インタビュー記録
小学校卒業後
- 小学校卒業後は家業の農業を手伝う。
- 青年学校に入って軍隊の教育を受けた。同級生でこの教育が好きでしょうがない人がいて困った。
- 青年学校では髪を刈らなければいけなかった。伸ばしたかった。
- 下級生の髪を刈ったことがあった。すっかり忘れていたが、戦後会った時に「髪の毛を刈った方は忘れても、刈られた方は忘れない」と言われた。
- 徴兵検査の結果は第一乙。
- 現役だった人は翌年の4月に入営した。
1942(昭和17)年12月 中部13部隊入営(名古屋)
- 入営する時はから元気を出して行った。行きたくはなかった。
- 1中隊1班。
- 戦地へ行く前に一泊外泊が許された。早く帰りたかったが、上官が同じ「欠礼するな」という注意事項を代わる代わる何人も話す。こっちは一分でも早く家に帰りたいのに。
- 帰った時に、家族に戦地に行くことを連絡していた人がいて、部隊が名古屋を出るときに見送りに来ていた。
1943(昭和18)年3月 104師団編入、第4野戦病院に
- 呉から船に乗船、大陸へ渡る船の中ではみんな船酔いになった。
- 広東で教育を受ける。街を出歩くことはなかった。古い兵隊が「こんなええところはない」と言っていた。
1943(昭和18)年4月 第31師団(烈)衛生隊車輛中隊指揮班に転属
- 患者を牛車を使ったりして、野戦病院や患者収容所に運んだりしていた。
同年6月 仏印(ベトナム)転進
- 向うの人は非常に良かった。
- 食べ物はあるし、良い煙草がいくらでもあった。サイゴン米はすごいうまかった。
同年7月 カンボジア(プノンペン)転進
同年8月 バンコク進駐、中旬、マレー半島(ペナン)上陸。
同年9月 ビルマ(ラングーン)上陸
同年11月 北ビルマ転進
1944(昭和19)年3月 インパール作戦参加
- 牛を1人2頭も3頭も割り当てられた。荷物を付けようとするが、牛は荷物を付けるのを嫌う。連れていくのが大変だった。結局コヒマについたのはほとんどいなかった。
- 1台だか自動車があった。モノが悪いのとぬかるみですぐ駄目になった。日本の自動車はあんなところは走れない。
- コヒマの手前のデタミという部落にいた。ここには敵の残した陣地があってそこを警備する任務についた。
- 警備をしている時は敵の飛行機がすごかった。落下傘で糧秣を落とす。飛行機の胴体から荷物を下ろすのが見えた。輸送機がボカンボカンと糧秣を落とすので、風に乗ってこっちに来ればいいのにとおもって見ていたが、なかなかこっちに来ない。
- 部落には住民がいたが、真っ黒でケシや陸稲を作ったりしていた。その陸稲を徴発していた。1人や2人で行くと現地人に殺された。殺されるので、夜は絶対に1人で出歩けなかった。
- 夜になって静かになると、原住民が別の部落に向かってわけのわからないことを大声で叫ぶ。戦友同士で「あれは日本軍の様子を知らせているんだ」と話していた。兵隊に行く前に見た映画「ターザン」と同じだと思った。原住民はふんどし一つに蛮刀を持っているだけ。
- 食べる物は何にもないし弾もなかった。
- 敵と遭遇して2人か3人戦死したことがあったが、敵はあまりこっちには来なかった。
- インド人の兵隊と行軍したことがあったが、彼等は体が大きくて色も黒いので敵機にすぐ見つかってしまった。
- コヒマには最初はイギリスの物資があったらしいが、自分たちが行ったときにはパン粉位しか残っていなかった。
- 山なので車輛は最初から何もなかった。荷物は背負っていた。
- 弓(註 第33師団)には戦車や砲があったらしいが、烈にはなにもなかった。
- 弓の戦車を見た事があったがあまりに小さくておもちゃみたいだった。それをジャングルに隠していたが、敵機に見付かって攻撃されていた。
- 空中戦を2、3回見たが、日本の飛行機はみんな逃げてしまった。
- 警備している時に2人の兵隊がやって来た。野戦病院からやって来たと言う。どうしてこっちにきたのか聞くと、「他の患者がウロウロしていて、それを飛行機が狙って来るから逃げた」と言っていた。
- 1時間交代の歩哨任務。
