インタビュー記録

1944(昭和19)年4月20日

 旧制中学校4年生の時、陸軍特別幹部候補生(第1期)に志願。
 千葉県柏東部第102部隊第4教育隊に入隊。

同年8月5日 満州・牡丹江温春第9164部隊へ

同年8月25日 間島省(かんとう)間島8316部隊へ

 本土では航空兵の訓練が難しい戦況だったため、満州か中国へ行き先の希望を聞かれる。
 中国を希望したが、もう一人の中島候補生と取り違えられ満州へ。

1945(昭和20)年7月 第39飛行場大隊東京城(とんきんじょう)分遣隊9164部隊

 航空士官学校に行っていた兄と同じ部隊になり、訓練の後格納庫の脇で頻繁に会うことが出来た。
 航空隊には羊羹やチョコレートなどがふんだんにあり羊羹を片手に持ってかじりながら色々な話しをした。

1945(昭和20)年8月9日 ソ連侵攻

 日本とは違う聞き慣れない飛行機の爆音、非常呼集のラッパ、ソ連侵攻を聞く。
 翌日兄から連絡があり「命により士官候補生は南下する。貴様たちとは今後別行動になると思うので貴様とは最後の別れになるかもしれない。軽挙妄動するな、命を粗末にしてはならない。最後まで頑張るんだ、死して後に止まず」と言われ、おちょこほどの少しのお酒を飲み交わし握手で別れをする。
 兄貴の手の熱い温もりが身体中に行き渡るようだった。言いたいことは山ほどあったがそれだけで別れた。
 (後日兄は北朝鮮まで行けたが、1年後黒海まで送り返され抑留されたものの復員)

同年8月13日 通化に転進命令を受け出発

 他の中隊の隊長は家族をピストルで射殺して来ていた。
 鏡泊湖あたりまでは行けたが雨が降り湿地帯で自動車の車輪が廻らない、ガソリンも無くなる、道が狭いので前がつかえると後ろも先に行けない。
 野営する事になり、そこで写真や記録を全部焼く。開拓団もいて乳飲み子を背中に背負い、子どもを両手につなぎ、荷物を斜めにかけて這うように歩き出している。「兵隊さんどうか私たちを一緒に連れていって下さい」と言われるが軍の命令で通化までは大急ぎで行かなければならない。捕まった後そういう人たちを格納庫で多く見かけたが、ソ連兵は接触させなかった。

同年8月16日か17日頃 戦車群に取り囲まれ、武装解除

 敦化沙河沿間の山中で電信柱を砲にした様な戦車群(T34など)と軽機関銃を持った歩兵にうわっと取り囲まれる。こちらは99式歩兵銃と手榴弾2個のみ。中に手榴弾を投げたのがいたが、戦車の間の歩兵がマンドリン(機関銃)で撃ち即死した。
 噂では天皇が終戦の詔書を出したと聞こえていた。部隊として抵抗しろともするなとも命令は何もなく、皆肉体的にも精神的にも余裕がないところで、あっという間だった。 武装解除され、敦化(とんか)に収容。

同年10月12日~ 帰国のためと偽られ牡丹江へ1日50キロ、5日間の行軍

 満州の水は硬水でそのまま飲んではいけないと言われていたが、兵隊の水筒は600ccしか入らない。死んでもいいと思って川の水を飲んだり、民家の瓶の中の水をぼうふらが湧いていても飲んだりしたが、不思議なことに病気になった者はいなかった。

同年10月 牡丹江郊外の掖河(えきか)の幕舎に

 掖河駅で満州中からかき集められたありとあらゆるもを貨車に積み込んだ。日本の復興には出来るだけ沢山積めと言われた。食糧、木材、ガラス、トタン板、ゴム製品。積み終わると貨車は出発し次の貨車が来る
 掖河は激戦地で、たこ壺に身体を半分乗り出したまま戦死している日本兵が服の外は白骨化しているが服の中は蛆虫が湧いたまま。ソ連兵の死体はないが、あちらこちらに日本兵の死体がある、重なり合っていたり、ぽつぽつとあったり。自主的に荼毘に付して廻った。

