インタビュー記録


1936(昭和11)年1月10日 歩兵第3連隊第10中隊入隊 現役


1936(昭和11)年2月26日 2.26事件

 前日の訓練後帰ってくる時に何故か将校、下士官がいなかった。2年兵の指揮で軍歌を歌いながら帰る。
 早朝、2年兵に起こされる。「枕元に防毒面と弾薬60発ずつを配れ、11中隊は出動しないから(起こさぬよう)上靴は脱げ」と言われ出動。
 すれ違う魚河岸に行く魚屋が、「今日の演習は面白えやあ。今日の演習は賑やかだぞ。築地の帰りに見ようよ」と言っているのを耳にする。自身も完全に市街戦の演習のつもり。それにしては「今日は薬莢(やっきょう)は拾わなくていいからな」と言われ、いつも1個無くしても血眼になって探しているのに、あれっ? と思うが入り立ての田舎の青年で分かりゃしない。
 警視庁に裏から侵入。雪が降っていた。すぐに屋上から日の丸と懐中電灯が振られ帰順したので何でもなかった。このあたりで、ようやくこれは演習ではないらしいと気付いたものの、それでも自分たちが反乱軍側だとは思ってもみなかった。
 その後内務大臣官邸に。足が速かったので、走っていくと一番先頭に着いた。鈴木少尉から「森2等兵前に出ろ、門を飛び越えて守衛を引っ張り出せ」と命令。鉄骨の冬の凍った門は柵の先端が尖りとても高い。皆にお尻を押され、ゆでだこのようになって門を乗り越え雪の門内に飛び降りた。
 「森2等兵に銃を渡せ」弾を撃ったこともなく、実包って何だべ? 5発弾を込めさせられ「守衛に門を開けさせろ」。守衛は下士官クラス、「今日は大臣はおりませんよ」と言われたと伝えると「騙されるな」「守衛長が一歩進んだら一歩下がれ、そうしないとお前が殺されるぞ」とんでもない事になったなと思ったが、実弾を持っていたので開門された。幸い後藤文夫内務大臣は本当に留守だった。

 海軍省の脇に歩哨が分散する。
 続いて赤坂見附に歩哨に立つ。「通る車があればタイヤを撃て」と命令される。車を止めると運転手の曹長が「かしこくも宮様だぞ」暗がりの中に閑院宮様の姿がちらっと見えた。捧げ筒をして通した。自分は撃たなかったから良かったが、撃ってたら銃殺だった。人間の運命は分からない。
 警視庁の巡査が召集の紙を持って飛んでくる。「君らも国のためなら私らも国のためだ。警視庁に動員で行くんだ」と言われ困っちゃって、「すまないが向こうに行ってくれ」と押しながら歩哨線から外した。
 戦闘帽の近衛が来たら自殺だと弾を込めさせられる。煙草を一服吸い廻して3mぐらい離れて互いの心臓を狙いっこしながら待機する。30分以上狙って、相手は美術学校の1年生、「お前震えているぞ」「お前のも心臓外れてるぞ」
 死というのを初めて体験する。俺らはもう駄目なんだ、兵じゃなくなるんだと。
 料亭が反乱軍の飯を炊いてくれた。3連隊からも用意されていたが、28日は1日何も食べずに終わる。