- 飛行機が来て、2回小さな爆弾を落として、何回も機銃掃射して来た。何もできなかった。硝煙で空気が真青になる。
- 「小銃で飛行機を落とせば2階級特進だ」と言われていた。インパールへ行く途中、124連隊だかどこかの部隊が大勢で英軍の飛行機を小銃で撃ったところ、反撃を受けて全滅みたいにやられてしまい、それから飛行機は撃たないようにと注意が来た。
- 英軍機は山と山の間の低い窪地を飛んでいた。山の稜線を歩いていると、下の方に飛んでいるのが見えて、パイロットまでよく見えた。
1944(昭和19)年6月1日ごろ 「陣地を退がれ」という命令が来た
- 「なんだろう」と思ってコヒマの方に行ってみると、その間にドンドンドンドン大砲の音が雷のように聞こえた。「あれは日本軍が撃ってるんだ」と言う兵隊もいたが、そうは思わなかった。朝から晩までバンバン鳴っていた。
- コヒマに夜、烈の生き残りの兵隊が集まって、その日の晩から反転、退がり始めた。
- 退がり始めるときにみんな銃や防毒面や銃剣を谷間に投げて捨てた。こんなものを持っていたら死んでしまう。中には水筒を捨ててしまう人もいた。
- 124連隊の兵隊達と一緒にシャン高原に入って夜中に窪地を行軍していた。124連隊はガ島で負けた後にインパール作戦に参加していて、本当に気の毒だった。「僕らはほんと運が悪いです」と兵隊達は言っていた。「ガ島の方が良かった」と言っていたので理由を聞いてみると、「ガ島にいるときは防空壕の中でじっとしていることが多かったが、インパールに来てからは動く」と言った。
- シャン高原で高い所から撃たれたことがあった。ゲリラだと言っていたが真っ暗でよくわからなかった。
- 伝染病が危ないので飲むなと言われていたが、飲まない訳にはいかないので沢の水を飲んでいた。それで下痢をしたり、アメーバ赤痢になった。
- 時々スコールがあり、そのときに裸になって体を洗ったが、すぐに熱発になった。
- 寝るときは露営。戦争中は屋根の下で寝た事がない。一度木の上に寝ようとしたが、だんだん滑ってしまい寝られなかった。体を濡らしてはいけないので、飯盒や鉄帽を腰かけにしていた。炊事をやるときに、水筒で湯を沸かしてそれを湯たんぽにして寝ていた。
- トカゲとかはあまり見なかった。食べた覚えはない。インパール作戦が始まってから終戦まで補給は一度もなかった。
- ノースアメリカンの飛行機は50ミリの大砲を積んでいて撃って来るのでおっかなかった。
- ヒルがうんとたかる。小休止の時に足を見るとべたべたついていた。
- 撤退中、自殺する人がいっぱい。戦友に担架で運ばれていたり、肩を貸してもらっていた人は戦友に申し訳なく思って手榴弾で自殺してしまう。
- 部隊から逃げたり離れたりして一人で行動した兵隊はほとんど病気になって死んでしまった。病気になった者はほとんど助からなかった。薬はないし、みんな死んでしまった。
- 火葬する余裕なんかない。焼くことも出来ず、指を切って飯盒に入れて持って帰ったり。中には埋葬した者もいたが、遺骨もろくにとれなかった。何にも出来ないので手を合わせて拝んで通るだけ。
- よその隊の者は知らないからほっちゃらかし、どんどんどんどん後退した。
- 退がっている時に道端で「兵隊さん」と呼んで食べ物をせがむ兵隊がいた。梅干しの種をもっていたので渡したら拝まれた。そのあとそれを食べたのかどうかは知らない。
- 気が狂う人もいた。マラリアで熱を出して頭をやられた人がいて、ちょっとでも飛行機の音が聞こえると恐がって動いて逃げようとする。そのまま飛行機に見つかってやられてしまった。かわいそうなものだった。
- 戦場から逃げて現地人の家にもぐってしまう兵隊もいた。仮病を使う人もいた。あんなところにいたら仮病を使いたくなる。
- コヒマから退がって来る時には敬礼しなくなった。それだけ体力が消耗して、程度が悪くなっていた。少尉や中尉の下級将校には敬礼しない。むこうも何もしなかった。
- 患者を後送している時に、患者がいなくなればこっちも助かるので気の毒だけれど、投げたりした。患者も察して手榴弾で自爆したりした。担架の上で寝たまま自爆した人もいた。中隊からも班長が盲腸になって自爆した。
