インタビュー記録

1943(昭和18)年8月15日 召集(第1乙種) 横須賀海兵団入営

 海軍の召集令状、「ああ良かった」と言って役場の人に不思議がられた。ただただ海軍の服が着たかったのでとにかく嬉しかった。戦争が怖いとかはなかった。

同年8月25日 州の崎海軍航空隊(千葉)で3ヶ月の新兵教育

・301海軍航空隊(追浜)
 301海軍航空隊はトラック島へ向かう予定だったが、先発隊が中継のサイパンで玉砕してしまい、後発隊は父島に行くこととなる

1944(昭和19)年6月頃 祥瑞丸で父島二見港へ

 入港直前に魚雷が発射されたが交わして入港出来た。岸壁で魚雷が破裂するのが見えた。 この魚雷を発射した潜水艦からの信号で、翌朝戦闘機部隊の機銃掃射やもの凄い爆撃を受ける。命からがら上陸。
 父島には10日ぐらい。洞窟に急ごしらえの牢屋があり米軍の捕虜を見た。

南方諸島海軍航空隊

 大発で硫黄島へ、301海軍航空隊は立て直しが無理になっていたので、そこにあった南方諸島海軍航空隊に編入、航空隊と言っても飛行機は1機もなかった。

硫黄島第1飛行場(千鳥飛行場)付き西波止場の見張り員に

 西海岸の揚陸場の警備や陸軍と共同で島内に日夜壕を掘る。 空襲や艦砲射撃はあったがさっと引き返す。新兵で使い走り。まさか何もない硫黄島に米軍が上陸するとは思っていなかった。
 米機が一度西海岸沖に落とされた事がある。
 1944年暮れ頃、物資を揚陸中の船が、潜水艦の情報が入り港を離れたが、誤情報で潜水艦のいる方向に向かってしまい撃沈されてしまった。2~3日後、内地からの飛行機の操縦士が物資の散乱やサメがいっぱい泳いでいるのを見たと聞いた。

1945(昭和20)年2月16日 米軍攻撃開始

 見張り要員だった。朝、艦砲射撃が1発来て双眼鏡で見たらどんどん船が増えてきて、瞬く間に雲霞のごとくという表現がぴったりなほど真っ黒に。2重3重に遠巻きに。米兵の作業は見えるし、沖合には戦艦や航空母艦も見える。ただごとじゃないと司令部に連絡。「分かった、動揺する事無く配置についていろ」という指示。

同年2月19日 米軍上陸

 地上の戦闘の教育を受けたことはなかった。鉄砲なんて持ったこともない。抵抗する手段がない。九州の陸軍の部隊が陣地を死守してくださった。海軍さん、ここで頑張りなさいと言う。でも小銃1丁と弾100発しかない(一緒にいた7名で ※手記より)。戦死者の銃から弾を抜いて撃ったりしているうちに、小さな島は瞬く間に米軍の思うつぼ。黒人と戦車を先頭に連射式の自動小銃で撃ちながら進んでくる。日本はぱちん、ぱちん。抵抗は出来ない。艦砲射撃はぼんぼんぼんぼん来る。当たった兵隊は空に飛ばされて亡くなった、千鳥部落あたりの出来事。

 2月末には北へ撤退を重ね、最後はよく分からない、恐らくは北部落あたりの壕に入った。

 移動は夜間を利用、昼間はヘリコプターがぶんぶんぶんぶん、ぶんぶんぶんぶん回っている。ヘリコプターなんてそれまで見たことがなかった。真っ暗闇を身体を沈めて、陸軍も海軍もない。昼は壕の中でじっとしているしかない。硫黄等だから暑い。汗びっしょりで裸でじっとしているだけ。夜は水を求めたり、食糧を探したり。自分は自分の警備していた場所しか分からなかったが、陸軍には長く駐屯していた部隊もあったので、彼らは何でも知っている。連れていって貰うしかない。動くのは夜だから昼の様子は分からない。ヘリコプターやグラマンが飛び回っているのを壕の中で聞いているだけ。

 野菜はないから草を食べた。海軍は煙草の配給があったが陸軍はなかったのであげると大事そうに1本を吸っていた。その兵隊は苦しい死に方をした。夜襲に出かけ、米軍は防衛網を張っている、近づくと足を引っかけて照明弾が上がる、敵の餌食、ばばばばんと。

 地下壕を探し当てると火炎放射器で焼き殺す。それを横目で見ながら中に進んで残っているだろうと思われる水や食糧を確保する。それを考えると人間として何とも申し訳ないなという気持ちが起きる。その時は生きるためだから何とも考えなかった。人間の生理の性というか。アッと思うぐらいで、それより頭の中は食べ物が欲しい、水が欲しいでしょ。一瞬は気の毒だなという気持ちはあるんですよ。そんな状態で生きてきて人に発表出来ないでしょ。内地の人も苦しい思いをしたんでしょ、まして軍人でしょ。生きてよく帰れたな、なんて言われると思って。とてもじゃないけど言えなかった。