1936(昭和11)年2月29日

 三宅坂に5名で歩哨に立つ。警視庁から戦車が出てきて2台ピタッと止まる。将校が飛び降りてきて「親や友人に迷惑がかかるぞ」と言われ、靴を脱ごうと思っても雪で水に浸みて履いたままなので脱げない。将校から銃をふんだくられ「陛下の奉勅命令が下った」と聞く。
 押し込められ、将校から握り飯を食えと渡され冷やっこいのを頬張ると「お前達の親は3連隊の庭で握り飯を持って待っているぞ」と言われ、男泣きはこういうのかと思い出すが、誰かが“ばあ~っつ”と泣き出すと連れられて5人で号泣する。
 中隊に合流すると整列して将校も下士官も泣いている。俺たちは散々泣いてたからきょとんとしていると「お前たちはこの悲劇をなぜ泣けないんだ」「もう泣いて涙でないんだ」と言ったら「よろしい」と。
 鈴木少尉は優しい人。中尉が俺の頭に手を置いて、「お前は今日から兵じゃない。2年間飼い殺しだ」と言われた時、青山墓地の側を通る電車の架線がパッパッと光って誘惑するようだった。兵じゃないし死ぬほかない。中尉に「申し訳ないことをしました。死んでお詫びします」と言ったら鈴木少尉が「明日青山墓地で歩哨の演習をやるから歩哨の一般則と特別則をお前に指名するから覚えておけ」長いので便所に行って覚えた。「森2等兵、一般則と特別則を暗唱しろ」兵じゃないと言われた時の寂しさなんて、言われた者じゃなくちゃ分からない、落伍兵になるのかなと思ったが暗唱すると「よろしい!」と鈴木少尉が言った。
 文部大臣官邸に整列して議事堂が見える。鈴木少尉は「ご機嫌よう」と敬礼して議事堂の方に歩いていった。俺らは助かったけど鈴木少尉はどうなるのだろう。

 東北は日照りで、吉原や亀戸に婦女子が売られてくる。政治が悪いんだ、そんな奴は昭和維新で殺せ、昭和維新を断行しよう。百姓でやっていても機械があるわけでなく取れないので配給があったが、中国からの飯で石油臭い、鼻をつまんで食べるような時代。決起したのは好んで政権を取るとかそんなのではなかった。

 トラックに乗せられて3連隊に入ったら、銃器を入れた蔵の管理当番だった少佐が弾を取られたので拳銃で自殺した、その担架が前に来て軍曹が「貴様らのために自殺したんだ、どう思う」捧げ筒をして黙って見送った。
 4連隊に収容される。便所に行くにも死なれてはいけないので同年兵が送り迎え、彼らは戦時給与でバナナとかを持っていて食べたいなと思う。給与も貰えなくなっちゃった。
 4連隊の庭で憲兵が諮問をする。「お前は反省しているか、していないか」困らしてやろうと思って「反省していません。将校の命令は陛下の命令と同じだと教育されてきたから安心して出動しました」「それではいかん、今度来る将校はそういう事はないから反省しろ」「よく様子を聞いて大丈夫だったら出動します」と言ったらむっとしていたが、ポケットを全部机の上に出させられ軍隊内務書が入っていると「よろしい」とテーブルを引っぱたいて原隊に戻された。

※2.26事件1558名の参加者のうち将校は20名、1027名は森さんと同様の入り立ての初年兵、333名が2年兵。

 あの部隊は死地にやられるのだと噂があった。満州に渡る前に一度帰郷し2~3時間家族にあったが、自決することを心配されていて村長が君はもう特殊な人間だから村の者に迷惑をかけないようで慎重に構えろと。仲の良い巡査がずっと家の周りを廻っていた。

1936(昭和11)年5月 満州へ

 品川駅から出発、反乱軍だったけど万歳と送られて感激した。  
 宇品から5月28日大連港へ。

同年5月30日~9月 桃南警備

同年9~12月 討伐

 “匪賊”を捕まえてくると「くうき、くうき」と日本語で言ってくる。動脈に空気を打つと30秒ぐらいです~っと亡くなった。
 准尉が皆を集めて首を切ったのを見学させられたことがある。その晩衛兵に立たせられると大きな火の玉を見た。

同年12月27日~ 斉斉哈爾(チチハル)

 下士官候補を勧められたが父が上等兵になって帰ってくれば立派なもんだと言っていたので断る。
 下士官も中隊長も手の付けられない3年兵がいたが、テキ屋の親分か何かで、途中広島で良い仲になった女中さんから来た手紙を読めないから読んでくれと言う。他の奴に「森に用を言いつけたらきかないぞ」と言う。何度も読まされた。返事を代筆してあげ、匍匐前進の途中にスミレを見つけると摘んで押し花にして入れたりした。良く仕えてくれるからと焦げたせんべいを持ってきてくれた。除隊後彼女と結婚し猫のようになったと聞く。