- どこの部隊か分からないが、看護婦もいた。男といれば助かると思ったのか。顔だけは日本人の顔だった。
- アラカン山脈は大変だった。
- 夜は一人で寝ないようにという命令回報が出ていた。日本兵に襲われてしまうから。とにかく地獄。
- 地雷もあっておっかなかった。
- 飢えと栄養失調と病気で亡くなる。百人いたら70人くらい亡くなった。
- 街道の道端で亡くなっているのは気の毒だった。白骨化したのがいくらでも並んでいる。埋葬する余裕もない。何にも出来ないので、手を合わせて拝んで通るだけ。
- とにかくひどかった。生きて帰って来たのが不思議。運も良かったし丈夫だった。「男が一人だけの家は死ぬ」なんていっていたが生きて帰って来た。
- ドロドロの道を歩いていると靴の底が抜けた。それを針金や蔓で縛った。裸足では歩けないが、中には裸足でいる人もいた。服はボロボロ。シラミは湧く。顔も洗わない、歯も磨かない、もちろん石鹸なんかない。
- 食べ物はないので食い延ばし、ちょこっとの米を何回にも分けて炊いた。飯盒炊爨で火を炊こうとしても、雨で濡れて火がつかない。火がやっとついても、煙が出ると飛行機に撃たれた。米はほんのちょっと。草を入れて、そのまわりにちょっと米がつくので「ほたるめし」と呼んでいた。重湯みたいな物を飲んでいた。一回腹いっぱい食べれればいいと思っていた。
- 栄養失調でアメーバ赤痢がすごかった。どんどん患者が出てきた。
- チンドウィン河の渡河点を目標にやってきて、そこで大勢死んだ。百メートルの間に何人死んでいたか分からない。
- 夜、気づくと道端に白骨死体があるということが何回もあった。親切な戦友は死体を見つけると「やい、仏さんがいるぞ」と言ってくれる。
- 渡河点までの近道になるので、すごい気候の悪い渓谷を通った。そこは伝染病の蔓延している地帯で、原住民もおっかながって通らないところ。ここであらゆる伝染病にかかって大勢死んだ。
- 渡河点に着いたが船がこなかった。川幅は2キロくらい。船を待っている間にも大勢死んだ。
- 敵の飛行機は日本兵を見ると攻撃してくる。何も出来ない。
- 病気の人の背中にはハエがたかる。それを振り払う元気のない人は幾日かたつと必ず亡くなった。
1944(昭和19)年8月頃 チンドウィン河を渡河
- 現地人の丸木をくりぬいて作った船を誰かがとって来た。一つの船に2、3人しか乗れない。現地人が船頭に立った。それで川を渡って「やれやれ」と思った。
- 河を渡るとビルマの平坦地。暑い。
- 食べるものがないので徴発にいった兵隊が殺されたと聞いた。その時に「部落に探しに行け」と命令が出たので行って見ると、同じ師団の他部隊の主計将校が殺されていて、小さい木に血がかかって真赤になっていた。もう1人、同じ部隊の兵隊が殺されたらしく、名前の付いた脚絆が落ちていたが、死体はどこをさがしても見つからなかった。
- ビルマの「イェウ」という部落に集結。そこはインドの中より食糧が良くて、砂糖もあった。甘いものが欠乏しいて、みんな食べたがった。砂糖といっても真っ黒な精製してない物だった。
- 塩もなくて塩分も欠乏。現地人からもらったり買ったりして食べた。ビルマ人はいい人。よく助けてもらった。
- マラリヤになった時、ビルマ人のお寺の本堂で寝ていたら、夜中に年をとったお坊さんが何度も来て、気 分の良くなるハッカかなにかを塗ってくれた。そのお陰で気分がよくなって「ありがたいなあ」と思ったが、隊がすぐに出発してしまい、お礼も言わないまま 行ってしまった。そのことが心残り。
1945(昭和20)年1月 イラワジ会戦参加
- 「イラワジ会戦」と名前はいいが、逃げるばかり。
- 敵は戦車と飛行機でやってくる。逃げて歩くのが精いっぱい。戦車ばかりたんと来て、おっかなかった。
- イラワジ会戦中、初年兵をよく殴っていた古参兵が戦死した。腹の中で「ざまあみろ」と叫びたかった。
1945(昭和20)年5月 サルウィン河防衛線参加
- 中隊は3個小隊になってしまっていた。