 何を食べたんだろうなと記憶が無い。乾パンが主、水は雨水を飲んだり、野草から水分を取ったり。陸軍の倉庫に玄米があったのを食べたり。飯盒に水を入れて硫黄が吹いているところに半分ぐらい埋めて置いておくとおかゆになる。

同年3月21日 硫黄島玉砕を発表

 米軍の飛行機が低空から呼びかけをする。「酷いことはしない。あんた達にも故郷には親もあり子もあり」と声をかけられる。2世3世が日本語はぺらぺらで呼びかける。気持ちが揺さぶられる、誰だってそう思う。
 陸軍の伍長で1人だけ「俺は英語が出来る、米軍はそんな残虐な行為はしない、紳士的だから一緒に出て捕虜になってもいいじゃないか」と声をかけてきたが、皆がそんなのは信用出来ないと5~6人誰も同行しなかった。彼は度胸が良くて一人で出て行った。少し前なら撃たれただろうが、その時はそんな気力もなかった。1~2ヶ月敗残兵の生活だから。尉官はいなかった、残っているのは兵隊ばかり。
 「私はサイパン島で捕虜になった、けれども米軍の捕虜の扱いは非常に良い、何ら心配することはないから出てきなさい」という呼びかけもヘリコプターからあったが誰も応じなかった。人間、いざ出て行くときは怖い。鬼畜米英の教育を受けている、中国でやった事も子供ながらに聞いていた。戦争とはそういうものだ。出て行けばやられるという気持ちがあった。月日は過ぎて余計苦しくなる。

同年4月頃 負傷

 玉名山周辺の壕からどこでもいいから海岸に出たら逃げ出せるのではないかとなった。
 夜、一緒にいた5~6人で出て行ったら、壕のすぐ側で防衛戦にひっかかり、後ろにいた“まごめ”一等兵がやられて「三田さん」と声をかけられたが、自分も弾が飛んでくる。土手に伏せたが、上から手榴弾が飛んでくる。左の足の付け根に2発破片が入った。
 元の壕に戻って、1週間~10日、薬も包帯もないまま壕に横たわっていた。止血は仲間がやってくれたが、足が化膿してぱんぱんになった。

同年5月初め

 そこに呼びかけがあってどうしようもないと思って仲間と出て行った。皆疲労困憊し、観念して、何の気持ちもなかったと思う。特段の感情はなかったと思う。
 真っ昼間に出て行ったので明るく、食べていないので疲労困憊もして、すぐに意識混濁。野戦病院ですぐに手術をして2日後気が付いた。米軍の看護兵が握手を求めてくる。ボーチャーという兵はとりわけ親切で彼女の話までしてきた。

同年7月頃 グアム島に転院

 →ハワイの収容所→サンフランシスコの収容所→(シアトル)→ペンシルベニアの収容所→ノーフォークの収容所→(シアトル)→帰国
 1~2ヶ月ごとの移動、何故そうしたのかは分からない。戦争をしていても米国の余裕を見せたかったのか? 特に何の感情もなく色々見られて良いぐらい。
 敗戦はペンシルベニアに大陸を横断する列車の中で知った。1ヶ月ぐらい、缶詰の食事。
 ハワイで金城という捕虜の少年(民間人?)に会った。サイパンの捕虜、グアム島の捕虜などに会った。ノーフォークはイタリア兵、ドイツ兵の捕虜も居た。

同年12月中旬 横須賀に帰国

 あこがれの横須賀に捕虜で戻るのは気が重かった。でも生きて帰って良かったと思った。部落の9人の同級生のうち4名は戦死していた。今でも毎朝拝んでいる。

1946(昭和21)年1月7日 復員

 寒いので米兵の古着を着て、背中にPWと書いてある。リュックを背負って。家に帰る道に今の奥様が当時子供で遊んでいた前を通った。○○も帰ってくるぞと声をかけたらしい。オーバーは貴重品なので、染料を買ってきてPWを自分で黒く染めて仕事に着て行ってた。
 1944年7月末に母が死んでいた事を知る。父は無口で、特に何も言わない。郵便局に復職。

三田さんからのメッセージ

 戦争に負けたから捕虜だと言っても変な目で見られなくなった。国中が捕虜になったようなもん。勝っていたら、捕虜は銃殺刑だし、米国から帰っては来られなかった。両親や兄弟には恥ずかしいから復員半年後ぐらい3男(すぐ上の兄)がニューギニアから復員した時、自分は父島に居たと嘘を言っていた。奥さんや子供に話したのは10年ぐらい前。
 戦争はどういうものか自分で分かっているから、思い出すのは嫌だから、本やそういう番組はあまり見なかった。
 米軍は鬼畜米英、動物と同じでどんなに残虐な事をするか分からないという教育を受けたのに、捕虜になったら紳士的でヒューマ二ズムな対応を受け感激した。それを逆に今のアメリカ人や為政者に知って欲しい。

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