同年11月3日 貨物列車に乗せられ北上

 40名×25両に、資材や監視兵を載っけた車両、指揮車、炊事車など全50両 3日目ぐらいになって北に行きだしたのが分かった。天気が悪く、窓もないので最初は分からなかった。だんだん寒くもなり、日照時間も短くなる。
 鍵がかけられていたがある日突然鍵がはずされ一斉に飛び出して排便をする、先に通った人たちのあとが残っている。

同年11月18日 イルクーツク州タイシェット地区46キロ地点第5収容所に入所

 15分か経つか経たないうちにかゆくなってきた。電灯がないので松明をつけるといっぱいうようよした南京虫が一斉に隠れてしまう。2~3匹殺すが臭い。寝るとまたありとあらゆる所から寄ってくる。

 翌朝所長から「指示に従って仕事をしなさい、絶対に逃亡は出来ない」確かに-40度ぐらいで食糧はなく諦めざるを得ない。

 伐採作業、積載作業にあたる。作業場は収容所から3キロほど歩いたところ。カンボーイ(監視兵)が鞭を振り振り蹴飛ばしたり銃床で蹴り上げ現場に急がせる。

 作業成績で食糧のばらつきはあったが、少なくなった人は働けず更に減るので2~3ヶ月して自分たちで均等割に変えた。コーリャンや粟や稗の雑炊、黒パン、1945年はウクライナ地方が凶作でソ連自体が食糧が少ない事もあった。

 死亡者の8割が1946年の1~3月に亡くなった、近隣の第7収容所では30何%の死亡者があったからそれに近い数字だったろう。夜喋っていた人が声がしなくなるから見ると飯盒と箸を持ったまま死んでいる。朝起床になると隣が起きない、声をかけると死んでいる。栄養失調はこういう風に死ぬのか、あるいは楽かもしれないな。私も色々考えたけれど、「俺は絶対死なないぞ、絶対負けないぞ」と。信念で通したと思っているけど、運が良かっただけだろう。

 当時の埋葬は、死体がカチンカチンに凍っているので保管小屋にマグロが積んであるようにどんどん入れ、どんどん埋める。1-2月は土が硬くて掘れないので、山のように薪をつんで燃え尽きた頃20センチぐらい掘れる。また薪を積んで20センチぐらい掘る、それを1日3回ぐらい繰り返し、一つの穴に3体ぐらいいっぺんに入れて掘った雪と土の混ざったのをかけるので、春になると骨が出てくる。埋葬作業は1度だけやったが作業に行く人間はどこの部隊の誰か知らされず行って帰ってくる。

 朝ご飯は黒パン150gと飯盒の中盒にスープを軽く1杯、小さな青いトマトが入った塩スープ。昼は中盒のカーシャ(粥)。朝、昼の分を食べて仕舞うので冬は松の皮の下の薄皮を煮ると真っ黒な昆布の佃煮のような感じ、岩塩で味付けするがパンか何かを犠牲にしないと岩塩も手に入らない。
 夏はいっぺんに花が咲いて草が生えて、食べて良いか悪いか分からないような葉っぱを炊いて食べる。もう少しするときのこが出てくる。雑嚢一杯のきのこを飯盒で炊いて食べる、色んな色のもある、口に入って腹一杯になって死ぬのならそれでいいじゃないかと。白樺の木の樹脂を集め、湧かすと甘い液。

