インタビュー記録
1937(昭和12)年5月 徴兵検査に甲種合格
村では一人だけの甲種合格だったが、「あれっ? 甲種か、変だな」と思った。当時158㎝、42キロしかなく、甲種合格になるような体ではなかった。 7月、日中戦争が開始し古兵が一斉に召集、また赤十字の看護婦さんが結婚して子供がいるような人まで召集された。 それを見て、開戦を見越して自分は甲種になったのかなという気がした。
1938(昭和13)年1月10日 現役兵として浜田21連隊に入営
戦局に悲壮感はなかったが、日中戦争が開戦したので生きて戻れないと感じていた。 駅で幟を立てて見送られた。3か月の初年兵教育のあと、半分は中国へ、残りは新設の歩兵第71連隊に。 歩兵第71連隊は、浜田21連隊と山口と広島出身者で編成された。
1938(昭和13)年7月宇品を出発、11月満州・ハイラル(海拉爾)の兵舎に
当時満州は平和だと思っていたので中国より良かったと思った。渡満した時まだ兵舎が建築中で、新京などで待機したためあまり訓練を行えなかった。実戦までに手榴弾を投げたのは1回だけ、銃も5~6回しか撃ったことがなかった。
23師団は新設間もなくて訓練の時間が短いことと、既設の師団は4個連隊をもって編成されているのに23師団は歩兵3個連隊で兵員数が明らかに少数であり、「弱い」と言われていた。関東軍参謀辻政信(当時少佐)は小松原師団長(中将)に直接「23師団は弱いですからね~」と言ってたと読んだ事がある。師団長には焦りもあったのではないか。
1939(昭和14)年5月 第1次ノモンハン事件
当時、日本はハルハ河を満州とモンゴルの国境だと主張していたが、ソ連はハルハ河より東の長年の内蒙古と外蒙古の境を国境だと主張していた。
ソ連軍がハルハ河を越境して入ったと言う報告が来ていた。上空では航空戦が行われていて最初は見事なほど敵機が落ちていた。モンゴルのテント(兵舎)への空爆も行われていた。
日本の飛行機はブルブルと、ソ連の飛行機はキーンと音がする。高射砲はソ連軍は白い煙を、日本軍は黒い煙を上げた。
第2次ノモンハン事件 1939(昭和14)年7月3日
出発前、戦争の事はメモをしてはいけないという命令が出て、筆記用具を取り上げられた。工兵隊がハルハ河にかけた橋を渡って夜西岸に越境した。 歩兵は横1列に並ばされていたが、夜が明けて向こうが見えるようになると戦車がずらっと並んでいた。(辻の本には400台と書いてあった。) ○それまでは馬で引いていた速射砲をこの時は初めてトラックに載せて持って行っていた。砲は車体が邪魔なので荷台に後ろ向きに固定されており、発射にはトラックを反転させる事が必要。 速射砲は比較的真っ直ぐ飛ぶので歩兵に速射砲の後ろに下がるように命令が出たところ、うちの小隊長は「日本の兵隊は下がらない、お前らが前に出ろ」と言った。そこでトラックが歩兵よりさらに前に出て方向転換を図ったところ、その途中戦車に側面を攻撃され殆どやられてしまった。
そんな馬鹿な事を言ったのはうちの小隊だけで、指揮官がどういう人物かは大切。
狙撃兵になれと命じられ、伏せて戦車の窓を狙って38式歩兵銃で撃つ。幾ら当たっても相手は平気、後でこちらの手に落ちた戦車を見るとガラスは3~4cmも厚さがあった。反対に日本軍の砲はソ連軍まで届かない。轢き殺されると思った。
戦車に乗っている兵隊は見た目は蒙古人のように見える者が多かった(所属は不明)。 自分たちの部隊ではないが、サイダー瓶にガソリンを入れて火炎瓶を作って戦車にぶつける。戦車が熱くなっているので自動発火する、これで100両ぐらいは動けなくなった。地雷に竹の柄を付けて持って走り、戦車のキャタピラに突っ込むことも行われた。死ぬことが多いし、両目を失明した人も何人かいる。また砂地なので、埋まって不発に終わる事も多かったし、砂地で生き埋めになった人もいる。 遺体は何人かは埋め、指を切って遺骨にし、背嚢に入れて運んでいたが、その後(7月27日)の戦闘で全部なくしてしまった。 水のない戦場で、気温は日中40度ぐらい。砂を掘っても出てくるのは濁り水、湖は塩水で飲めない。朝草の露をハンカチで集めて廻って絞って飲んだ。「戻ったら宍道湖の水を一気に飲みほそう」と話しあった。
