インタビュー記録
1942(昭和17)年3月23日 卒業した次の日
一週間講習にいかされた。そこで手続きをする人と自宅に帰って親と相談する人がいる。私は勝手に1人で申し込みをしてきた。本当は5ヶ月の訓練だが、所属している松田中隊(註:第4大隊第3中隊)は成績がいいので4ヶ月。
先遣隊がいった後に280名くらいがついていった。
上田に行って、17年5月に街中を行進して(市中行進)、鍬の棒を担いで行進、皆に見送られた。
同年5月27日 に満州黒河省嫩江県八洲義勇隊訓練所
しばらくは、開墾をするので軍隊教育、学科をした。講堂に入って、普通に教室で授業。先に入っている先輩たちには、すごくいじめられた。上級生が脅かそうとして、夜の便所に犬の死体をぶら下げている、子供だったからすごく怖かった。
夜は相当気温が下がる。濡れたものには素手でさわってはだめ。鉄とかさわるとくっついてしまう。夏は暑い。
コーリャンが食事。食器がひとつ。腹が減るからジャガイモをかっぱらってきたり、落ちている残飯を食べてしのいだ。狼がいた。豚とか放し飼いで、夜は一箇所に集めた。畜産部の連中が管理をしている。狼に食べられないようにした。夜は火をたいて、歩哨に立つ。
1944(昭和19)年9月 201部隊軍属中西隊
それまでは、義勇隊扱い。開拓団に入るのが3年間の目的だった。
弾薬庫の警備に携わる。周囲に“満人”の部落があるので、弾薬庫の周りで歩哨をしていた。南方に兵隊がとられたので、われわれが代わりになった。何かがあったときは非常呼集で呼ばれる。一時間ずつの交代。
銃は一丁ずつもっている。当初は危ない目にあったことはない。実弾が飛んでくるようなこともなかった。
1945(昭和20)年8月10日くらいから
最後の一兵まで戦うと荷物を燃やして、弾薬庫を爆破した、中はガス弾。弾はあったが、撃つ大砲がなかった。兵長の1人が、「日本はもう負けるぞ。大きな声でいえないけどな」と言っていた。現場の兵士も感じていた。銃がないので、木銃を支給されていたので、余計に感じた。戦うにも戦う兵器がない状態。弾薬の処理に関しては、本部から正式な命令があった。
“満人”が反乱をおこしていた。本部で隊長が「君たちは若い。今後の日本のためにすぐに軍隊をでろ」と言われていた。
飛島建設の倉庫に収容された。あふれた人間は、満鉄の官舎に世話になった。終戦から引き上げる人もいたし、“満人”のところに仕事に行く人もいた。
ソ連兵は、時計を1人で5つつけている兵隊もいた。性質が悪い兵隊だった。女性は連れて行かれてしまうので、男装している。夜にロシア兵がきて、女性かどうかを確かめるために胸をさわる。そして、女性とわかると馬車に乗せられてしまっていた。日本側も当番を決めて、ソ連兵がくるとカンカンと鳴らすようにした。
1人銃殺されたやつがいた。スパイだと言われて、馬車に乗せて街中を練り歩く。民衆が「殺せ」と叫んだら、歩いている後ろからバンと撃たれて殺されていた。民衆裁判は、ほとんどの場合殺されてしまう。裁判がかけられると聞いて見に行ったら、看守がいて、日本人だから仲間と思われた、すぐ逃げた。宿舎に戻って怖くて2時間は震えていた。
死体の服はすべてはがされて、売られている。死体はそのままほっぽりぱなし。死んだら本当にすぐ脱がされていた。
列車の中で亡くなったら、列車から落としていた。シベリヤ行きの列車から飛び降りて、5人で逃げた。そのまま“満人”の家に行って、住み込みで鍛冶屋のハンマー降りをした。靴屋を紹介してもらったりした。 目隠しをさせられて、ある駅につれていかれた。列車がはいってくると夜中だろうがなんだろうが、起こされて積み込み作業をさせられる。交代要員がこないと、ずっとやっていた。
1946(昭和21)年7月くらいに、引き上げ
途中で電車が動かなくなった。歩いていると、途中八路軍がいて、金目の物を取ってしまう。使役の依頼があると、若い人間がいつも出された。
上陸時には、腸チフスの消毒をされて一週間隔離される。そこで発病しなかったらようやく上陸できた。友達の奥さんは発病したので、残された。
1946(昭和21)年9月 帰宅
終戦になった時に、チチハルに行った時も写真はすべて持っていた。焼却命令が出たが巻脚絆の中に隠し持ち帰った。