1937(昭和12)年7月 天津を経て北京へ

 日中戦争が開戦するとその日の夜トロッコに乗せられて移動
 天津の白河にはあっちこっち死体がごろごろしている、夜巡察の時蹴躓いて手を突いてしまったら臭いのが抜けない。水がひくと死体がつかえている
 まだ鉄砲を撃ったことがなかった。捕虜を連れてきて結わえて後ろから突けと言う。今から戦争に行くんだから。演習では散々やっていたが本物、やあ~と言ったが止まっちゃったら怒られて「もう1回」、突いたら前の穴に捕虜は放り出された。小銃の裏に肉がぺったりくっついていた、並んだ連中に臭いをかがせろと言われて持って廻った。
 小隊長がおどおどしている少年兵の肩を切ってしまった。兵を集めて「小隊長に銃を向けろ」俺も向けて「俺も死ぬけどあんたも死んで貰うぞ」と言ったら威張っていたのがぺこぺこしてそれから大人しくなった、その後仏像を盗み出して柳行李に詰めていたのを憲兵に捕まったと聞く。

同年8月19日~ 北京張家口付近の戦闘に参加(チャハル作戦)

同年8月25日  迫撃砲弾の破片で重傷

 潜伏斥候を2回命じられる、敵と味方が2キロぐらいで向かい合っている間に入り、敵を味方の陣地に追い込めという。犬を連れて行き泣かせておびき寄せる。
 2回目の時、敵の音がザワザワ風の中から聞こえる。打ち出すと、中国の棒の付いた手榴弾を投げてくる。気付いたら柳の枝の下でもがいていた。斜め左に日露戦争に行って無事帰ってきた叔父さんのお札が鉄帽の中に入っているから大丈夫だと行っていたGは鉄帽が割られ脳みそが出ている。S少尉は左腕がぶらぶらして何とかしてくれと言う、腕を落としてやった。
 8人が負傷し、俺は一番前でやられたが、200m位先から敵が撃ってきて収容出来ない。4箇所から出血、あ~これで自分も終わりかと思ったが鼠径部を止血して緩めてを繰り返す、1時頃やられて来てくれたのが7時頃、20回ぐらい呼ばれて朦朧としながら返事をしたのは最後だったらしい。出血した寒さは寒風の中に裸で放り出されたようなもの。観音様の夢を見た。向こうはし~んとして緑がかった部屋みたい、黒い河があって橋を探すが何処にもなかった。
 怪我をしたり死ぬのは分かる、大人しくなって仕舞って今日は奴はおかしいと言われる、死の神が取り付いてしまう。空元気でも元気にしていた。おふくろからお札が20ぐらい入ったのをバンドに締めいていたが、弾が飛んできて小便をたれて濡らして仕舞った。これはお仕舞いだと思って土下座してお札に謝った。だから怪我も助かったと思う。

同年8月29日~11月1日 熱河省・承徳陸軍病院入院

同年12月 初年兵教育基幹要員に

1938(昭和13)年4月 北京・泰安鎮へ

 炭鉱の町。中隊は山の下に本部があった。山の上に石を築いて警備をしていたら敵が来た。もう一人を下に走らせ、自分は手榴弾を投げながら走った。翌朝、自分の手榴弾を受けたと思われる17歳ぐらいの少年が目を見開いて倒れていて「シーラ(殺せ)」と言う。  
 可哀想になって楽に死ねるよう水筒の水を飲ませた。母の手紙と思えるものを持っていて読めないけど何処の女親も同じと思った。手を握っているとす~っと死んじゃった。これが戦争かと思った。中隊の被害は4名で済んだ

1939(昭和14)年1月26日 満期除隊

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