- インパール作戦の後に、内地の近衛連隊から井上侯爵の孫が補充兵としてやって来た。いきなりこんなところに送られてきてかわいそうだった。
- インパール作戦後、佐藤中将と代わって新しくやって来た師団長は後退してきた兵隊を見て「くさい」だとか「汚い」だとか言ったらしい。そのうわさはすぐに広まって、「今度来たのはバカヤローだぞ」なんて話していた。
- 敵の襲撃を受けて逃げるとき、方向が全然わからなくなってしまうので星の勉強をした。
- 一度、血便が出てアメーバ赤痢になったが、野戦病院や患者収容所に入れられてしまうので黙っていた。すると、ありがたい事にだんだん治った。野戦病院には薬があるわけでもないし、できれば知り合いのいる元の部隊にいたかった。
- いつも脚絆をまいていつでも逃げれるようにしておくよう命令が出ていた。ある時、徹夜で歩いて敵ここまでも来ないだろうと思って、脚絆を解いてウトウトしていたら、戦車のキャタピラの音が近づいてきて50メートルくらい先の所をぐるぐる回っていた。いそいで靴を履いて逃げらたら、しばらくして戦車もいなくなった。
- ラングーンに着いた時は方面軍司令部はみんな逃げてしまった跡だった。
1945(昭和20)年8月24日頃 敗戦を知る
- マルタバンにいた。上官の下士官がどこかに連絡に行って来て、「俺は悪いこと聞いてきたや」と言う。「どんなこときいてきたんだい」と尋ねると「なんだか日本は負けたらしいよ」と言った。
- 日本は最後には必ず勝つと思っていて、そんなことは想像もしてもいなかった。「本当に負けたのかなあ」と疑ったりした。
- 内地の事情は何にも知らなかったので、「俺らはこんなに苦労したのに、内地は馬鹿に簡単に手を上げるなあ」と思った。
- 「山の中に入った方がいい」という人もいたが、だんだん「おとなしく武装解除された方が良い」という事になった。
- 「生きてたって殺される」と言って、中にはビルマ人の家で世話になる者もいた。ビルマ人は日本のニュースを知っていて「日本に帰るな」と言う。「なんでだ」と聞くと、「日本はみんな焼けちゃって住むところがないからビルマにいろ」と言った。
- 武装解除といっても2、3人に一丁しか銃がなかった。小銃の菊の御門をやすりで削れと命令された。「何言ってんだ」と思った。穴を掘って火を付けて、そこに小銃を投げ込んだ。
1945(昭和20)年秋頃
- 収容所に入るまで現地人の家に入った。デマトビという名前の湖の上に家を建てて住んでいる部落で、ボートでしか行けない部落に連れて行かれた。「なんでこんな所に」と思ったが、イギリス軍は日本軍が逃げられないようにと考えたのかもしれない。
- イギリス軍の仕事をした。穴を掘ったりの重労働。
- 衣類を盗めるので、皆被服の倉庫に行きたがった。たまに見つかる者もいたが、殺されることはなかった。
- それからメイクテーラに行って仕事。メイクテーラは大きな湖と寺があって綺麗な所。
- 英軍はインド兵とかグルカ兵ばかり。グルカ兵は「日本人はグルカに似てる」と言って笑っていた。
- 収容所は124連隊と一緒で千人くらいいた。退屈なので演芸会もやった。演芸部があって俳優がいた。家に早く帰りたくておちつかない。
- 給与もだんだん良くなった。米も出たし紅茶も出た。栄養がついてマラリアになる者もいなかかった。
1947(昭和22)年5~6月 復員
- ラングーンから復員船に乗船。1万トンの摂津丸という船。
- シンガポールで油を給油、2週間ぐらいかかった。台湾まで来たら南十字星が見えなくなって北極星が見えるようになった。「いよいよ近くまで来たなあ」なんて言ったりしていた。
- 帰りの船では誰も酔わなかった。
- 呉に上陸、寄宿舎みたいなところに入った。
- 英軍から許可を得て毛布を一枚もらって帰って来ていたが、寄宿舎入るときに係員に返納しろと言われた。MPにみつかるとビルマに送り返されると言うので返したが、どうも係員はその後闇に流したらしい。
1947(昭和22)年6月1日頃 自宅に着き復員
- 服にシラミがついていたので家に入る前に煮沸消毒した。
- 最後までインパール作戦は中止になったということは聞かなかった。