インタビュー記録
1942(昭和17)年1月10日 現役
独立混成第1旅団第73大隊へ編入、河北省大名県・大名城内へ 初年兵教育は30~50は叩かれないと寝られない トーチカ(分哨)へ分散、夜は橋を壕から上げるが、夜中に電話線が切られる。朝起きたらトーチカの廻りにびっしりと宣伝ビラが貼られていたり。報告すると「初年兵には見せるな」。と言ったって、見つけたのが初年兵なんだから。
1944(昭和19)年2~5月 第117師団独立歩兵第204大隊に
中国の師団の南方への移動に伴い、中隊ごと新設部隊へ移動再編現地召集兵を多数迎え新郷地区へ移駐
1945(昭和20)年、内地から来た初年兵の水筒が竹筒で驚く
1945(昭和20)年6月10日 師団が北支から満州へ移動
1945(昭和20)年6月26日 満州・白城子飛行場警備へ
1945(昭和20)年8月9日 ソ連侵攻
白城子からの撤退命令。引き揚げる最後の列車で、兵士も民間人もこれに乗ろうと皆が必死。間に合おうと最後子供の手を離す親を幾人も見て、あれはどうなるんだろうと思った。
1945(昭和20)年8月12日 大賚(ダイライ)へ移動
大賚の官舎は食卓が食事中のままで泥棒が入った後の様に散乱していた。将校は行李2個、下士官は1個、兵隊は自分で持てるだけのものを持っていって良いとなる。
1945(昭和20)年8月15日 大賚にて終戦を聞く
これも最後の汽車で新京に移動、新京駅前の広場で武装解除
1945(昭和20)年8月25日 建国大学にて作業第8大隊へ編入 上古正樹少佐以下 1,500名
1945(昭和20)年9月8日 黒河よりブラゴエシチェンスクに入ソ。黒河には満州の物資が大量に集められていて積み荷作業にあたる
駅から北方15キロの515勤労大隊に収容される。雪原に杭があるだけで、天幕生活をして、穴を掘り半洞窟宿舎を建てる。この間も毎日伐採作業に出され、宿舎が完成するまでのわずか1ヶ月半で栄養失調になるものかと思うほどだが、181名の死者が出た。あまりに515勤労大隊の人々が弱ってしまったため、東方三キロ地点にあった第516勤労大隊と人員を入れ替えたが、作業内容・状態は全く変わらず更に多くの死者を出す。約5ヶ月間で約400名。食事はコーリャンのスープ、幾ら煮てもおもゆにはならない。パンは350gだがノルマが達成できないと減らされる。
実はあまりに衰弱して、この頃の記憶だけが殆ど無い。教育隊で後輩を世話していたので、その人たちに助けて貰ったのだと思う。当時の事も戦後彼らに聞いて廻った。 施設の柵のそばに寄ると脱走と見なされ撃たれてしまう。奴らは面白半分で撃つ。春に草が出てきて取りにいくとそういう事が起こった。
1946(昭和21)年5月下旬~
ウラル山脈を越えバシキール共和国のウファ地区に分散収容 病院の改築、伐採・貨物の積み込み・卸しなどにあたる 作業も楽になり、気候もチタよりは暖かく、ここで体力を回復できた
1948(昭和23)年10月 ナホトカへ
先発隊(主力)は帰国したが、全員は行けず「残る」と言った。何故かねえ? そういう人も結構いた。今考えると何でかなと思うけど、皆も残ったからかな? 仕事も楽になってたしね。