インタビュー記録
1941(昭和16)年12月10日 入営
- 大東亜戦争が始まってすぐ、現役兵として近衛歩兵第5連隊に入営。
- 唐山の、北支駐屯第1連隊第11中隊にて初年兵教育を受ける。
- 長辛店にて2期教育。
1942(昭和17)年4月20日 甲種幹部候補生となる
- 同年6月1日 南京金陵部隊にて将校教育を受ける
- 同年11月30日 卒業。見習士官を命ぜられる(7期)。原隊復帰
1943(昭和18)年6月25日 第36師団歩兵第224連隊(山形連隊)に転属
- 山西省の警備にあたり、大行作戦に参加
- 西省は山岳地帯で、国府軍、八路軍と3つどもえの戦いだった
- 八路軍はまともに戦争せず、すぐ逃げてしまう。日本軍と国府軍を戦わせる作戦だった
- まだ日本が勝っている感じだった
- しかし、後から考えると、アジア人の戦争、中国での戦争は子供の戦争ごっこだった
- 米軍との戦争は、猛烈な空襲、重砲弾にさらされ桁がまったく違った
1943(昭和18)年10月 南方へ転進
- 南京で部隊編成するが、どこへ行くかは極秘だった
- 装備は山西省時代より落とされたと感じた
- 南方の服装だったので、ビルマかニューギニアを予想
同年12月1日 少尉任官
- 上海から下関に着くと、住民が旗を振ってくれ、懐かしく温かい気持ちになった
- しかし上陸はできなかった
- 輸送船の甲板上は竹の筏だらけで、潜水艦に撃沈されると覚悟する
- 2、3千トンクラスでも貨物船のため10mある深い船倉に数百人も詰め込まれ縄梯子で上下した。さらに兵器や馬も入り、上陸したときには山のような荷に驚いた
- 船はジグザグ走行で、スピードは7、8ノット、狙われたら終わりでやられた船は見捨ててゆく
- 兵隊は部隊と一緒に行動しないと生きてゆけない
- 体の弱い者、負傷した者、落伍した者は置き去りにされる
1944(昭和19)年1月 パラオで元旦を迎える
- のどかなよい所だったが、病院船の橘丸がおり、ミイラが並んでいた
-
聞くと骨と皮ばかりのマラリア患者で、ニューギニアとはものすごいところだと感じる
1944(昭和19)年1月15日 ニューギニアのサルミ上陸
- アジアのジャングルと異なり、ニューギニアは大密林
- すぐに大河(モンベラモ川)を遡行して100キロ奥地に分駐
- ピオニール(オランダの属領)で現地民にオランダは滅びたと宣撫
- 人喰い人種もいるが、酋長は非常に人格者だった
- 道路偵察隊長としてピオニール~サルミ間の内陸を偵察の任に当たる
- 地図がないため歩測、最初案内役の現地人が逃げて失敗
- 酋長らと再決行し1日5キロ、約2ヶ月かけて200キロ踏破し海に出る
- 途中古参兵の初年兵いじめを注意し、無言の抵抗にあう
- ここまで来ても人間関係に苦労する
1944(昭和19)5月
- サルミはすでに敵機の空襲を受けており、制空権・制海権を取られて手が出ない。低空偵察機が飛来、ジャングル内に1名の兵を見つけてもすぐ砲弾が飛んでくる状態であった
- 師団司令部へ至り報告、司令部付を下命。敵艦来襲と共に岬へ潜行
- 20数隻が並び艦砲射撃はドラム缶の飛来の如く轟音と曳光弾は見事
- 密林内の陣地、幕舎、倉庫など爆砕、兵力は半減した。継いで敵上陸
同年5月19日 将校斥候を命ぜられ、5名連れて敵情偵察に出る
- 途中、砲撃、爆撃を受け、命拾いの渡河
- アラレへ2名で行き敵陣潜入
- 被弾して肩腕を貫通したため、部下を情報の報告に行かせ単独でトム陣地を見つけ地図作成
同年5月25日 先遣隊将校に情報を報告
- 師団長がただちにトムを夜襲し米軍を殲滅、大勝する
- その後司令部の場所を知られ猛砲撃され火の粉を浴びる
- 傷を治して第一線に復帰し総攻撃に参加。前から機銃弾、頭上から迫撃砲弾が雨アラレ状態
同年6月24日
- 砲弾により左足を負傷、7月1日ガス壊疽により大腿部より切断
- 衛生隊は医薬品、食糧共に不足し自爆・衰弱死多く、屠殺場と呼ばれていた
- 斥候の功績により師団から5名の兵隊が派遣されてきて、衛生隊から師団高級軍医部へ運ばれた
- 外へ出ると白骨街道、まだ息のある人たちが「助けてくれ」「殺してくれ」と言っている
- 後方へ入るとみな結構食事している。特に主計が太っていた
1944(昭和19)年11月3日
- 明治節に論功行賞で将校斥候の功績で賞詞を受けるが、負傷とマラリアで、頭を上げることすらできない状態。人事不省になる
- 鏡で6年ぶりに見た自分の姿は橘丸のミイラと瓜二つ、生ける屍の状態だった
1945(昭和20)年
- 米軍はサルミを撤退しフィリピンへ
- 戦闘がなくなり、現地自活の生活に入る
- 皆マラリアで衰弱死するが、なぜ生き返ったか記憶にない
- おそらく栽培収穫したサツマイモで体力を回復したと思う
- 当番兵がよくやってくれた
- 彼は終戦間際熱病で寝込み、その頃体力の回復した自分が逆に面倒を見たが、戦後復員前に亡くなる
- 日本で息子を会ったとき、彼とそっくりで驚いた
1945(昭和20)年8月15日 終戦
- 同年8月20日 陸軍中尉
- オランダは金がないため、その後も自給自足生活
- まとまっていたため、捕虜の気分はまったくなかった
1946(昭和21)年6月 氷川丸で帰還
- 国立病院へ入院、義足の訓練を受ける。マラリアと肺結核で久里浜病院で2年間療養
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