 作業は-40度までさせられた。丸太の自動車積載は、機械も無いのでロープで人力で積んでいく。冬になって凍ってくると氷柱と同じ、丸太が落ちるのと一緒に落ちる事故にあったが隙間に身体が滑り込んでかすり傷で済んだ。
 モーターピラー(電動のこぎり)を使った時、コードが50mぐらいと短いので道路の貨物自動車の発電機から蜘蛛の巣状に散らばる事になり、木がコードの上に倒れないよう気を使う。使用中ピラーが止まって仕舞い、油を入れたりスイッチを点滅したりしていると、また動き出した。「倒れるぞ」とピラーを引いたら後ろにカマンジールが立っていて、彼の足をかすり、数センチ巾で深さ5-6㎜切って仕舞った。血がどっと出て、慌ててスイッチを切った私も自分の指を切って仕舞った。倒れる木の後ろに立ってはいけないのは鉄則。営倉入りかなと覚悟したが向こうも自分が悪いと思ったのか何も無かった(この話しは3本目に収録)。

 健康診断はロシア人の女性の軍医さんの前に裸で並ぶと、お尻をつまんでひねりその戻り具合で等級を決める。1級・2級は重労働、3級は軽労働、オカ(OK)は軽作業、ジストロフィーは病院に収容。3級の時は医務室勤務や衛兵宿舎勤務もした。

 作業出発時5列縦隊に並ばせる。日本なら番号をかけ掛け算で合計何人と計算するが、ロシアの兵隊はそれが出来ない。5、10、15と勘定していくので途中で声をかけると忘れてしまって最初からやり直し。小便だ腹痛だと声をかけて時間を延ばしたが、そのうちばれてしまった。

 トイレは板を2枚渡したものをまたいで並んで何人もしゃがめる、情報交換を行った。冬になると排泄物が凍ってどんどん同じところが高くなってくる、糞塔をつるはしで倒すのが3級の仕事。小便は大きな四角く掘った穴を皆で囲んでする(この話は3本目に収録)。

 日本新聞というのが1946年秋頃から週に3回発行される。A1版で裏表(最終的には2枚4頁)、ハバロフスクに新聞社があり、イワン・イワノビッチ・コワレンコ中佐が編集長、公称20万部、北朝鮮からソ連の収容所のある殆ど全域で配られた。活字に飢えており、日本の情報もあって、米兵は日本で悪いことをしているんだなという記事だったが、幾らソ連軍が立派だと書いてあっても満州でソ連軍がした事を見ているから嘘をつくなとあまり信用しないでいた。
 しかし思想的な面は段々変わってきて、若い優秀な人間をピックアップし教育をしてラーゲルに戻す。共産主義と、天皇制打倒の教育、作業を通じて社会主義共和国の強化、反動分子の摘発。毎日のように集会をやり勉強していない人間をつるし上げてもっと奥地に送る。ソ連がやらせたかもしれないけど、それに動かされた日本の兵隊がたくさんいる。
 だんだん激しくなりはじめた頃に医務室勤務になり、来たばかりの女医さんと3ヶ月ほど勤務、その人のおかげでロシア語を覚え簡単なカルテも書かせて貰うようになったが、彼女がレニングラードに帰り、自分も伐採作業に戻される。

1947(昭和22)年12月2日 伐採作業中負傷

 太い木を切る方が効率は良いが、15~20センチの太さの木が密集した松林に行かされた。数本切らないと薄暗くてよく見えない。1本切ると倒れず隣の木に引っかかる、それを切ると2本目も隣りに引っかかる。危ないぞと用心しながら揺さぶったが細かい枝が絡まって倒れない。3本目を切り始めて間もなく記憶が無くなった。
 相棒によると半分ぐらい切った3本目の切り口がはね、同時に風向きが変わって木がすとんと下に落ちた。私はその下にいて下敷きになり右足首を骨折。 タイシェット第3病院に入院

 頭痛は長く取れずロシア語では説明出来ず困った。今でも右足の方が少し細い。 この病院に行って元気で戻ってくる人を見た事が無かった。とても大きな病院で、収容しちゃ死なれ収容しちゃ死なれ、周囲には死体が一杯埋まっていると思う。

