍には軍から武器の保管場所が知らされていたので、避難民にはいよいよの時は自決するよう手榴弾が渡されていた。行軍について来られずわざと遅れて自決を図る者が続出した。あちらこちらで自決の音が聞こえるが互いに人のことをかまっている状況ではなかった。 砲弾の破片に当たり膝を負傷、うじが湧いてくる。若いので戦争なんて何という事はないと思っていたが、弾に当たった後は急に気持がへなへなとなってしまった。 道案内の満州人を通報されたら困るということで最後は殺した。
1945(昭和20)年8月29日
ジャンジャットという村に着く。ソ連軍が村を包囲、軍使が6名来て敗戦を告げた。義勇軍は若く勢いが良かったので敗戦を信じず、軍使を並ばせていたが、開拓団の中に一人同行して身分を隠していた憲兵が「これは普通の事ではないから真面目に考えるように」と諭し、申し出を受け入れることになる。どうせ死ぬんだからと皆で銃を川に捨てた。
1945(昭和20)年12月 ビラ収容所(ハバロフスク地方ビロビジャン地区)に抑留
3年間伐採の強制労働、ノルマがあり、終わらないと帰れない。 夏の間に死体を入れる穴を掘っておく。冬になると点呼の時に毎日数人倒れたが、倒れた者はそのまま穴に投げ込まれた。 義勇軍の者は若く農村出身だったから比較的強かったが、都会育ちの憲兵などはパタパタと倒れてそのまま穴に投げられた。