インタビュー記録

1943年(昭和18)年8月10日


志願して、広島県大竹海兵団入団 日本がどんどん負けていくのを見て何かしなければ、己を捨てて忠義に生きたいと思った

1944(昭和19)年7月 第31特別根拠地隊に転属


ルソン島・北サンフェルナンド基地隊大発に配置 救助艇に乗り、沖合での沿岸警備、救助、物資や郵便運送など 米軍のグラマン機が撃墜され、珊瑚礁でパイロットが溺れかけた。海に入り救助して病院に渡したが米軍上陸までに首を切られたと聞く
 

1944(昭和19)年12月  米軍上陸が近づき陸戦隊の編成に


海没した艦艇の生存者や現地邦人も組み込まれた。

1945(昭和20)年1月7日 激しい艦砲射撃が始まる
その後暴風雨で日米両軍の遺体が多数浜辺に打ち上げられた。民間の少年少女の遺体もたくさんあり、皆パンタロンを付けていなかった  兵隊は研ぎ炭のよう、訓練を重ねると自分を削って鋭敏になってくる。サンフェルナンドを離れるのが近くなり、“立つ鳥跡を濁さず”と一帯の見回りを徹底的にやった。 それはピアノのある実業家の家で、行くと前に憲兵が銃を構えて立っている。中に入ると2体の遺体が床に転がっておりピアノの上に乱数表があった。床下がめくれていて短波受信機がありスパイの家だった。ピアノを弾いていた女性がらせん階段に逆さづりに磔になっておそらくは背中から突かれ血だまりができている。妊婦に見えた。洋服箪笥を開けるとワンピースがたくさんあり、足が6本あった。その中に小さな足がある、子供に違いない、思わずパーンと扉を閉め「異状な~し」と叫んだ。その後も見つからなかったかは分からない。 米軍上陸に備え岬の先端の陣地に配置された。兵隊は殴られるよりは闘っている方が楽、離れた所にいる方が楽という気持ちがあって決死隊に志願した。若かったし、「米軍来れるものなら来てみい」と尻を出したりして、ひょうけているようなところがあった。結果的にサンフェルナンドへの上陸はなかった。

1945(昭和20)年1月20日~  山中を移動


キャンガンで10人ほどの集団に子牛の生姜焼きだと弁当箱を勧められた。見るとウジが湧いている、おかしいわね。アリは寝ていると腕を這い鼻や耳を這う。マラリアの人は起きられない。アリが喜ぶと2日と言われた。クマオの憲兵隊から出動要請があり選ばれてしまった。分掌所が襲われ遺体は生殖器まで切断されているという。通訳と一緒に村を回る。「危害は与えない」と通訳が言う。1件の家で娘さん3名が接待をしてくれる。水谷さんには6名の姉妹がいたこと、1月の海岸の遺体を思い出しやめておこうと思った。鳥の腿の焼いたものをごちそうしてくれる。戸を開けると3名のゲリラが縛られていた。救助をやってきた感覚では撃ち合いはやるが、捕らえられた者を殺すことはない、接待にもなっていると思ったが、上官は「なっていない」と言って(刀で首を落とす仕草)。敗戦後この憲兵隊の責任者は死刑になった。 全体で1200名いた移動部隊は600人ぐらいに半減、残っているものも骸骨となっている。全体の投降を進めようとした中間の隊長は、(恐らくは)下士官に殺された。

1945(昭和20)年9月18日 投降


武装解除を受けカンルバンの収容所へ、 軍刀が集められ付いている血液の検査があって、戦犯を探す判断根拠になっていた(方法の詳細は不明)

1946(昭和21)年1月5日 復員



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