 看護婦さんはとても親切で綺麗だった。
 数日後ギブスをしてくれると早速働かされる。盲腸患者ばかり収容されている病室があり、7床が常に埋まっている。来るのは大体遅く8割が腹膜炎を起こして死んだ。後に日本の軍医さんが外科病棟に来てから盲腸で死ぬ人は殆どいなくなった。
 クリスマス近くになって看護婦さんに手伝ってくれと呼ばれて行くと、クリスマスツリーを作っていた。針を使ってぶら下げるものを色々作らされた。向こうはぬいぐるみを作る習慣だったが、紙や針金を使って星や何や色々作ると面白くなり徹夜でやって仕舞った。翌日余所の病棟からも看護婦さんたちが見に集まった。

 軍医の奥さんが出産でその手伝い、隣の病棟の看護婦さんが発疹チフスで入院の世話。
 メーデーを自主的にやれと言う。お祭り騒ぎが好きという人間はいるので、アクチーブは相手にせずにやる。合唱団に組み込まれ最後に「故郷」を歌った。ソ連の軍医や看護婦や歩ける患者も来て一緒になって歌ってくれた。私もお腹の底から絞るような声を出して歌った。

1948(昭和23)年5月18日 病院を出発

 また何処かへ。
 ナホトカに着くと1週間ほどだったがアクチーブの教育が徹底的に始まった。反抗した者や何の気なしに話したことが漏れて奥地に転送された者がいっぱいいいたと言う。

同年6月11日 英彦丸に乗船

 一人ずつ名前を呼ばれて上がっていくが何時呼ばれて引き戻されるか気が気じゃない。上がったら真っ白い制服を来た船員さん、赤十字の看護婦さんが並んで「ご苦労様でした」あの時の嬉しかったことは今でも忘れない。日本の女性は綺麗だなと思った。
 タラップに将校が10名ぐらい並び1名が上に上がって「諸君、長い間ご苦労様でした。あらゆる困難に打ち克って我々の祖国日本国へ帰るのだ。この船にもソ連を我が祖国と呼ぶ不逞の輩が乗っていようが我々は日本人なのだ。万世一系の天皇を抱く日本国民である。断じて日本を共産化してはならない。我々は日本国民の為、祖国日本の為、今一度これからの命を捧げて頑張ろうではないか」
 皆が「うお~っ」と言うことになってアクチーブは大人しくなった。船長さんが「皆様長い間ご苦労様でした。ようやく懐かしい故国日本に帰国出来ます。船中も無事日本に帰りましょう」それで何事もなく日本に帰ってきた。

同年6月14日 東舞鶴港に復員

 白い割烹着の女性にお茶の接待をして頂いて、何年ぶりかの日本のお茶を飲んで生涯あんなに感激した事はない。
 服や毛布の支給があり、県庁に行ったか千円ほど貰った。凄い金額で大変だぞと思ったら独身者が1ヶ月やっと暮らせるかどうかの金額だった。未支給給与という意味だったと思う。
 ニュース映画を見せて貰ったが、天皇陛下が帽子を脱いで振ったり、国民とじかに話しているのを見て涙が出た。私たちは天皇陛下は神様だと思っていた。小学校の時天皇陛下を北海道でお迎えしたが、前を馬車で通るときに最敬礼をして頭を上げてはいけない、目を合わせると目がつぶれるんだからと言われていた。
 天皇ってこんなに変わったのか、そう思った。船の中でも「リベラル」というエログロナンセンスの雑誌を見たが、当時の感覚ではとても見られる内容ではなかった。これが今の日本の状態なんだという事が段々分かってきて、これから俺はどうしたらいいんだろうと思った。

同年6月18日 沼津駅着

 手紙を出しても返事のなかった父が不思議にも人力車を駅前に置いて待っていた。栄養失調で歩けないかと思って用意したというから帰して貰った。「旦那良かったね、息子さん無事で帰って良かったね」と言ってくれた。何も人力車に乗らなくても駅から5分も歩いたら親父の家だった(三島だと思っていたら引っ越していた)

同年7月18日 兄貴が帰ってきた。

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