夜のうちに撤退することになるが、撤退は恐ろしい。曳光弾がどんどん撃たれ明るくなってしまう。再び橋を渡ったが、この時川に落ちて捕虜になってしまった者も多い。多くの者が死んだが、戦場で不服を言う者は誰もいなかった。 皆天皇陛下の命令だから死んでいった、当時は親のためや国のためではなく天皇のために戦った。 4,5年前に初めて当時の越境は関東軍の独断で、天皇陛下がそれに対して「統帥権干犯」と叱責していたことを資料(柳楽さん注:「昭和史年表(完結版)」P32、小学館発行、1990年12月20日第3版第2刷)で見て衝撃を受けた。皆天皇陛下のご命令だと思うから戦ったのにそれでは犬死ではないか。
関東軍や23師団師団長の名誉欲のために死んだのじゃないかと思うと、腹が立ち恨めしい。自衛軍は必要だと思う一方で、この4,5年あの軍隊は間違っていたと思うようになった。
ノモンハン事件で日本人の捕虜がものすごく出たのは、軍にとっては衝撃だったのではないか。当時は戦陣訓は無かったが捕虜になるなんて考えられないことだと皆思っていた。 だからソ連の捕虜に対しても日本軍は随分ひどい接し方をした。積極的に殺すのは見たことは無いが、負傷したり病気の捕虜をそのまま歩かせて途中で倒れたらそのまま放置した。
夜襲に3回出かける
中隊ほぼ全体で行った。真っ暗なので背嚢に白い布をつけ、それを頼りに前に進む。黙って突っ込むと、ソ連軍も殆ど逃げてしまう。一度トキの声を上げて突っ込むと周囲から一斉に撃たれ、やはりこういうのはいけないとなった。 昼の攻撃では取れない小高い陣地をこうして少しずつ取っていった。 突っ込むときは背の高いものが前に出る。背が低くて良かったと思った。食料は主に乾パン、米は少しずつは補給されたが夜は炊けない。水が無いので砂地に穴を掘って濁り水をハンカチで濾して炊く。泥水を飲むので下痢をする者が多かったが、自分は大丈夫だった。ハルハ河に水を汲みに行くと、対岸にソ連兵が水を汲みに来ていて、互いに飛んで逃げたことがある。
1939(昭和14)年7月27日 中隊に総攻撃の命令
小高い敵陣地に向かってかなりの距離を走って上がっていく。弾(主にマキシム機関銃)がどんどん飛んできて、戦友がどんどん倒れていくが、不思議と自分には当たらない。 手榴弾を投げたが、投げ慣れておらず20mぐらいしか飛ばない。斜面なのでころころ落ちて来て慌てたが、幸い誰にも当たらなかった。 168人の中隊で上の陣地まで突入できたのは20~30人。 ソ連軍の将校と目があいピストルで撃たれたが当たらない。 こちらも38式歩兵銃で応戦したが弾が5発できれるので、蛸壺に入って装填しようとした。この時必ず前を見ながら装填しなければいけないと教わっていたが、出来なかった。 手榴弾の破片が着弾して右手鎖骨下に負傷、そのまま気を失った。 夜になると「お~い、お~い」という声がして気が付いた。8中隊と連絡がつかなくなったので本部から様子を見に来た、返事をしたのは私一人だと言う。 右手はまったく使えず壕から這い上がる力もないので、置いて行ってくれと言ったが、一人では帰る道が分からないと言う。どうにか引きずりだして貰って、私は日中通信兵が有線をはっていたのを見ていたので、それを伝って戻った。
野戦病院に送られる
病院の天幕には入りきらず、草っ原に並べて寝かされていた。 名前を呼んでいき、返事をすると輸送機に載せてくれた。返事の出来ない者はほったらかし。 ○民間機でハイラルに運ばれる、さらに汽車で大連に。輸送機には10数人乗ることが出来、次々に飛行機は来ていた。
1939(昭和14)年8月22日大連を民間船で出発、8月24日小倉に上陸
1939(昭和14)年9月9日 久留米陸軍病院佐賀臨時分院に入院
その病院では一番重い患者で看護婦さんが1人付きっ切りで看病してくれた。
1939(昭和14)年12月15日 東京第1陸軍病院に転院、手術
その後のノモンハンの経緯については「負けたげな」と風評に聞いただけ、新聞記事などで見ることはなかった。 ただ国境線がソ連の行った通りになっていたので負けたのだろうと思っていた。 中隊でどれぐらい生き残ったかはよく分からない。自分の経験は遠慮して話さなかった。特に誰かに止められたことはない。ただ悪い事は話さない、そういう時代だった。